●2024年4月14日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネの手紙第三から「たましいの幸い」という題で、ポイント3つ上げていきます。  

1.三つの幸い…世界最大の教会を建て上げ、導いてこられた韓国のチョー・ヨンギ牧師(1936~2021)は、このⅢヨハネ2節から、「三拍子の祝福」ということを提唱しました。「たましい、経済、健康」の祝福です。伝統的な多くの教会では、それまで「たましいの幸い」のみを強調してきたので、チョー牧師の提唱を批判的に受けとめることがあったようです。しかし、伝統よりも聖書がどういっているかが問われるべきでしょう。創世記に出て来るアブラハムは全ての面で祝福されていました。つまり、神を信じ、長寿で、しかも富んでいました。そして、その子イサクも祝福されていました。Ⅰ歴代誌4:10でヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げ、災いから遠ざけてください。」と神に祈って、それが叶えられました。旧約聖書だけではありません。このⅢヨハネ2節の他にも、主の祈りの中で、マタイ6:11では「日ごとの糧をお与えください」と、13節では「試みに会わせないで、悪からお救いください」と、決して「たましいの幸い」だけを求めてはいません。但し、マタイ6:33では「神の国とその義とを第一に求めれば、その他の必要は与えられる」ということが語られていますから、やはり、優先すべきは神の国とその義、すなわち「たましいの幸い」ということです。

2.真実な行ない…この手紙の内容からすると、ガイオは土地と家を所有していて、そこが当時の教会の建物として用いられていたのかもしれません。たぶん、当時の巡回伝道者のような人々を、教会として使っている自分の家に招き入れ、そして何らかの奉仕をしてもらい、彼らをもてなし、また、次の旅に送り出したのでしょう。そのことに対して、ヨハネは「真実な行ない」と評価しています。昔も今も、教会で、ガイオのような役割を担っている人は多少いたかと思います。そういった教会の奉仕に限らず、今日、私たちはそれぞれ様々な役割を受け持っていることでしょう。何をしていても、やはり、神の前にその役割を真実に担っていきたいものです。マタイ12:36~37には「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」とあります。主は私たちの一挙手一投足をいつも見ておられます。もちろん、誰であれ、完全な人はいません。だからこそ、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、神の赦しをいただきながら、真実な生き方を求めていくのです。

3.デオテレペスとデメテリオ…似たような名前の人が二人出てきますが、デオテレペスは行状が芳しくなく、教会の中で問題を起こしていたようです。一方、デメテリオは正しい真実な人だったようです。11節では「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」と勧めていて、ヨハネは、ガイオがデオテレペスから悪影響を受けないように、むしろデメテリオを見習うようにと言っているのですが、この辺りの内容が、この手紙の本論とも言えるでしょう。詩篇34:14~15には「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。【主】の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。」とあります。全知全能の神は生きておられ、私たち全ての行動、言葉、その心の内側も知っておられ、それぞれに正しい評価を下されるのではないでしょうか。私たちは、この真の神を恐れ、柔和な生き方、人の徳を立て、平和を求める生き方をしましょう。イエス・キリストは「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」方です。このキリストに倣って祝福される道を歩んでまいりましょう。

●2024年4月7日(日)礼拝メッセージ要旨

ヨハネの手紙第二から「愛のうちを歩む」という題で、ポイント3つ上げていきます。  

1.真理のうちを歩む…長老ヨハネは、選ばれた夫人とその子どもたち=手紙の宛先の教会の人々が「真理のうちを歩んでいるのを知って非常に喜んでいる」と言っています。また、ヨハネの福音書14:6でイエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。「道」とは、私たちが歩むべき道です。また救いの道です。「真理」とは、唯一不変の真理、また真実です。「いのち」とは、永遠のいのちであり、この世における私たちの命を握っておられるということです。ヨハネ8:32には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。それは、真理を知ることによって自由、つまり霊的な開放が与えられるのです。それは、①罪の赦しを受け、罪から解放される。…偶像礼拝、不品行、敵意、遊興、酩酊などからの解放。②虚無感からの解放…自分が何のために生きているのか分からないのではなく、何をするにも神の栄光を現わすために生きているということを知る。③孤独からの解放…「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます(マタイ28:20)」と言われた主が共にいてくださる。④死の恐怖からの解放…たとい死の陰の谷を歩くことがあっても主が共におられる(詩篇23:4)。

2.愛のうちを歩む…6節では「愛とは天の父の命令に従って歩むことであり、命令とは愛のうちに歩むことである」と言っています。そして5節で「互いに愛し合う」とありますが、Ⅰヨハネ3:11~12で「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。~」とあります。カインは主へのささげもののことで、ひどく怒り、弟アベルを殺してしまいます。創世記4章のカインのように、私たちは、誰かと自分が比較されて、自分よりもその誰かが褒められたりすると、良い気分はしません。落胆したり、嫉妬したり、怒りを感じることさえあるでしょう。オリンピックなどで、金メダルを獲得した選手に対して、銀メダルや銅メダルだった選手が祝福のハグをする場面を見ることがあります。金メダルを目標にして何年も練習を積んできたのに、わずかの差で敗れてしまって悔しい思いをいているに違いありません。それでも、自分を破った選手を祝福するとはなんと美しい光景でしょう。第一ペテロ3:9には「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。イエス・キリストにある私たちは、祝福を受け継ぐために召されたのですから、人を赦し、祝福する者でありたいと思います。

3.キリストの教えのうちにとどまる…ポイント2で取り上げた「互いに愛し合う」ということの中に「人に惑わされないで、キリストの教えにとどまりなさい」ということが、ここで言われています。7節に「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行った」とありますが、今日のキリスト教会で大切にしている三位一体に関わることについて触れられています。ところで、当教会の毎週の週報の左上あたりに教会の教義が小さな文字で記されています。「《当教会教義》 旧新約聖書66巻は天地万物の創造主である神の霊感による全き神のことばであると信じる。救い主イエス・キリストによって啓示されている神は、唯一でありながら、父、子、聖霊の三位一体なる方である。私たちは、聖書に基づき、聖霊の導きを仰ぎながら、福音宣教に励み、健全なキリストのからだなる教会を建て上げる。」となっています。大まかには、3つのことが語られています。 ①旧新約聖書66巻は神の霊感による全き神のことばであると信じる。…この66巻は正典とされています。偽典とされている巻も加えられた聖書もあるので注意しましょう。②三位一体について。…全ての人は罪人であるので、仲介者であるイエス・キリストの御名で祈ります。すると瞬時にその祈りは天の父なる神に届きます。そしてその祈りが答えられる。それらの働きは聖霊様が行なってくださいます。③教会の存在目的=キリストのからだなる教会を建て上げる。…もちろん、建物のことではありません。一人一人が霊的に成長すること、信仰的に成長した大人のキリスト者になるということです。

●2024年3月31日(日)イースター礼拝メッセージ要旨 

イースター(復活祭)に因み、第一コリント15:45~58から「死は勝利に飲まれた」という題で、ポイント4つ上げていきます。  

1.イースター…「イースター」という名称は、ゲルマン民族の一般の祭りの名が由来かもしれないというインターネット記事がありますが定かではないようです。今日、実際的に「イースター」は「復活祭」であると定着していますから、このままでも良いかもしれません。南米チリの沖合にイースター島があります。モアイ像がある島です。キリスト教とは関係ないように思えますが、一説によりますと、1722年、オランダ海軍がこの島を発見したのがイースターの日だったので、イースター島になったとのことです。いずれにしても大事なことは、イースター(復活祭)は、イエス・キリストが多くの人の罪を負い、墓に葬られ、三日目に死を打ち破って復活(よみがえった)したことを記念して祝う記念日であるということです。

2.最初のアダムと最後のアダム…最初のアダムとは、人類で最初に創造主なる神によって造られ、エデンの園に置かれたアダムです。最後のアダムとはイエス・キリストです。最初のアダムは、その妻エバと共に神が食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べ、エデンの園を追放されることになりました。そのアダムの罪により、全人類に罪が入ってしまい、全ての人は生まれながらにして聖なる神の前に罪人であり、死と滅びが待っています。しかし、多くの人々は、そのことに対して深刻に受け止めてはいないでしょう。なぜなら、大抵の人は「自分は正しく真面目に生きている」と思っていて、まさか自分が罪人であり、やがては死んで滅びて行くなどとは思っていないでしょう。でも、どんなに正しく真面目に生きていて、しかも数々の善行を積んだとしても、その善行がその人に永遠のいのちを持たらす保証とはなりません。朽ちるものは朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず不死を着なければなりません。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。朽ちないもの、不死であるイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けて不死を着せられなければなりません。

3.死は勝利に飲まれた…2020年6月、今から4年ほど前のことです。教会メンバーYさんの夫Sさんの体が弱くなり、死期が近づいてきました。Sさんは、教会の礼拝に参加したことはありませんが、これまで、Yさんの勧めにより、イエス・キリストに対して心を開きつつあるとのことでした。Yさんは夫のSさんがいわゆる病床洗礼でも良いから信仰を明確にしてほしいと願っておられました。教会の牧師である筆者の立場としては、本人の意志を無視して何か強引なこともできないと考えていました。6月20日でした。筆者が祈っていると、Sさんの所に行くべきだという思いが強くなりました。そこで、筆者は妻を伴い、ベッドで横になっているSさん宅に行きました。そして奧さんであるYさんに取り次いでもらうと、Sさんは病床洗礼を受けるとのことでした。そこで、水を用意し、Sさんに対して、全知全能の神の存在、聖なる神の前に自分が罪人であるということ、救い主イエス・キリストを信じ受け入れるということを確認し、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けました。授礼直後、Sさんは仰向けになった状態で、肘から上の右腕を上げて筆者との握手を求めたので、筆者も握手に応じました。正に、死は勝利に飲まれたのです。それからちょうど一週間後の6月27日にSさんは召天されました。

4.主のわざに励みなさい…神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励んでまいりましょう。マタイ22章で、一人の律法学者がキリストに「先生。律法の中で大切な戒めはどれですか」と質問するとキリストは「心を尽くして神を愛すること。これが第一の戒めで、あなたの隣人を自分自身のように愛せよという第二の戒めも大切である」と言われました。端的に言いますと、神を愛するとは日曜日を聖別して礼拝を守ることです。隣人を愛するとは福音宣教に結び付く生活をするということです。それが主のわざに励むということです。

●2024年3月24日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネ第一の手紙5:13~21から「神のみこころにかなう願いをするなら」という題でポイント4つ上げていきます。  

1.永遠のいのちを持っている…インターネット上のある情報によりますと、現在の世界総人口は73億人、そのうちキリスト教の信者は23億人、32%を占めているとのことでした。もちろん、一口に「キリスト教」と言っても様々な宗派もありますから、この23億人の人たちが、個人的に、創造主なる真の神を信じ、その聖なる神の前に自らを罪人として認め、その罪からの救い主イエス・キリストを信じ受け入れている人かどうかということになると、また違った数字になってくるかもしれません。13節にありますように、「神の御子の名を信じている者は永遠のいのちを持っている」ということが非常に重要で、ヨハネはそのことを明確にするためにこの手紙を書いたのです。

2.何事でも神のみこころにかなう願いをするなら…筆者個人の認識として、この14節はかねてから有名なみことばであると思っています。私たちは、神を信じる者としてよくお祈りをします。素直な心で、何でも神に対して願うものを求めて祈ればよいと思います。但し、そこに私たち自身の思いと全能の神のみこころが乖離(かいり)していたら、その願いは聞かれないほうが幸いであると言えるでしょう。創世記18章で、アブラハムはソドムが滅ぼされないように主に願いました。彼は「もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。」と言うと、主は「「もしソドムで、わたしが50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」と言われました。アブラハムは「正しい人が50人いないかもしれない」と考えたのでしょう。続いて同じように45人、次に40人、30人、20人、10人というふうに、最終的に10人の正しい人がいたらソドムは滅ぼされないという確約を得ました。しかし、結局、ソドムに正しい人10人いなかったのです。ロトと二人の娘たちの三人だけは救出されたものの、ソドムとゴモラの町は滅ぼされたのです。このアブラハムの願い(祈り)に見られるように、「祈り」とは神のみこころに近づくことであるとも言えます。箴言16:1には「人は心に計画を持つ。【主】はその舌に答えを下さる。」とあります。私たちはそれぞれ、神の目的のために生かされているのではないでしょうか。その、神の目的を遂行するために、神に近づき、祈り、神のみこころを悟らせていただきましょう。

3.兄弟が死に至らない罪を犯したら…16節では「死に至らない罪」と「死に至る罪」ということが表現されています。何が死に至り、何が死に至らないかということは明確にされてはいませんが、全ての人は聖なる神の前に罪人であり、この世に義人は一人もいません。ですから、私たちは、神の前にへりくだり、キリストの救いを受けて、日々、罪の悔い改めが求められます。しかし、「死に至る罪」と言われているように、深刻な状態の場合もあるでしょう。その場合は、厳しい対応が必要とされるでしょう。第一コリント5:11には「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」とあります。私たちは、誰に対しても優しく寛容であるべきですが、一方で、神の愛のゆえに厳しい対応をしなければならないということもあるでしょう。

4.神によって生まれた者は罪を犯さない…18節で「神によって生まれた者は罪を犯さない」と言っています。それは、その人に聖霊が宿り、その人を助けてくださるからでしょう。Ⅰヨハネ3:9には「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。神の種、つまり、聖霊がその人のうちにおられて、その人を守ってくださるのです。そうかと言って、この世は依然として、悪い者の支配下にありますから、21節に「子どもたちよ。偶像に警戒しなさい。」とあるように、油断大敵です。真実な方、イエス・キリストのうちにとどまり続けましょう。

●2024年3月10日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヨハネ第一の手紙5:1~12から「世に勝つ者とは誰でしょう」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.世に勝つ者とは誰でしょう…5節で「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と言っています。もし、私たちがイエス・キリストを信じているとすれば、それは、神の恵みです。エペソ2:8には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあり、ヨハネ15:16前半には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と。そして、エペソ1:4には「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあって、私たちは、神の側からの選びにより、恵みによって信仰によって救われたのです。そうかと言って、私たちは、イエス・キリストを信じる決断をして「世に勝つ者」となるのです。やがて、生涯を終えたとき、死の先に何の希望も無いとしたら、死は恐怖でしかありません。しかし、イエス・キリストの十字架の救いにより罪赦され、神によって生まれた者であるならば、その人は正に、世に打ち勝った勝利を得ています。

2.御霊と水と血…6節前半には「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。」とあります。この手紙の著者ヨハネは、ヨハネの福音書でも好んで「水」を用いて表現しています。水は人間が生きるためには非常に大切なものです。命の源と言っても過言ではありません。ヨハネの福音書7:37~38では「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。水はいのちの供給源であり、また、あのノアの大洪水に見られるような地球規模の圧倒的な力を表し、創造主なる神の側に属するものであると言えます。一方「血」は、レビ記17:14aで「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」とあります。つまり、イエス・キリストは神のもとから来られた神ご自身であり、また人としてのご性質を併せ持って、この世に来られたということです。そして7~8節では「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」とあります。マタイ28:19の「父、子、聖霊の御名」という三位一体論の根拠と言える表現を彷彿とさせます。この世においては、見えるものは見えないものによって支配されているものです。あまり意識していないかもしれませんが、私たちの信仰生活においては、聖霊の働きは私たちが思う以上に現れているのではないでしょうか。水と血によって来られたイエス・キリストは、御霊によってあかしされ(6節)、私たちはそれを御霊によって悟ることができるのです。

3.御子を持つ者はいのちを持っている…現在、プロ野球もですが、メジャーリーグではオープン戦たけなわです。先日3月6日にエンゼルスとドジャースが対戦しました。大谷選手はエンゼルスに所属していましたが、ワールドシリーズでの優勝が見込めないということで、毎年、好成績を上げているドジャースに移籍しました。すると、大谷選手が抜けたエンゼルスよりも大谷選手が加わったドジャースが格段に強いはずなのですが、なんと、その日の結果は4対0でエンゼルスが勝ったのです。人間の行なうことは、なかなか計算通りには行かないものです。もちろん、オープン戦ですし、シーズンに入れば違うことでしょうが。しかし、神のなさることは完全です。また、語られたみことばは真実です。御子を持つ者、すなわちイエス・キリストを信じる者は真のいのちを持っているということです。これは動かしがたい事実ですから、私たちは、ここにしっかりと立ち続けましょう。第二コリント5:17には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。罪の中で霊的に死んでいた古い自分は過ぎ去りました。今はイエス様によって新しく造られたものであり、まことのいのちを持つ者とされているということを確信しましょう。

●2024年3月3日(日)礼拝メッセージ要旨

ヨハネ第一の手紙4:11~21から「愛には恐れがありません」という題でポイント4つ上げていきます。  

1.神の愛が全うされる…11~12節では「天の父なる神が、御子イエス・キリストを遣わすほどに、これほどまでに神は私たちを愛してくださっているのですから、私たちもまた互いに愛し合うべきです。そして、互いに愛し合うならば神は私たちのうちにおられて、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」と、そういったことが記されています。ヨハネ15:13には「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。正直なところ、私たちはイエス様のような大きな愛を表わすことはできないでしょう。その愛の精神だけはしっかりと持ちたいと思います。先週は、筆者は所沢の教会で説教をさせていただきました。その教会の週報(礼拝プログラム)の表紙には大きな赤い字で「わたしはあなたを愛している」と、イザヤ書43:4のみことばを掲げていました。その通りに、神の愛を地道に実践している教会だと思いました。

2.神の愛のうちにおり…ローマ10:9には「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」とある通り、私たちはイエス様を主と告白し、救いに与りました。それは、私たちの心に聖霊様が注がれているからです。論理的な説明は難しいのですが、「告白の力」のようなものがあります。例えば、いつも前向き肯定的な言動をしている人は、その言ったとおりの人生になっているものです。逆に、いつも後ろ向きで否定的なことばかり言っている人は、その通りの人生になっているのではないでしょうか。まして、神の御子イエス・キリストを信じる告白をする人には、神がその人に臨まれ、その人は神のうちにおり、神もその人のうちにおられるのではないでしょうか。

3.愛には恐れがありません…イエス様を信じると、聖霊様が心に宿ります。つまり、その人は救いを受けて、神が共におられ、神の愛が心にあるのですから、やがて神の審判の日にも恐れるものはありません。今、確定申告の真っ只中にあります。時期を同じくして、国会では、議員さんたちの裏金問題が色々と議論されています。税務担当のお役人の方が、何度も答弁に立ち、「個別の事案について述べることは差し控えます」と繰り返し言っています。正に、「権力を持った国会議員さんには課税しませんよ」と言っているように聞こえてきます。なぜ、「権力者だろうが誰だろうが公平にきっちり徴税します。」と言えないのでしょうか。そんなことを言ったら、自分のポストが危うくなる恐れがあるからです。箴言29:25には「人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。」とあります。私たちは、人の顔色をうかがうのではなく、全知全能の神を恐れて生きるべきです。その神こそ、私たちのたましいをゲヘナに投げ込むことのできる方です。

4.兄弟を愛する…ルカ10:30~36で、良きサマリヤ人のたとえ話があります。強盗に襲われて道端に倒れている人がいるのに、祭司とレビ人は道の反対側を通り過ぎました。しかし、ユダヤ人と仲良くないサマリヤ人が彼を助け宿賃を払い、足りなかったら帰りに支払います、と言いました。キリストが、「この中で誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか」と律法の専門家に質問すると、専門家は「その人に憐みをかけた人です」と答えました。知らない赤の他人でも、助けの手を差し伸べれば隣人です。教会では、同じ神様を信じれば、兄弟姉妹です。20節で「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。」とあります。私たちは、色々な機会に色々な人に出会います。どこでどうなるのか、先のことは分かりません。人を偏り見ることなく、その都度その都度、最善を尽くして、誠実に、地の塩、世の光として歩んでまいりましょう。

●2024年2月18日(日)礼拝メッセージ要旨

ヨハネ第一の手紙4:1~10から「力ある方が内におられる」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.イエス・キリストを告白する霊…1節で「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」と言っています。そして2節で「人となってきたイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです。」とあります。名前を呼ぶ、例えば、一昔前だと「田中角栄」という総理大臣がいました。この方はコンピューター付きブルドーザーと言われました。晩年にロッキード事件で賄賂を受けて残念な部分がありましたが、最近の大臣方の国会答弁と異なり、自分の言葉で国民のために政治を前に進める、政治家らしい政治家だったと思います。そのように、この方の名前を上げるとき、その人の人格や何をした人なのかとイメージを膨らませるものです。ピリピ2:6~9には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。十字架で救いを成し遂げられたイエス・キリストのお名前は正に「すべての名にまさる名」です。この御名を告白する霊は神からのものであり、告白しない霊は神から出てはいません。

2.あの者よりも力がある…あの者とは悪魔とか悪霊と呼ばれる者です。人間と悪魔と全能の神、この三者の力の序列として、人間よりも悪魔の力が上であり、その悪魔よりも真の神が圧倒的に力は上です。私たち人間だけの力で悪魔に勝つことは無理です。しかし、イエス・キリストが共におられるならば、私たちは悪魔よりも強いのです。筆者はアイパッド(iPad)を所有しているのですが、出始めの種類で古いタイプのものです。1年以上前、アカウントの更新をするようにその端末機器から指示が出ていたのですが、さっぱり更新が出来ずに、長いこと使っていませんでした。最近、ふと思い立って、アカウント更新して使えるようにしようと挑戦しましたが、やはり出来ませんでした。そこで、若い人に頼めば出来るのではないかと考えていたところ、次女が孫たちを連れて遊びに来ました。そこで彼女にアイパッドのアカウント更新を頼んだら、自分のスマホで調べたりして、20分ほどしてアイパッドが使えるようになりました。流石だと感心しました。これは、生活のちょっとした一コマなのですが、たましいの分野、罪の赦し、永遠のいのち、勝利の生活に関しては、全面的にイエス様に頼り、イエス様にお願いすることが賢明です。第一ヨハネ5:5には「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とあり、また、ヨハネ16:33後半には「~あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とあります。

3.ここに愛があるのです…10節には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。先日、筆者は教会のメンバーの方と二人で、教会の敷地内にある雑木系の細木を伐採しました。夏になって山が鬱蒼と茂るのを抑えるためです。作業の途中は伐採した雑木やツタのツルが駐車場などに散乱していました。もちろん、日曜日の礼拝の時間には、綺麗に片づけて何事も無かったようにしています。それと同じように、キリストの十字架は、聖書のみことばを通して知ることはできますが、まるで何事も無かったかのようにも受け止められがちです。しかし、2000年ほど前、なだめの供え物となった神の御子イエス・キリストのゴルゴダの丘での惨状は凄まじい筆舌に尽くしがたいものであったことでしょう。正に、そこに愛があるのです。パウロはガラテヤ書6:14で「十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」と言っています。このイエス様の十字架の愛によって、私たちの世界観が全く変わったのではないでしょうか。私たちは、この十字架の愛を人生の土台として歩んでまいりましょう。

●2024年2月11日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネ第一の手紙3:13~24から「互いに愛し合う」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.死からいのちに移った…イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは永遠のいのちを得ます。そうかと言って、その永遠のいのちを受けたクリスチャンであっても、日々「永遠のいのち」を意識して生活するということはありません。しかし、何かが起こった時、例えば大災害や病気などにより、自分や身近な人に命の危険が襲ってきたならば、直ちに日常の生活はストップし、「死」ということ、そしてそれに関連して、たましいのことに思いが及ぶのではないでしょうか。ですから、私たちは、自分と自分の回りの人々のたましいのことについて、日頃から気にかけておく必要があります。さて、この聖書の個所では「神の愛」ということに焦点を当てています。私たちがキリストによって永遠のいのちを受けているなら、必然的に「神の愛」も心に受けているということになります。使徒の働き2:38でペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言っています。それは、キリストを信じる信仰によって、その人の心に聖霊が注がれ、その聖霊によって永遠のいのちと神の愛が与えられているのです。

2.神の愛の実践…第一ヨハネ3:16はヨハネの福音書3:16と並んで有名な聖句と言われております。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とあります。クリスチャンの小説家・三浦綾子さん著の「塩苅峠」は有名で、映画化されてもいます。その小説のモデルとなった長野政雄さんは、北海道の塩苅峠を走る汽車に乗っていました。機関車と客車の連結が外れ、客車が坂道を逆走して下って行くのを、自分の体を犠牲にして客車を止め、乗客を守ったのです。長野さんはクリスチャンで、いつも「余は感謝して全てを神に捧ぐ。苦楽生死均(ひと)しく感謝。」と書いた書をいつも携帯していたそうです。これは極めて特別な事例ですが、その精神(スピリット)は受け継ぎたいところです。17節には「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉ざすな」と言う内容が記されていますが、助けたいと思っていても、その、世の富を持っていなければ兄弟を助けることはできません。要するに、出来ることしか出来ないので、出来ることを行なえばよいのです。私たちは、接する回りの人々に対して、神の愛により、自分の出来る最善を行ない、またその人の幸いを祈り求めましょう。

3.互いに愛し合う…もし、世界中の人々が互いに愛し合うなら、決して地球上に戦争は一つも起こらないでしょう。しかし、現実に戦争が現在進行しています。ロシアとウクライナ、そしてハマスとイスラエルなどです。よく注視しますと、戦争や小競り合いなどは、大抵、お隣同士の国と国で起こっています。時々耳にしますが、家と家、案外お隣同士が仲たがいしているケースもあります。本当は、ご近所、また身近な家族や毎日出会う人ほど仲良くしたいですね。もちろん、相性もありますから、無理することはないですが、少なくとも仲たがいや小競り合いなどは回避すべきです。コロサイ3:12~13には「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」とあります。赦し合い、愛し合い、誰とでも仲良くしましょう。「互いに愛し合う」ということは神の命令です。ヨハネ12:50でキリストは「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。」と言っておられます。つまり、究極的に、聖書で「愛する」ということはイエス・キリストの救い、永遠のいのちを伝えることでもあります。

●2024年2月4日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネ第一の手紙3:1~12から「私たちは神の子どもです」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.私たちは神の子どもです…天の父なる神様が、素晴らしい愛を与えてくださったので、この神の愛を受け入れた人々は神の子どもとされています。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。また、マルコ16:16には「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」ともあり、救い主イエス・キリストを信じ、そのことを公にするバプテスマによって、神の子どもとなるのです。山形県尾花沢市で伝道しているエドワーズ夫妻が山形新聞に掲載されている写真の中に写り込んでいました。大相撲初場所で琴の若が大活躍したので、市民を集め、千秋楽の様子を尾花沢市の某会場で大画面テレビ観戦応援をしたのです。ここ二、三年前、筆者は、エドワーズ夫妻に「尾花沢は琴の若の父親である先代・琴の若の郷里だから…」と再三に言っていましたが、そのことを覚えていたのでしょうか。夫妻は尾花沢市で伝道しているのですから、そういった行動が伝道の良いきっかけとなるでしょう。聞いたことを行動に反映させる。聖書のみことばなら、なおさらそうです。さて、神の子どもには特権があります。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあります。また、やがてキリストの来臨のときには、キリストのありのままの姿を見るという、正に素晴らしい特権が与えられているのです。

2.神の子どもと悪魔の子ども…聖なる真の神様の支配下で過ごすということは、第一に心の平安、そして喜びがあり、何のために生きるのかという充実感もあります。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。逆に、悪魔の支配下にあるなら、まるで羅針盤の無い(最新の船舶のことは知りませんが)船で大海の中を右往左往するようなものです。もう一点、6節と9節には「神の子ども、すなわちキリストのうちにとどまる者、神から生まれた者は罪を犯さない」ということが記されています。「え?」と思う人がいるでしょう。というのは同手紙の1:10には「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」とあり、矛盾とも受け取れるからです。しかし、同手紙の5:16には「死に至らない罪」と「死に至る罪」ということが指摘されています。そうかと言って、どこからどこまでが、その境界線となるのかというと非常に微妙な問題になってきます。一つのヒント(目安)として言えることは、マルコ3:29でキリストが「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」と言っておられます。

3.義を行なう…第一ペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。神の子どもは、聖なる神に選ばれた神の民であり、王である祭司として神と人との間に立って執り成しをする役目を担っています。確かに、神の子どもと言っても、この見える世界においては無力なただの人にしか見えないでしょう。しかし、全知全能の真の神の視点、つまり、霊的な世界から見れば、キリスト者は王である祭司ですから非常に高い身分にあるということです。ですから、私たちはそういった自覚を持つべきです。もちろん、そうかと言って、この世にあるかぎり、謙遜に神と人とに仕え、福音の証し人となりましょう。

●2024年1月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヨハネ第一の手紙2:18~29から「今は終わりの時です」という題でポイント3つ上げていきます。

1.反キリスト…ちょっと混同しやすい言葉として「偽キリスト」があります。マタイ24:5では「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあって、確かに「自分がキリストであると名乗る人物」があちらこちらで現れています。一方、この反キリストは、22節で「偽り者とはイエスがキリストであることを否定する者である」と言っています。同じヨハネ第一の手紙4:3には「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。今では三位一体ということが、教理的な正統性を表わす基準とされています。神は唯一でありながら、父、子、聖霊の三位一体なる方であるということですが、子なるイエス・キリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われ、さらにヨハネ14:6では「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とも言っておられ、子なるイエス・キリストを通して全知全能の真の神に連なることができるのですから、イエス・キリストが告白されなければ、そこに真理はありません。

2.聖なる方からの油注ぎ…油注ぎというのは聖霊のことでしょう。私たちが神に属する者とされるのは、聖霊の働きによるのです。ローマ10:17に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とありますが、信仰は「みことばを聞く」ことから始まります。パウロ(当時サウロ)は、キリスト者を捕縛するためにエルサレムからダマスコへの途上で、聖霊なるキリストにお会いし、いきなり改心してキリスト者になりました。ということは、パウロは全く神のことばを聞くことなくキリスト者になったのでしょうか。そうとは言えません。パウロはステパノ殉教の時、石打をする者たちの着物の番をしていましたから、おそらくステパノの話を聞いていたでしょう。そのことが、パウロの救いに少なからず関連しているに違いありません。今日、私たちは、聖なる方からの油注ぎ、つまり聖霊に触れていただくために、聖書のみことばに聞きましょう。そして、マタイ7:7には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とありますから、よくお祈りしましょう。

3.キリストのうちにとどまっていなさい…キリストのうちにとどまるとは、イエス様を信じ続けることですが、そのために悪癖などは改めたほうが良いに決まっていますが、変えてはいけない良い習慣はやはり保っていかねばなりません。ダニエル書6章で、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた記事があります。当時ダニエルはペルシャの国でダリヨス王の次の位の三大臣の一人でした。しかも彼は並外れて優れていたので他の大臣たちに妬まれました。ダニエルを何とか失脚させようとする者たちは悪知恵を使い、ダニエルが真の神に熱心に仕えていることを逆に利用して、「今から30日間、王様以外のものに祈願する者は誰でも獅子の穴に投げ込まれる」という法律を考え出し、王に署名してもらいます。そのことを知っていて、ダニエルは、いつものように日に三度ひざまずいて祈ります。悪者たちは、申し合わせてダニエルを王に訴え、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれます。しかし、ダニエルは何の害もうけず、翌朝、穴から引き上げられ、逆にダニエルを訴えた悪人どもが獅子の穴に投げ込まれてしまいます。やがてキリストの来臨のときが訪れます。そのとき「御前で恥じ入るということのないため(28節)」、私たちは、キリストのうちにしっかりと、とどまっていましょう。