●10.11礼拝メッセージ要旨(ルカ5:27~39) 

キリストが、取税人レビを召し出した記事、また、レビの家での宴会のとき、パリサイ人や律法学者に対してキリストが語った記事などからポイントを3つ上げて学びましょう。
①イエスに従った…この取税人レビは、マタイ9:9に出てくるマタイと同一人物のようです。このマタイは、キリストの12弟子の一人でもあり、マタイの福音書の記者です。収税所にすわっていたレビ(マタイ)ですが、イエス様の「わたしについて来なさい。」のたった一ことばで、なぜ何もかも捨て、立ち上がって従ったのでしょう。当時、ユダヤはローマ帝国の配下にあり、ユダヤ人でありながら、支配国ローマに納めるための税金を自国民から徴収するという複雑な立場に悩んでいたのではないかと推測されます。そういった苦しみの中でキリストに声を掛けられたレビは、機が熟しての決断だったのかもしれません。今日、私たちが「何もかも捨て」という部分については当てはまりにくいと思いますが、「イエス様に従う」という点については共通すると思います。私たちは、この世界の中に生かされているのですが、自分自身をどのように見ているでしょうか。案外、この世の価値観で、人と比べ、自分は、あの人よりもどうのこうのという具合に考えているのではないでしょうか。創造主であり全知全能の神は、私たち一人一人を、神の栄光の器として形づくり、期待しておられるのではないでしょうか。ですから、私たちは、人と比べるのではなく、本来の神の目的のために造られた自分自身を生きることです。そういう意味において、レビは、思い切った軌道修正をして、本来の自分の使命に従ったのです。
②罪人を招くために来られたキリスト…取税人たちだけが罪人ではなく、パリサイ人や律法学者も罪人です。ただ、取税人や罪人たちは、自分たちが罪人であることを自覚し、心砕かれ、へりくだっていたのです。主は心砕かれへりくだった人とともに住みます(イザヤ57:15)。また、主はへりくだる者に恵みをお授けになります(ヤコブ4:6)。但し、罪人を招くために来たキリストは、罪そのものを喜ぶということはありません。やはり、罪は犯さない方がよいのです。主を恐れ、主の前にへりくだり、主のみこころを求めて生きるべきです。
③新しい皮袋…新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるとは、イエス様に従っていこうとするとき、イエス様にふさわしい新しい生活習慣を身に付けることです。例えば、偶像礼拝を止めることなしにキリスト信仰はできません。天の神様のご性質にふさわしい生き方を私たちは求められています。神がくださる賜物は力と愛と慎みの霊です(第二テモテ1:7)。また、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22~23)。特にイエス様の十字架の愛を覚え、互いに愛し合い、また、愛によって人々に福音を届けましょう。

●9月27日礼拝メッセージ要旨(ルカ5:12~26)   

 全身ツァラアトの人がきよめられた記事と中風の人が友によって屋根からつり降ろされて、いやしを受けた記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①イエス様への信仰…全身ツァラアトの人は、イエス様を見てひれふし、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と言いました。イエス様は、彼のそのまっすぐな信仰に応答され、すぐに彼に手を伸ばし、さわって、いやしのわざを行なわれました。もう一組は、中風の人を床のまま担いで、イエス様の前に連れて行った人たちです。あまりに人が多く、玄関から中へ入ることが出来ず、その家の屋根を剥がすという荒業までして、中風の友をイエス様の前に差し出しました。あとで屋根を修理することまで考えていたのかどうかは不明ですが、ともかく、病人をイエス様の前に差し出せば何とかなるという一途な信仰から出た行動だったのでしょう。ですから、20節でイエス様は彼らの信仰を喜ばれたゆえに、中風の人の罪を赦されました。今日、私たちも、イエス様に対して、まっすぐな信仰、一途な信仰によって歩みましょう。
  ②荒野に退いて…イエス様の評判が広まると、多くの人々が押し寄せてきました。そんなとき、イエス様はよく荒野に退いて祈っておられました。イエス様は神のひとり子、神ご自身でもあられました。しかし、この地上においては人として、また、私たち人間の模範として歩んでおられました。一般的に私たち人間は、物事が順調に進んでいるときには、気を緩めてしまうものです。旧約聖書ヨシュア記のヨシュア率いるイスラエルは、エリコの城壁を陥落させ、次にアイの攻撃に移ろうとしていました。エリコでの成功もあり、アイ攻撃には少人数で向かわせましたが、結果は惨敗でした。ユダ族のアカンの罪が原因でしたが、やはり気のゆるみがあったのです。どんなことでも一つのことを完成させるには、最後の最後まで気を引き締めていかねばなりません。私たちもイエス様にならい、忙しい時こそ退いて祈る、そういう姿勢を確立させましょう。
  ③罪を赦す権威…天井からつり降ろされた中風の人に対してイエス様は「あなたの罪は赦されました。」と言われると、パリサイ人たちが「神のほかに誰が罪を赦すことができよう。」と心の中で理屈を言い始めました。そこでイエス様は、ご自分が罪を赦す権威を持っておられることを示すために、中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい。」と命じました。すると、その人はサッと起き上がり、神を崇めながら自分の家に帰って行きました。罪を赦す権威を持っておられるイエス様は、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方(マタイ10:28)です。私たちは、この方を恐れ、主の栄光を現わして生きることを求めましょう。

●9月13日礼拝メッセージ要旨(ルカ5:1~11)  

 シモン・ペテロが何もかも捨てて献身する記事からポイントを三つあげて学びましょう。
  ①でも、おことばどおり…ペテロの舟を借りて、舟に腰を下ろして浜にいる群集に教えておられたイエス様は、話を終えられてから、ペテロに「深みにこぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われます。このときペテロは、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり網をおろしてみましょう。」と答えます。「でも」とか「しかし」ということばは否定することばですが、このときの「でも」は、イエス様のことばに対して従う「でも」です。マルコ7:24~30で、スロ・フェニキヤの女は、自分の娘から悪霊を追い出してくれるように、イエス様に願いましたが、イエス様は、「子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくない。」と言われると、女は「主よ。そのとおりです。でも子犬でもパンくずをいただきます。」と答え、彼女の願いがかなえられます。私たちは、生活の中で時々うまくいかないことがあるものです。「だめだ。」で終わらないで、「でも、主にあって大丈夫。」と、いつも信仰の目を向けていましょう。
   ②私は罪深い人間です…たくさんの魚が網に入り、とても一そうの舟では間に合わず、二そうの舟で魚を引き上げましたが、二そうとも舟が沈みそうになるほどの大漁でした。シモン・ペテロは、そのとき、イエス様がただのお方ではないということを悟り、イエス様の足もとに平伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。9月10日は、東日本大震災を思い起こすような豪雨が関東や東北を襲いました。なぜ災害が起こるのでしょう。時々ある人たちは「神がいるなら、どうしてあんな災害が起こるのだ?」と言います。確かに、全知全能で創造主である唯一の神の許しの下にすべてのことが起こっているのですが、もし、神に文句を言うなら、それは、神を相対的な存在として考えているからです。聖書が、私たちに示している神は、絶対的な存在です。その方に文句を言うということは、ちょうど、陶器師に形作られた陶器が、「どうして私をこんな形にしたのですか。」と言うようなもの(ローマ9:20)です。私たちは、創造主である絶対的な神を恐れ、この方の前に自分は罪人であることを認め、この方の恵みとあわれみを慕い求めることです。 
   ③人間をとるようになる…ペテロは、イエス様に「あなたは人間をとるようになる。」と言われると、何もかも捨ててイエス様に従いました。正にペテロは献身をしました。献身と言う時、ペテロのように、伝道者とか牧師になることを言う場合が多いのですが、今日、色々な形での献身があります。人間をとる(救いに導く)ために直接的な働きも必要ですが、間接的な働きも尊いのです。ダニエル12:3には「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」とあります。

●8月30日礼拝メッセージ要旨(ルカ4:31~44)  

 故郷のナザレでは、がけから投げ落とされそうになったイエス様でしたが、ガリラヤの町カペナウムに下って来られ、そこで活動を開始されます。今回もポイントを三つあげて学びましょう。
   ①イエス様の権威…イエス様は、会堂で権威をもって語られ、悪霊につかれた人から悪霊を追い出す権威を示されました。41節では、悪霊どもは、「あなたこそ神です。」と大声で叫びながら出て行ったとあります。悪魔、悪霊、サタンと呼ばれる彼らは、イエス様が神の子であるということ、また、権威を持っておられる方であることをよく知っていて、イエス様を恐れています。ところが、私たち人間はどうでしょう。聖書のみことばを信じているクリスチャンであるならば別ですが、クリスチャン以外の多くの人々は、イエス・キリストが誰であるかを全く理解していません。この点においては、悪魔の方が遥かに賢いと言えます。彼らは、真理に従うことは決してありませんが真理はよく知っていて、誰がクリスチャンであるか、そうでないかもよく知っているのです。特に悪魔は、イエス様の御名による権威を用いることのできるクリスチャンを恐れます。パウロは、使徒16章で、占いの霊につかれた女から、イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出しました。今日、私たちは、たといパウロのようでなくても、霊の目を覚まし、主イエスの御名により、祈りによって悪魔に立ち向かう者となりましょう。    ②教会の使命…「教会」と言うとき、建物を指して言うことが多いのですが、聖書が言う教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであり、言うなれば、イエス様をボスとするイエス様を信じる人々の共同体です。ですから、その教会の使命は、ボスであり主人であるイエス様が命じることをするのです。イエス様は、カペナウムで何をされたか。会堂で教え、悪霊を追い出し、病や患いをいやし、福音を宣べ伝えられました。教会の使命、それは、教会堂で教え、また人々の様々な問題、ニーズに応え、十字架の救いの福音を宣べ伝えることです。
   ③他の町々にも…当教会は、同じ宮城野区内にあって、最初は福住町、次に福田町、そして蒲生、新田、現在建設中の燕沢に教会の建物が位置することになります。結果的に各地での宣教活動が許されてここまで来たことは、「他の町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。」と言われたイエス様の御旨と一致しているとも言えます。今後、さらによく祈り、主の導きに従って、福音を届けていきたいと思います。

●8月23日礼拝メッセージ要旨(ルカ4:14~30)  

  悪魔の試みを受けた後、御霊の力を帯びたイエス様は、ガリラヤのカペナウム、そして、故郷のナザレに行かれます。その時の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①カペナウムとナザレ…イエス様はカペナウムで恵みのわざを行ない、会堂で教えて、人々に崇められました。一方、ナザレでは、会堂でイザヤ書を開いて教え、一旦は喜ばれたものの、「この人はヨセフの子ではないか」という声から始まって、皆に不信の思いが広がり、最後は、がけから突き落とされそうになりました。カペナウムでは崇められ、ナザレでは殺されそうになるという極端な違いです。まるでイエス様の地上生涯の縮図を見ているようです。時に、私たちの人生においても、人にほめられたかと思っていると、そのあとで誰かから非難されるというようなことがあるものです。もちろん、間違ったことをして非難されるのは当然のことですが、正しいこと、真理に立っていても非難されたり迫害されたりすることがあるのです。しかし、私たちは、非難や迫害を恐れるのではなく、周りの人たちに配慮し、尊敬しつつ、いつでも真理に立ち続けることが大切です。
   ②いつものとおり…イエスさまが安息日に会堂に入るのは「いつものとおり」だったのです。当教会の歴史上2011年3月13日と3月20日の二回の聖日は礼拝に集まることはできませんでした。それは、東日本大震災の甚大な影響のためです。しかし、3月27日の礼拝には私の家族が借りたアパートで礼拝をささげることができました。このとき、集まることの喜びと励ましと恵みとを体験しました。伝道者の書12:1には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また[何の喜びもない。]と言う年月が近づく前に。」とあります。若い時分から、創造主を礼拝するということが習慣化されている人はなんと幸いなことでしょう。ダニエル書のダニエルは、日に三度祈ることが習慣化していました。故に、神の栄光がダニエルを通して現われました。
   ③主の恵みの年…カペナウムでは、人々がイエス様を受け入れたので、恵みが注がれました。しかし、ナザレでは人々がイエス様につまずき、主の恵みの年が訪れることはありませんでした。今日、私たちの前にはイエス様の恵みの年が備えられているのです。それを受け取るか拒否するかは私たちにかかっています。私たちは、イエス様に心を開き、恵みをしっかりと受け取ろうではありませんか。そして、今度は、その恵みの福音を回りの一人一人に愛をもって届けようではありませんか。

8月9日礼拝メッセージ要旨(イザヤ41:10)

聖書には頻繁に「恐れるな」ということばが出てきます。このイザヤ41:10にも「恐れるな。たじろぐな。」とあります。それだけ、私たち人間は、弱く、恐れてしまいやすい存在であると言えるでしょう。恐れない、たじろがない、そういう毎日を過ごすためにポイントを三つあげましょう。
第一は、「天地を創造した真の神を知ること」です。創世記1章1節には「初めに神が天と地を創造した。」とあります。この世の多くの人々は創造主の存在を認められないので、すべてを偶然で説明しようとしています。ですから、仮説に過ぎない進化論に多くの人々が影響を受けています。しかし、進化したという明確な証拠は一つも認められていませんし、最初の生命がどのようにして発生したのかと言う最も肝心な説明さえもされていません(と言うよりも説明できない)。それでも、進化論がこれほどまでに浸透しているのは、聖書のことばと創造主の存在を受け入れたくないという前提に立っているからです。聖書は、創造主である神がおられ、この方がすべてのものを創造し、総べ治めておられることを宣言しています。そして、この方は、唯一で、義なる方であり、愛なる方であるということです。
第二のポイントは、「神は愛なる方である」ということです。全知全能の神は何でもおできになり、どこにでもおられ、日々、私たちを見守っておられます。私たちが善を行なえば喜ばれ、悪を行なえば悲しまれます。私たち人間は、それぞれ負い目を持ち、欠点も失敗もあります。そのような私たち一人一人を神は、愛してくださり、2000年前に十字架で私たちの身代わりに罰を受けてくださいました。それは、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるためでした。
第三のポイントは、「神は私たちと共にいてくださる」ということです。真の神はどこにおられますが。どうしたら、その方と親しく交わることができますか。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ誰ひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)」と言われ、また「わたしは門です。(ヨハネ10:9)」と言われました。私たちの罪のために十字架で死んで復活したイエス様の名を呼び求める(ローマ10:13)とき、神がともにいてくださり、私たちに平安が与えられ、恐れることも、たじろぐこともないのです。

●8月2日礼拝メッセージ要旨(ルカ4:1~13)

イエス様が、悪魔の試みに会われた箇所から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①人はパンだけで生きるのではない。…御霊に導かれて悪魔の誘惑を受けることになったイエス様は、40日の断食をされ、空腹を覚えられると、悪魔が「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いなさい。」と誘惑しました。しかし、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」と言われます。このみことばは、申命記8:3からの引用です。出エジプトしたイスラエル人は食べ物も何もない荒野での天幕生活をしました。そのとき、毎日天からマナ(パンのようなもの)が降り、生ける神に養われていることを実体験したのです。神によって生かされるのであるならば、神のみことばに従って生きるべきです。たとい、恵まれていても謙虚さを失わないようにしましょう。ダビデは、神殿建設を息子ソロモンに託し、神殿建設資材を整えたとき、「~すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものを、あなたにささげたにすぎません。」と祈っています。すべては神から出ている。故に、神のことばによって生きるのです。
②主を拝み、主にだけ仕えなさい。…次に悪魔は、イエス様に世界の国々を全部見せて、「私を拝むなら、すべてをあなたのものとしよう。」と誘惑します。イエス様は、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」と答えられます。エペソ2:2には、悪魔は空中の権威を持つ支配者であると表現され、今日の世界が一時的に悪魔の支配下にあることを示しています。その霊的世界の影響下で、実際に真実な聖書のみことばに思い切って従う人は多くなく、案外、偽りの教えには無数の人々が押し寄せています。悪魔に平伏せば悪魔と同じ結末が待っているだけです。私たちは、唯一で真の神にのみ従い、最後の最後まで信仰を守り通そうではありませんか。
③主を試みてはならない。…三つの誘惑すべてに共通しているのは、主なる神の栄光を求めるのではなく、自分自身の栄誉を求める誘惑です。三つ目の誘惑は、悪魔が巧妙に聖書のみことばを引用し、ある意味ハイレベルな誘惑とも言えます。しかし、それでもイエス様は冷静沈着に三度、聖書のみことばをもって誘惑を退けました。第一のアダム(第一コリント15:45~47)はエデンの園で悪魔の誘惑に負けて園を追い出されました。第二のアダムであるイエス様は、悪魔の誘惑にみことばをもって見事に勝利されました。私たちは、第二のアダムであるイエスさまに拠り頼み、日々、勝利と喜びの日を過ごしましょう。

●7月26日礼拝メッセージ要旨(ルカ3:21~38)

イエス様がヨハネからバプテスマを受けた記事とキリストの系図の記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①イエスのバプテスマ…本来、神のひとり子イエス様は、悔い改めのバプテスマを受ける必要はないでしょう。ただ、イエス様の地上での生涯は、私たちの模範として歩まれたのですから、良いことは率先して行なうという意味でバプテスマも受けられたのです。さて、そのバプテスマのとき、聖霊が鳩のような形をして下られました。鳩は従順の象徴として聖書に登場します。イエス様は、父なる神に従順に従い、実に十字架の死にまで従われました。使徒パウロは、かつて、クリスチャンを迫害していました。彼は神に逆らっていたのです。しかし、ダマスコ途上でイエス様に出会い、その後、悔い改めて、バプテスマを受け、今度は、誰よりも熱心に福音を伝える伝道者になりました。
②キリストの系図…マタイ1章の系図はヨセフの系図。このルカ3章の系図は、ヨセフの義父、つまり、マリヤの父の系図です。アダムからダビデまでは同じですが、ダビデから、ソロモンとナタンに分かれます。王権を引き継いだソロモンの系統がヨセフの系図、ナタンの系統がマリヤの父ヘリの系図です。このルカ3章の系図を見てみましょう。ダビデ以後では殆ど無名の人ばかりです。ダビデ以前では、ボアズ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、ノア、メトシェラ、エノク、アダムなどがよく知られています。ダビデは王、イサクはひとり子、ノアは救いの箱船、エノクは生きたまま天に上げられました。それぞれイエス様を表していると言えます。特にボアズは、ナオミとルツのために買い戻しの権利を行使し、彼女たちを助けました。イエス様は、多くの人の罪と煩いをその身に引き受け、十字架によって贖いのわざを完成されました。
③このアダムは神の子である…アダムは最初、神の子であったのに、罪を犯し、エデンの園を追い出されました。ここで紹介されているキリストの系図の最後に「このアダムは神の子である」と記されているのは、イエス・キリストによって、もう一度、神の子として回復される道があるという望みを表わしているのではないでしょうか。ヨハネ1:12には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。イエス様を受け入れ、その名を呼び求める者は神の子としての特権が与えられています。神の子には、キリストとの共同相続人として莫大な富が与えられ、また、この地上で、特別扱いを受け、祈り求めるとき、応えてもらえるのです。

●7月19日礼拝メッセージ要旨(ルカ3:1~20)

バプテスマのヨハネが宣教を開始した記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①悔い改め…ヨハネに神のことばが下って、ヨハネは悔い改めに基づくバプテスマをヨルダン川のほとりの全ての地方で説きました。ギリシャ語の原語では「メタノイア」という言葉が日本語で「悔い改め」と訳されているのですが、直訳的には、「考えを変える」というような意味となり、日本語に加味されている「悔いる」という意味合いはありません。確かに、誤ったことをしていたら、悔いることよりも、誤りを改めることが大事です。バプテスマのヨハネは、群集、取税人、兵士たち、それぞれに対して、生き方を変えるための具体的な勧めをしています。イエス・キリストを信じる者は、それにふさわしく、この世に支配された生き方から解放され、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝しつつ、歩んでまいりましょう。
②荒野で叫ぶ者の声…以前、路傍伝道ブームと言えるような時代もありました。やはり、どこかで、バプテスマのヨハネをモデルにしていたのでしょう。ローマ10:15には「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」とあります。ヨハネに神のことばが下って、遣わされたように、私たちもみことばによって励まされて、福音宣教に遣わされることが理想です。そのためにも、毎朝のディボーションを通して熱心に聖書を読み、みことばを心に蓄え、そのみことばが生活の中で口から表現されるとしたら素晴らしいことです。
③聖霊と火とのバプテスマ…今日、クリスチャンになるには水のバプテスマが施されます。そこに至るには、第一コリント12:3、13にありますように、何らかの聖霊による導きがあります。さて、ルカ3:16には「聖霊と火とのバプテスマ」とあります。17節で、火とは最後の審判の裁きの火でもありますが、16節の火はエネルギー、力の源としての火と言えるでしょう。モーセは、神の山ホレブで神の火を見て、出エジプトに遣わされました。イザヤはセラフィムのひとりが携えてきた火に触れて、神に遣わされました。使徒の働き2章では、炎のような別れた舌が現われて、使徒たちに臨み、初代教会が誕生しました。ローマ12:11には「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。私たちの心が冷たくてはいけません。熱くありたいです。そのためには、みことばと祈りによらなければなりません。

●7月12日礼拝メッセージ要旨(ルカ2:41~52)

12歳になられたキリストが、両親らとともに過ぎ越しの祭りにエルサレムの宮に行かれた時の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①イエスの知恵…エルサレムからの帰路、一日してから両親はイエスが一緒にいないことに気付きました。想像に過ぎませんが、両親は、イエスの弟たちに気を取られ、しっかり者の長男イエスに対しては信頼しきっていたため、そういうことが起こったのでしょう。エルサレムの宮に戻ると、イエス様は教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていました。人々は、このときのイエス様の知恵と答えに驚いていました。この当時、12歳のキリストの知恵はどれほどだったでしょう。旧約聖書のソロモン王も特別な知恵が与えられました。ソロモン王の知恵を聞いた人々は、王を恐れました。それは、天の神が下さる知恵です。ヤコブ3:17には「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあります。人間的な知恵とか打算ではなく、上から来る知恵によって、永遠の祝福につながる本当の知恵者となりたいものです。
②自分の父の家にいる…ようやくのこと、宮にいたイエスを探し当てたマリヤは、「まあ、あなたは、なぜ、私たちにこんなことをしたのですか。」と言うと、イエスは「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか。」と言って答えられました。神殿はそもそも神を礼拝する神の家でありますが、それと合わせて、御子イエスさまはいつも父なる神と共にいるということを暗に言われたのでしょう。私たちも、イエス様、聖霊様、天の父といつも共にいる者でありたいと思います。そのためにも、いつも主に心を向け、絶えず祈る者でありたいと思います。
③神と人とに愛された…私たちは、この見える世界に生き、見えない真の神を信じています。見えない神を第一にしつつも、見える世界を尊重しなければなりません。目の前にいる人が水が欲しくて渇いているのに、本を与えても読みたいとは思わないでしょう。新しく始まる「つばめさわ教会」も地域の人々のニーズに応答しながら、福音を満たして行きたいと考えます。また、教会は企業のように利潤を追求するためにあるのではありません。教会の存在目的、本質を見失うことなく、神にも人にも愛される、且つ、神と人とを愛する教会であり、一人一人でありたいと願います。