●4月5日イースター礼拝メッセージ要旨(第一コリント15:35~49)  

  人間は、どこから来て、どこへ行くのでしょう。母親の胎から生まれ、そして、やがて死を迎えます。死の先に何があるのでしょう。死んだら終わりだと考える人にとっては、この世の中に希望を見いだすことしかできません。しかし、聖書は、失望で終わらない永遠の希望があると言っています。
その根拠は、死んで復活したイエス・キリストです。神の御子イエス様が、多くの人の罪をその身に負い、十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活して、天に昇られ、その後、弟子たちに聖霊が降って、初代教会が誕生し、今日に至っています。
   イースターに因んで、テーマを復活に絞りましょう。パウロは、「死者はどのようにしてよみがえるのか。」という多くの人が持つであろう疑問に対して「愚かな人だ。」と一蹴し、植物の種を引き合いに説明しています。あの小さな種から大きな植物に成長する。しかも、種そのものは、死ぬことによって芽を出す。死者の復活もそのようである、と言っています。
   また、肉には、人間、獣、鳥、魚、天上の体があれば地上の体もある。それから、太陽、月、星、それぞれ、その栄光がある。だから、血肉の体もあれば御霊の体もある、と言っています。そして、最初の人アダムは「生きた者」となったが、最後のアダムは「生かす御霊」となった、と言っています。確かに、世界中の富を手に入れても、自分だけを養っているとしたら、最初の人アダムと同じように、ただ生きた者です。しかし、生かす御霊とともに働くなら、真に幸いな人と言えるでしょう。
   私たちは、元々は土から出たものですが、イエス様によって、天から出た者に似た者とされ、この地上で、元気に長く用いられたいものです。そのためにも、陽気な心は健康を良くします(箴言17:22)から、自分自身も他の人も、心が明るくなるような言葉を発しましょう。キリスト者は、第二の人である御子イエス様の形と同じ姿にあらかじめ定められています(ローマ8:29)。そうかと言って、何をしてもうまくいくということではありません。時には試みを受けるときもあるでしょうが、私たちが信じる神は最善を成したもう方ですから、主を信頼して委ねていきましょう。やがて、イエス様が再臨されるとき、まず、最初にキリストにある死者がよみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち、彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。

●3月29日礼拝メッセージ要旨(マルコ14:17~31)  

 二階の広間で、イエス様と弟子たちが過ぎ越しの食事をしている場面、そして、その後、オリーブ山に出掛けて行く場面から、ポイントを三つあげて学びましょう。
  ①人の子を裏切る…「裏切り」という行為は、親しい関係、信頼関係が深ければ深いほど、裏切られた側としては、そのダメージは大きなものとなるでしょう。詩篇41:9には「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」とあります。その預言どおり、イエス様と同じ鉢にパンを浸していた者が裏切ったのです。神の御子イエス・キリストを裏切るということの代償は小さくありません。しかし、もし、私たちの側が、主を信頼し、どこまでも従って行くのであれば、主は、私たちを決して離れることも捨てることもありません(ヘブル13:5)。
  ②新しい契約…「新しい契約」があるなら、「古い契約」もあるわけです。モーセはシナイ山のふもとで、子牛と山羊の血を取って、契約の書と民全体に注ぎかけ、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。それから千年以上過ぎて、神の御子キリストが、十字架にかけられる前に過ぎ越しの食事のあとで、杯を取って「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」と言われました。ここで「多くの人のため」とあります。つまり、「全ての人のため」ではなく、あくまでも、イエス・キリストの十字架による救いを受け入れ信じた人に、その恵みが及ぶのです。キリスト者は、その新しい契約を取り交わし、その祝福の中に置かれた者であることを自覚しましょう。
 ③つまずき…「あなたがたは、みなつまずきます。」と言われたイエスさまに対し、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と力強く言い放ちました。人間は、とかく威勢の良い人に心を動かされて、そういう人について行ったりするものです。しかし、一本の髪の毛すら白くも黒くもできない人間が、限度を超えて思い上がるべきではありません。むしろ、神が私たちに何を望んでおられるのかということを求め、神の導きに従ってまいりましょう。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とし、おごることなく、いつも主の助けを求める者でありたいものです。

●3月23日礼拝メッセージ要旨(マルコ14:1~16)

  一人の女がイエス様に香油を注いだ記事、また、過ぎ越しの用意をした記事から、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①過ぎ越しの祭…イスラエル人が守るべき年三度の祭は、過ぎ越しの祭、初穂の刈り入れの祭、仮庵の祭です。過ぎ越しの祭は、エジプトで奴隷になっていたイスラエル人が小羊の血によって、神の怒りが過ぎ越し、その出来事を機にエジプトから解放されたことを記念とする行事です。それは、今日のイエス・キリストの十字架による救いを予表(暗示)しています。ちょうど、過ぎ越しの祭とキリストの十字架の出来事の時期は重なりました。初穂の刈り入れの祭は、麦の初穂を神にささげるもので、それは、この世界が創造主である神によって造られ、人は神によって生かされているということを覚え、初穂を神に捧げることを通して、神を第一にするという意味を持っています。仮庵の祭は、出エジプト後、天幕生活をした苦しい時期を忘れないための行事ですが、同時に、全ての人は、この地上にあっては、一時的な仮の住まいに住んでいるのであって、むしろ、永遠に目を向け、天の御国を覚えなければなりません。
   ②ナルドの香油…一人の女が高価なナルドの香油をイエス様に注ぎました。それを見た弟子たちは、売れば300デナリになるのにと憤慨しました。300デナリ、1デナリが一日分の労賃ですから、正に一人分の年収ほどの価値があったのでしょう。しかし、それは、埋葬の用意にと、女は自分にできることをしたのです。このことは今日の私たちに、力の入れどころを教えています。もちろん、適切な節約も必要ですが、天に宝を積むために本当に価値あることにお金や時間を使いたいものです。 
   ③二階の広間…イエス様がエルサレム入城したとき、ロバの子が用意されていましたが、このとき、過ぎ越しの食事の場所も備えられていました。私たちの現実生活においても、主は色々と備えてくださいます。3.11大震災当夜、私は自家発電、自家給水の備えられた区役所にお世話になりました。次の四日間は小学校の避難所、その次は親戚のマンション、そして、7帖一間のアパート、そのあとに現在の教会としているシャンテが備えられました。さらに、昨年新会堂用地が与えられ、現在、建物を建てようとしていますが、若干、難航しています。でも、主は最善に導いてくださるでしょう。アブラハムがイサクをささげようとしたとき、主が寸前に止められ、一頭の雄羊を備えておられました。主の山の上には備えがある(創世記22:14)のです。

●3月15日礼拝メッセージ要旨(マルコ13:28~37)  

  マルコ13章は終末に関する記事です。3回に分けて学んでおりますが、28~37節より三回目の学びです。やはり、ポイントを三つ上げます。
   ①その時がいつであるか…いつイエス様が再臨されるかについて、二つのことが言えます。一つは「いちじくの木から、たとえを学びなさい」とあるように、時を見分けるということです。戦争、民族対立、地震、飢饉、不法の人の到来など、それらのことが起きたかどうかによって、再臨の時がいつ頃になるかというおおよその時を見分けることが出来ます。もう一つは、その詳しい日時は誰も知らないということです。キリスト教に似ていて本来のキリスト教ではない、いわゆる異端グループが再臨の日を特定し、当然ながら何度も何度も外れています。それは、主の領域に入り込む傲慢な越権行為です。使徒1:7には、その日がいつであるかを知らなくてよい。父が定めている、とあります。そのようなことは主に委ね、使徒1:8には、聖霊に満たされ、主の証人となるよう勧められています。
   ②滅びるものと滅びないもの…1980年、アメリカ北西部にあるセントヘレンズ山は火山の噴火によって、その美しい形が一瞬にして崩れてしまいました。東日本大震災の大津波による大被害も一瞬のうちに起こりました。やがて、この地球も一瞬にして滅びると聖書は言っています。私たちは、滅びてしまうものに対して必要以上に執着することは賢明ではありません。むしろ、滅びないもの、いつまでも残るものに目を留めてまいりましょう。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(第一コリント13:13)」
   ③目をさましていなさい…第一のポイントでは、再臨の時を見分けながらも、いつになってもよいように、備えていなければならないということでした。出掛けた主人の帰りを待つしもべが、忠実に仕えて、主人が帰ってきたとき喜んで出迎えるごとく、私たちは、イエス様の再臨のとき、霊の目を覚まして再臨を迎える者でありたいものです。ヨハネ9:4には「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」とあります。私たちは、今、与えられている時間や機会を福音を証しすることのために用いてまいりましょう。

●3月1日礼拝メッセージ要旨(マルコ13:14~27)

三つポイントをあげて学びましょう。
①荒らす憎むべき者と日数…前回の礼拝では、「荒らす憎むべき者と神殿」をテーマにしました。今回は、「日数」についてです。聖書の終末に詳しい専門家の解説などによりますと、3年半+3年半という数字を聞きます。それは、ダニエル書9:27、同12:11、黙示録13:5などから、やがて、荒らす憎むべき者が現われ、最初は7年間の何らかの契約が結ばれる。7年の半分の3年半の間は平穏に過ぎるが、それ以後、彼は本性を現わし、自分を神であるとして、神の宮に座を設ける。それは、真の神を礼拝する者にとっては、患難の時である。しかし、神は選びの民のために日数を少なくしてくださるのです。時系列的に整理しますと、地球的且つ政治的な世界の混沌が起こり、世界を平和に治める指導者の存在が求められ、そういう時に荒らす憎むべきものが現われる。彼は最初の3年半は期待通りであったが、やがて本性を現わし、患難時代が訪れる。(※多少の読み込み過ぎがあるかもしれません。聖書で不明確な部分は参考までに。) 聖書では、1290日とか42か月という表現で出てきますが、3年半という期間が終末に関わりがあるということを覚えておきましょう。
②読者はよく読み取るように…このことばはマルコ13:14とマタイ24:15にもあります。なぜ、そう書いてあるのでしょう。比喩的に、霊的に解釈しなさいということでしょうか。 14~18節は、AD70年のローマ軍によるエルサレム包囲のときに実際に起こったことのようでもありますが、今日のキリスト再臨にも関連しているようです。山とか屋上は祈りの場所、神との交わりを意味しています。「家の中に入るな」とは、この世のことに埋没するなということでしょう。身重の女と乳飲み子を持つ女とは、ヤコブ1:15を見ますと、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」とあります。この世の欲に気をつけましょう。「冬」とは何でしょう。箴言20:4には「怠け者は冬には耕さない」とあります。怠けていてはいけない。それぞれの使命に忠実でありたいですね。
③選びの民を集める…1948年にイスラエルが建国されましたが、それ以前の、今から約120年ほど前から世界各地に散らばっているユダヤ人が少しずつ帰還し、現在イスラエルの人口は約800万人です。地上的に、選びの民が集まっているわけですが、キリスト再臨のときには、空中的に一挙に選びの民が集められます。それは、第一テサロニケ4:16~17、第一コリント15:52に記されているように、終わりのラッパとともに空中に引き上げられるのです。最後に第一ペテロ4:7~8です。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

●2月22日礼拝メッセージ要旨(マルコ13:1~13)

三つポイントをあげて学びましょう。
①エルサレムの神殿…弟子の一人がエルサレムの神殿を見て、「なんと見事な建物でしょう。」と感嘆の声を上げています。この当時の神殿は、第二神殿でもありますが、ヘロデ王が改築したのでヘロデ神殿とも呼ばれています。第一神殿はソロモン王が建立し、その後、BC586年にバビロン捕囚時に破壊されたものの、その70年後のペルシャ王クロスの時代にユダヤ人帰還民によって再建されます。それから時を経て、キリスト降誕後の70年後、AD70年に再びヘロデ神殿は破壊され今日に及んでいます。現在、嘆きの壁とも言われる西壁で多くのユダヤ人たちが祈りを捧げていますが、彼らは当然、第三の神殿の存在を願っていることでしょう。マルコ13:14に「荒らす憎むべき者が自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば~」とあるように、いつの日か、第三神殿に立って、自分こそ神であると宣言する人物が現われるのです。その後に、キリストの再臨があります。しかし、その第三神殿は今のところ存在していません。今後、エルサレムの神殿に関するニュースに私たちは注視しつつ、主の再臨のときを待ち望みましょう。
②人に惑わされない…オレオレ詐欺などの被害は一向に衰えません。詐欺を仕掛ける側も巧妙になっているようですが、被害にあわないように注意が必要です。6節には「わたしの名を名乗る者が大ぜい現れ」とありますが偽キリストを見極めるために最も有効な方法は、本物のキリストをよく知ること、つまり、聖書をよく読むことです。特に14節の「荒らす憎むべき者」にはサタンによる不思議としるしが伴うので、よく見分けなければなりません。
③福音があらゆる民族に…日本は戦後70年を迎えました。この東北地方の太平洋側の海沿い地域は、大津波の被害を受けました。震災後、多くのクリスチャンボランティアが入って来られ、その効果も大いにあったのでしょう。あちらこちらに新しい働きが始められたり、新たに教会が生み出された地域もあります。しかしながら、目に見えるような大リバイバルをまだ見てはいません。また、刻々と状況は変わっていきますが、福音そのものは変わりません。状況に応じながらも、一人一人との関わりの中で、変わらない福音を、深く浸透させていきましょう。

●2月15日礼拝メッセージ要旨(マルコ12:35~44)

  エルサレムの宮で、イエス様は、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫なのに、どうしてダビデはキリストを主と呼んだのでしょう?と話されます。また、見えを飾る律法学者について、そして、人々が献金する様子を見ていたイエス様は、レプタ2枚を献金した貧しいやもめが誰よりも多く献金したと言われます。以上、三つの記事からそのまま三つのポイントで学びましょう。
 ①ダビデの子キリスト…この当時も、それから2000年も経過する今日も、「イエス・キリストは誰なのか」ということを探り求めることは全ての人にとって大きな課題であると言えるでしょう。ダビデは自分の身から出る子孫からメシヤが現われ、その人物に対して「私の主」と告白しています。当時、律法学者たちは、ダビデが「私の主」と告白している方を蔑(ないがし)ろにしていたのです。世には一神教と言われる諸宗教、またキリスト教系新興宗教などと言われる諸団体があります。それらが天地を創造した唯一の真実な神とつながっているのでしょうか?第一ヨハネ4:2~3を見ますと、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。すべての人は罪人であり、やがて神のさばきの前に立たなくてはなりません。それを免れる唯一の道がイエス様の十字架であり、ゆえに、イエス様を主と呼び、この方を主として生活することが求められ、逆に、そうでなければ必ず行き詰まることになるでしょう。
 ②見えを飾る人…当時、律法学者たちは、長い衣をまとったり、広場で挨拶されたり、宴会の上座が大好きで、見えを飾るために長い祈りをしていたようです。今日、私たちは、社会生活上、ある程度の体裁を整えることも必要ですが、その枠を超えて見えを飾る必要などありません。うわべではなく、心を見ておられる主の前にどうであるか(第一サムエル16:7)が問われます。
 ③レプタ銅貨二つ…皆が献金するのを見ておられたイエス様は、献金箱に大金を投げ入れた多くの金持ちたちよりもレプタ銅貨二枚を投げ入れた貧しいやもめが「どの人よりもたくさん投げ入れた」と言われました。主へのささげものは、心を見られる主に対して、心から喜んでささげる姿勢が大事です。私たちは、主イエス様にしっかりと結びつき、みずみずしく生い茂った木のように、多くの実を成らせようではありませんか。

●2月1日礼拝メッセージ要旨(マルコ12:18~34)

サドカイ人たちがイエス様に、復活についての質問をした記事、そして、一人の律法学者がイエス様に大切な命令(戒め)について尋ねた二つの記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①サドカイ人と復活…サドカイ人たちはユダヤ教諸会派のなかで少数派でしたが、彼らは貴族階級に属し、ユダヤ人の中で実権を握っていたようです。モーセ五書を権威ある書として、死者の復活については否定的でした。そこで、彼らはイエス様に、申命記25:5のケースから、兄弟七人が次々と死んで、一人の妻と結婚した場合、復活の際、誰の妻になるのか、という質問をしました。それに対してイエス様は、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らない。復活のときは、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようである。」と答えました。この地上における有様そのまま、復活のときも同じと考えるならば、確かにサドカイ人の指摘もあながち的外れではありません。しかし、復活、それは、今の不完全な世界が完全な世界(第一コリント13:10)とされるときであり、今の世にある私たち人間の理解を超えたものであることを覚えなければなりません。イエス様は十字架の後に復活され、復活の初穂(第一コリント15:20)となられました。それは、やがて、イエス様を信じる私たちも復活の体に与るのです。
②生きている者の神…出エジプトに用いられたモーセは、ホレブで主に出会ったとき、主は「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言われました。アブラハム、イサク、ヤコブらは私たちと同じように欠点も失敗もある人たちでした。しかし、彼らに共通して言えることは、全知全能の神を恐れ、信じ、それぞれ自分に与えられた使命を全うした人々であり、天のいのちの書に名が記され、霊的に生きている人たちなのです。今日、私たちは霊的な戦いの中に置かれています。キリストを信じる信仰によって、この世に打ち勝ち、霊的勝利者とさせていただき、主が私たちの内に生きているという証し人であることが求められています。
③大事な命令…律法学者の質問に対してイエス様は、申命記6:4~5及びレビ記19:18を引用され、「神は唯一である。心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ」と言われます。それに対して律法学者は、「神を愛し、隣人を愛することは、どんないけにえよりもすぐれています。」と肯定的に応答します。するとイエス様は「あなたは神の国から遠くない」と言われました。「遠くない」とは、神の国からまだ少し距離があるとも言えます。やはり、イエス・キリストを受け入れてこそ、その人に神の国が到来します。その上で、神を愛し、隣人を自分自身のように愛していきましょう。

●1月25日礼拝メッセージ要旨(マルコ12:1~17)

1~17節の、ぶどう園の主人のたとえ、カイザルへの税金についての二つの記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①ぶどう園の主人と農夫…聖書には、ぶどうに関する多くの記事があります。それだけ、ぶどうやぶどう園が当時の人々の生活に密着したものであったのでしょう。我が日本国では、お米とか田んぼですと、身近な感じがします。その昔、農民が大名などに年貢米を納めていた時代がありました。農民が、年貢米を取り立てる役人を殺したなどという話は聞いたことがありません。現実は、やはり、農民(農夫)のほうが弱い立場にあります。しかし、創造主である神と人との関係においては、しばしば、否、頻繁に人の側が神に逆らうのです。イスラエルでは、かつては神に遣わされた預言者たちを殺し、今また、神のひとり子イエス・キリストを殺そうとしているのです。しかも、最も神の近くにいて、神に仕えるべき人々が、神に反逆していたのです。今日、私たちも、ぶどう園を預けられ、その収穫のための働きを期待されている農夫のようです。それぞれに与えられた賜物や能力を最大限に生かして、すべての点で神の栄光が現われる機会としたいものです(第一コリント10:31、第二コリント4:15)。
②礎の石…見捨てられた石が礎の石となった。イエス様は人々に見捨てられ、十字架で殺れました。しかし、その十字架が、多くの人々を救う唯一の道となりました。十字架、それは、神が私たちに愛を示しておられるということです(第一ヨハネ4:10)。神に愛され、神の子とされている私たちは、そのことを既成事実としてしっかりととらえていることが大事です。
③カイザルへの税金…私たちには聖書という確固たる規範が与えられていますが、一方では、この世の法律もあり、それに従うのは当然です。幸いにして、我が国において、聖書の教えと憲法や法律が相反するということは殆どありません。しかし、今後、愚かな支配者が現われて、とんでもない悪法が制定されないとも限りません。そのとき、どうするか。ペルシャの王ダリヨスの時代、ダニエルは、王以外の何ものも30日間礼拝してはいけないという、とんでもない法律が制定されたのを知って、その上で、いつものように彼の信じる全能の主を礼拝し、祈りをささげていました。それゆえ、ダニエルは獅子の穴に投げ入れられました。ところが、獅子はダニエルを襲わなかったので、王はダニエルを穴から引き上げ、ダニエルを陥れようとした大臣たちを獅子の穴に投げ入れるように命じました。私たちは、まず、創造主である神を恐れ、人を敬い、法律にも従う。そのためにも、すべての人の為に、また為政者のためにも祈らなければなりません(第一テモテ2:1)。

●1月18日礼拝メッセージ要旨(マルコ11:12~33)

イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレム入城された後、宮に入られ、すべてを見て回られ、ベタニヤに帰られます。その翌日、またエルサレムに向かわれます。きょうもポイントを三つあげます。
①実を結ぶ…途中、イエス様は、実のなる季節ではないのですが、葉だけのイチジクの木を見て「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」と言われます。それは、エルサレムの宮の霊的状態をイチジクの木になぞらえ、実物教育をしたのでしょう。今日、私たちは、実を結ぶために選ばれました(ヨハネ15:16)。実を結ぶとはどういうことでしょう。神の栄光を現わすということでしょう。ガラテヤ5:22~23には「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。これらの実を結んでいるか自分自身をチェックしましょう。
②祈りの家と呼ばれる…本来、神の宮は礼拝と祈りの場所でなければならないのに、そこは、金儲けの場所と化していました。イエス様は、「強盗の巣」と言っています。当教会では、現在、会堂建設に向かっています。そこで改めて、教会とは何か、会堂とは何かを考えました。イエス様はイザヤ56:7のみことばを引用され、「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる。」と言われました。ですから、私たちも、祈りの家としての教会堂を祈りによって建て上げ、建て上げたら、そこを祈りの家と位置付けて、さらにそこで祈り、主の栄光を現わしてまいりましょう。
③信じて祈る…イエス様がのろわれたイチジクの木は、翌朝見ると、なんと根まで枯れていました。ペテロが驚いていると、イエス様が、「疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる。」と言われました。そして、それに加えて、誰かに対して恨み事があったら赦してやるようにとも言われます。確かに、神に逆らった行ないをしていて、どうして、その人の祈りがきかれるでしょう。ユダのヨシャパテ王は、歴代の王の中では善王と言われています。ユダの町々で律法の書を教えさせ、偶像を取り除きました。しかし、バアル礼拝に励む北イスラエルと同盟を結びました。良い点もあったヨシャパテ王でしたが、部分的には神のみこころに背いたため、その点で後の世代に禍根を残してしまいました。今日、私たちも、主に全面的に従うこと。天の父が完全なように完全であることが求められています。実際的には中々難しいのですが、その部分のハードルを超えるかどうかで、その結果に大きな差を見ることになるでしょう。