●6月29日礼拝メッセージ要旨(マルコ4:35~41)

  4種類の地に落ちた4つの種の話、そして、からし種の話などの話を終えられたイエス様は、乗られていた舟をそのまま漕ぎ出して向こう岸に渡ろうと言われます。群衆はというと、弟子たちが去らせました。
  さて、舟は激しい突風で波をかぶって水でいっぱいです。弟子たちは恐怖で右往左往しているのに、イエス様は艫(とも)のほうで枕して眠っています。弟子たちの助けを求める声に答えてイエス様は波と湖をしかりつけると、湖は一瞬にして大凪(おおなぎ)となりました。そして、弟子たちに「信仰がないのはどうしたことです。」と言われると、弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう。」とつぶやきます。
  18世紀のイギリスの大伝道者であるジョン・ウェスレーは、アメリカ行きの船で大嵐にあい、非常な恐れを感じました。そのとき、船の中で、賛美と礼拝をしている一団(モラビア兄弟団)に会い、自分が持っていない確かな信仰を彼らから感じ取ります。その時以来、ウェスレーは、生きて働く本当の信仰へと引き上げられたのでした。
  (次の話の出自は不明)ある人が、二人の画家に「平安」というタイトルで絵を書くように願いました。先に描き上げた人の絵は、正に平安にふさわしい静けさを表す風景画でした。次にもうひとりの画家も絵を持ってきました。それは、なんと大嵐の絵です。しかし、よく見ると、そこに小鳥の親子が描かれ、小鳥は親鳥の翼の中で嵐を恐れることなく安らいでいるのです。絵を注文した人は後者の絵のほうを高く評価したとのことです。
  イエス様は「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)」と言われました。文字通り、私たちの人生は順風満帆ではありません。しかし、イエス様がご一緒なら大丈夫です。「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われたイエス様に従い、様々な困難があろうとも、神の国建設のために仕えてまいりましょう。

●6月22日礼拝メッセージ要旨(マルコ4:21~34)

 イエス様が、岸辺で舟の上から、陸地にいるおびただしい群衆に向かって、四つの種の例え話に続いて、お話をされます。四つの内容からポイントを四つあげて学びましょう。
 ①燭台の上のあかり…あかりは目立たない所に置くものではなく、全体を照らす所に置きます。ここで、あかりというのは、聖書のことばであり、真理のことでもあり、また、福音、あるいは証しのことでもあり、さらにはイエス様のことでもあると言えるでしょう。最近の賛美の歌に「この光輝かそう。この光輝かそう。この光輝かそう。光れ。光れ。光れ。」とあります。福音の光は、人々の前に出して、なるべく輝かすようにしましょう。
 ②祝福の法則…ガリラヤ湖から死海までは南北にほぼ直線で100km、そこをヨルダン川によって結ばれています。ガリラヤ湖は北のヘルモン山から流れる水を受けて死海に向けて水を供給し、一方、死海はヨルダン川から流れてくる水を受けるだけ。そのため、死海は文字通り死んだ海で、生物が生きられません。パウロは、ミレトの長老会で「受けるよりも与えるほうが幸いである(使徒20:35)」とイエス様のみことばを引用しました。私たちは、誰かの役に立つために生きているのです。人に仕えたり、与えることによって、却って豊かにされるのです。
 ③人手によらず…神の国の進展と植物の成長とは重なる部分があります。エリコの城の攻略を神に委ねられたヨシュアは、神のことばに従い、エリコの城の回りを六日間にわたって一回ずつ、七日目は七回回り、時の声をあげると城壁が崩れました。城壁が崩れたのは神の業です。一人の魂が救いに導かれるとき、それも神の業です。しかし、神の業が表れるため、私たちは自らの手で、すべきことはしなければなりません。
 ④神の国はからし種のようなもの…イエス様ご在世当時もそうでしたが、今日も、同じように、救いの福音は、この世の中では、ほとんど無視され、一見、頼りないように見られますが、からし種が、どの野菜よりも大きく、鳥が巣を作るほどになるように、福音以外に頼りになるものは世にありません。私たちは自力で生きているのではなく、創造主である神の奇跡的な力によって生かされています。その方が与えてくださっているイエス様による唯一の救いの福音に全面的に信頼してまいりましょう。

●6月15日礼拝メッセージ要旨(マルコ4:1~20)

 四つの種の例え話は、マタイ13章にも出てきて、多くのクリスチャンにとっては何度か聞いたことがある話でしょう。でもそれは、私たちにとって必要だから繰り返されているのでしょう。第一に、道端に落ちた種は、鳥に食べられてしまいましたが、これは、みことばをサタンに奪い取られた人のことです。第二は、岩地に落ちた種です。最初は喜んでいても、根がないため、困難や迫害があると躓いてしまう人です。第三のいばらに落ちた種とは、世の心づかい、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで実を結ばない人のことです。第四の良い地に蒔かれた種とは、みことばを聞いて受け入れ、豊かに実を結ぶ人のことです。
さて、イエス様がなぜ、この例え話をされたのでしょう。このとき、イエス様は、おびただしい群衆を前にしてこの話をされています。イエス様は、そのおびただしい群衆が一時的な現象であることをよく知っていました。実際に、イエス様が十字架にかけられるために捕らえられたとき、いつも側にいた弟子たちでさえもついてこなかったのです。しかし、キリスト昇天後のペンテコステのとき、ペテロの説教で3千人が弟子とされました。そののち、美しの門にいた足の効かない人がいやされたあと、信じた人は5千人になりました。迫害下の当時の状況から見て、この人たちは、ちょうど、良い地に落ちた種のようです。

さてそこで、今日の私たちがどうあるべきでしょうか。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。私たちは実を結ぶために選ばれました。実を結ぶ、それは、私たちが主の御名によって祈り求めること(実際的な日常生活の中では切に祈り求めることが必要)、そして、その祈りが答えられることです。それらを通して主の栄光が現われ、御名が崇められます。

●5月25日礼拝メッセージ要旨(マルコ3:7~19)

 7節から12節では、イエス様が湖のほとりにおられたとき、近くから遠くから多くの人々が病のいやしを求めて集まったという記事。13~19節では、イエス様が12弟子を任命した記事です。その二つの記事からポイントを三つ上げて学びましょう。
 ①宣教…病の癒しや汚れた霊が追い出されることは、宣教の一つの現象でもありますが、すべてではありません。使徒26:18でパウロは、福音宣教について「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」と言っています。福音宣教には様々な要素が含まれています。それは、福音宣教により、人々が真理を知り、霊の目が開かれ、悪の霊から真の神の支配に移され、イエス・キリストの十字架と復活に対する信仰のゆえに、罪の赦しと永遠のいのちが与えられることです。
 ②任命…イエス様が山に登って12弟子を任命されました。それは、ご自身の十字架と復活後、昇天されたあとの準備を既に考えておられたのでしょう。実際に、12使徒を中心に福音宣教が展開されていきます。私たちの教会としても、将来のことを準備していなければなりません。また、個人としても、自分だけで終わるのではなく、自分を通して誰かの救いの実が結ばれることを期待しましょう。ルカ10:6には「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」とあります。イエス様の福音を受け入れる人を探し出すことは、イエス様の12弟子任命と重なります。
 ③派遣…ローマ10:15には「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」とあります。今日、教会の働きのために遣わされるには、聖書の知識、総合的な知恵や知識、経験、信仰などが実際的に必要となってきます。但し、誰でもクリスチャンは教会から、それぞれの家庭や職場、学校などに遣わされているのです。日々の生活の中で主に用いられるため、あるいは将来のためにも、「どうぞ私を遣わしてください。私を用いてください。」と祈り、備えていましょう。

●5月4日礼拝メッセージ要旨(マルコ2:23~3:6)

「安息日の主」という題で、三つのポイントで学びましょう。
①安息日の起源…創造主である聖なる神は、6日で天地万物を創造され、7日目を休まれました。第一日目が地球と光。第二日目が空気(大気圏)。第三日目が陸地と植物。第四日目が太陽と月と星。第五日目が魚と鳥。第六日目が虫、動物、人です。特に、人を形造ったときは特別な存在として、神に似せて造られました。そして、第7日目を祝福し、この日を聖であるとされました。出エジプト20:8の十戒にも、安息日を覚えて聖なる日とせよ、とあります。イザヤ58:13~14には、主の聖日を喜びの日、栄えある日とするなら高い所を踏み行かせるという約束があります。
②安息日と枝葉末節…ある読み物に「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守った。」と書いてありました。今日の多くのユダヤ人の安息日の過ごし方は特別です。それは、ユダヤ人自らそうしたというよりも、神の選民として選ばれたユダヤ人に対して、神がそのように仕向けたとも言えるでしょう。出エジプト31:15では、「安息日に仕事をする者は必ず殺されなければならない。」とあり、実際に民数記15:32~36では、安息日にたきぎを集めている人が石で打ち殺されています。そういった背景の中でタルムードと言われる律法以外の教えが歴代のラビたちによって作られ、それを根拠にして、パリサイ人らはイエス様に安息日についての質問をしていますが、彼らは、元々、安息日のことよりもイエス様を困らせようとしたのです。本来、私たちの行動基準は、悪いことばを出さず、必要なとき、その人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えることです(エペソ4:29)。
③安息日の主…今日、キリスト教会では日曜日を安息日として位置づけています。その根拠として考えられることは、イエス様が日曜日に復活し、その日の夕方に弟子たちの前に現われ、さらにその八日後の日曜日にも現れて弟子たちの礼拝を受けられています。また、使徒20:7及び第一コリント16:2では、日曜日(第一の日)に礼拝が行われていたようなのです。イエス様は安息日にも主であるとはどういうことでしょう。それはすべてにおいて主であるということです。キリスト者はこの主であるイエス様のものであり、イエス様に所属しています。私たち人間の生き方の原点と究極は、この主を呼び求め(ローマ10:13)、主のみこころに従って、日々を過ごすことではないでしょうか。

●4月27日礼拝メッセージ要旨(マルコ2:13~22)

湖のほとりの収税所に座っていたアルパヨの子レビは、イエス様に「わたしについてきなさい。」と言われると、ただちに従いました。それからレビは、イエス様一行を自分の家に迎え、取税人や罪人らを交えて食事のもてなしをしました。それを見ていたパリサイ人が、イエス様に対して「なぜ取税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と問いかけます。その箇所からポイントを三つ上げて学びましょう。
①分離…この箇所では分離ということが否定的に扱われているように見えますが、例えば生活の中において、汚れた物ときれいな物は別々にするように、分離ということについて大切な一面があります。第二コリント6:16には「神の宮と偶像とに何の一致があるでしょう。」とあります。イエス様を信じる者は偶像に関わるべきではありません。また、クリスチャンは聖霊の宮(第一コリント6:19)です。タバコやアルコールなどを避けて、体をきよく保ちましょう。自分自身に関してはこの世の汚れから分離して、きよめられることを求めましょう(ヘブル12:14)。
②罪人を招くために来た…イエス様以上にきよい方はいません。そのイエス様がなぜ取税人や罪人と共に食卓に着かれたのでしょう。元々、イエス様は罪人を招くためにこの世に来られました。イエス様を信じ、きよめられたはずのクリスチャンは、世の汚れから分離しつつも、この世に遣わされているのですから、この世と関わり、積極的に福音を証ししていきましょう。主は、一人として滅びることを望んでおらず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます(第二ペテロ3:9)。
③新しい皮袋…ここでイエス様は「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」と言っておられますが、イエス様がこの世に来られ、正に、旧約時代から新約時代に入りました。今日、世界中に、イエス・キリストを信じる信仰が広められています。救いに与ったクリスチャンは、聖霊様を宿す新しい皮袋として、健康管理も大切ですが、何より、みことばと祈りによって、整えられていることが求められています。

●4月13日礼拝メッセージ要旨(マルコ2:1~12)

四人にかつがれて来た中風の人がイエス様にいやされた記事から、ポイントを三つあげて学びましょう。
①彼らの信仰を見て…カナダのある湖で、釣りをしているお爺さんがいました。釣った大きな魚は湖に逃がし、小さな魚をバケツに入れています。それを見ていた人が不思議に思って、その理由を尋ねると、お爺さんは「うちのフライパンは直径25センチなんですよ。」と答えたということです。この話、某記事に書いてあって、本当にあったことかどうか知りませんが、固定観念にとらわれると、このようになるということです。他人の家を勝手に壊してはなりませんが、中風の人を運んだ四人は、彼の癒しを願い、信仰の故に、屋根に穴を開けたのです。鷹巣さんというクリスチャン女性は、「憲法九条にノーベル平和賞を」と本気で考えて、ノーベル委員会に電子メールを送り続けて、とうとう2014年ノーベル平和賞候補として正式受理をされたということです。神の栄光のため、信仰の目を大きく広げましょう。
②罪の赦し…「キリストはあなたの罪のために十字架につけられた。」と誰かに伝えても、その人に、すんなりとは理解してもらえないでしょう。しかし、創世記3章には、すでに罪の問題を扱っています。出エジプト記、レビ記などには罪の赦しを得るための方法が記され、新約聖書においては、キリストの十字架による「完全な罪の赦し」が示されています。また、罪の赦しは神との和解でもあります。「神の和解を受け入れなさい。(第二コリント5:20)」
③罪を赦す権威…「あなたの罪は赦された」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらが易しいでしょうか。罪の赦しというのは、目に見ることは出来ないので、言うだけなら簡単です。ですからイエス様は、「起きて歩け」と、難しいほうを言われて、ご自分が真に罪を赦す権威を持っておられることを示されました。私たちの人生においては、時々「何で?」と思うようなことがあるものです。しかし、天においても地においても一切の権威を持っておられるイエス様に信頼し、忍耐を持って主の導きを求めていくなら、後に、「このためだったのか。」と納得する日が必ず来るのではないでしょうか。ですから、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう(第一テサロニケ5:16~18)。

●4月6日礼拝メッセージ要旨(マルコ1:29~45)

マルコ1:29~45から、記事の内容に合わせて、四つポイントをあげて学びましょう。
①シモンのしゅうとめ…熱病で床に着いていたシモンのしゅうとめがイエス様によって癒され、すぐに今度はイエス様たちをもてなし始めました。このことは、イエス様に出会った人が明確に変えられていく姿を象徴的に表しているのではないでしょうか。普通の感覚では、直ったばかりですと、しばらく様子を見るために動こうとはしないでしょう。使徒パウロは、ダマスコ途上でイエス様に出会うと、直ちにイエスがキリストであると宣べ伝え始めました。私たちも、イエス様を信じたら、はっきりと向きを変えて主の道をすすんで行きましょう。
②イエスをよく知っていた…「知っていること」と「信じること」とは違います。悪霊は、イエス様のことをよく知っていましたが、信じて受け入れるということは決してありません。マルコ1:24には、悪霊がイエス様に「あなたがどなたかよく知っています。」と言っています。また、使徒16章では、占いの霊につかれた女がパウロとシラスのあとに着いて、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで~」と叫んでいます。結局、悪霊は神の働きを邪魔するのです。それが何から来ているか、惑わされないように注意が必要です。
③そこで祈っておられた…私たちは、この見える世界の中に生かされていますが、見える世界を支配している見えない霊の働きがあるということを意識していなくてはなりません。イエス様は、そのことをよくご存知で、朝早く暗いうちから起きて祈っておられました。
④お心一つで…ツァラアトに冒されている人がイエス様のところへ来て「お心一つできよくしていただけます。」と信仰を表しました。イエス様は彼に触れて即座に彼をきよめました。この世には、色々な弱い立場の人がいます。イエス様は、そういった人たち一人ひとりに目を留め、等しく愛しておられます。「福音宣教」とは、悪魔によって伝えられた曲がった教えを、本来の聖書のメッセージに修正する作業とも言えるでしょう。

●3月30日礼拝メッセージ要旨(マルコ1:12~28)

マルコ1:12~28から、記事の内容に合わせて、三つポイントをあげて学びましょう。
①荒野での試みと宣教開始…悪魔の誘惑は、最初の人であるアダムがその誘惑に負けて、人類に罪をもたらしました。第一コリント15:45では、そのアダムとイエス様とを比較して述べています。アダムは生きた者となった、とありますが最後のアダムであるイエス様は、生かす御霊となりました。そのためにも悪魔の試みに勝利され、宣教を力強く開始されました。今日、私たちも、最初の人アダムのように、ただ生きていて、やがて死に行くだけの人となるのか、それとも、イエス様を信じて、生かす御霊に支配されながら、滅び行く人に福音を述べ伝え、永遠の希望を持つ者となるのか。イエス様にある人生は、イエス様が私たちの内に働いてくださる。たとい死んでも永遠のいのち、そういう人生が既に始まっているのです。
②シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ…彼ら四人は、イエス様から招きのお声を掛けられると、何もかも捨てて、直ちに従いました。なぜ、彼ら四人は、そういった思い切った決断ができたのでしょう。色々考えられますが、彼らは、神に選ばれていたことは間違いないでしょう。この世は、善と悪、聖なる神と悪魔が対峙している世界であり、最終的には、天国か地獄です。私たちは、自分が関わるそれが何から来ているのかしっかりと見分けて、主から来ているものなら素直に従順に従っていきましょう。
③カペナウムの会堂で…イエス様は、会堂内で叫んでいる人の汚れた霊を、権威を持って追い出されました。キリスト者は、イエス様抜きでキリスト者として生きることはできません(第一ヨハネ15:5)。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけましょう(エペソ6:11)。みことばと祈りに励んでまいりましょう。

●3月23日礼拝メッセージ要旨(マルコ1:1~11)

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」で始まるマルコの福音書です。歴史上、神のひとり子がこの地上を歩まれるということは、大変なビッグニュースであり、これ以上の大きな出来事はないはずです。しかし、せっかく、神のひとり子がこの世に来ても、その方に出会う人々の心が整えられていないならば、神の御子として受け入れることができないでしょう。バプテスマのヨハネは、そのために登場し、人々に悔い改めのバプテスマを授けていました。今日、私たちも、信仰と霊性が整えられていないと、神の訪れを見逃してしまうこともあるでしょう。
最近、某団体のフェイスブックに当教会の移転用地の記事がありました。当教会のこれまで受けてきた各種のサポートと会堂建設無償提供プランについて、「誰かが計画したわけでもなく、人手によってバトンを渡したわけでもありませんでした。ただただ、神様の深い計画のゆえに、神様によってバトンが各団体に渡されました。」とありました。また、土地についての説明もあり、「面積は248坪で、山付き、その山は勝手に祈りの山と呼んでいます。」とありました。そういった信仰の目で物事を見ることができることは幸いです。しかも、山を見て「祈りの山」と表現していたので、その積極的な信仰姿勢に感心しました。マタイ24:35にあるように、この世界がいつまでも続くわけではありません。私たちは天に国籍を持つ天国人として、この地上に一時的に滞在しているに過ぎないのですから、いつも、天国の視点で物事を見ていきましょう。
イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたとき、聖霊が鳩のようにくだりました。その同じ聖霊が、今日、イエス様を信じる私たち一人一人の心の中に住んでくださっています。聖霊様のご性質は、謙遜と柔和でもあります。また、イエス様の生涯がそうであったように、真実に生きることです。時には空気を読むことも必要ですが、たとい自分一人だけでも、正しいことは正しいと主張できる者でありたいと思います。全宇宙を支配しておられる主。そのひとり子イエス様が私たちと共にいてくださいます。イエス様の御名によって与えられる聖霊様の中に安らいながら、日々、励んでまいりましょう。