●3月9日礼拝メッセージ要旨(マタイ28:1~20)

マタイの福音書最後のイエス様復活の記事からポイントを三つあげて学びましょう。
①よみがえられたからです…今日、エルサレムでは、キリストの墓と言われているところがあり、キリストの墓は確かに存在しましたが、その遺体はありません。なぜなら復活したからです。イエス様は、眠った者の初穂として復活しました。それは、もはや決して死ぬことのない永遠の天上の形を持ったのです。イエス様を信じる私たちも、やがて、イエス様と同じように復活の体に変えられます。ですから、私たちは、天に国籍を持つ者として、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みましょう。
②愚かな人々…トマスは、キリスト復活後の8日目に復活の主に出会い、主を信じました。そのときイエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。最も幸いな人は、イエス様を見ないでも信じる人です。イエス様に出会ってから信じる人も次に幸いな人と言えます。ところが、イエス様や神の色々な顕現を見ても信じない人がいました。墓の番をしていたローマ兵、祭司長、民の長老たちです。紀元前1500年頃、出エジプト後、荒野で死んだイスラエルの民たちも数多くの神の顕現を体験しながら、不信仰のゆえにカナンの地に入ることはできませんでした。ですから、私たちは、信じない愚かな者にならないで、見ずに信じる幸いな者となりましょう。
③宣教命令…キリストの十字架と復活の事実は、聖書の中心記事であることは確かですが、しかし、単にそこに留まっていてはなりません。十字架と復活が何のためのものであるかをしっかりと認識していることが必要です。それは、主を信じる私たち自身の救いの完成のためであり、また、私たちの隣人の救いのためです。今年、当教会は三つの目標を掲げました。第一に、会堂建設です。第二は、外への宣教。第三は内側の強化です。もちろん、これらの目標は、イエス様抜きには何もできません。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(20節)」と言われたイエス様とともに、主に拠り頼みつつ一歩一歩進んでまいりましょう。

●2月23日礼拝メッセージ要旨(マタイ27:45~66)

イエス様が十字架につけられ、いよいよ息を引き取られる場面の記事からポイントを四つあげて学びましょう。
①エリエリレマサバクタニ…イエス様は、息を引き取られる直前に「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。なぜ神のひとり子がそのように叫んだのか。昔から神学的な議論がされているようです。一つは、詩篇22:1のみことばの成就であるという見方ができます。もう一つは、イエス様が、多くの人々の罪をその身に負われたゆえに、神に見捨てられた者になられたということです。また、それは、イエス様を信じる私たちが、罪を離れ、義のために生きるためでした。
②様々なしるし…イエス様が十字架上で息を引き取られるとき、様々なしるしが伴いました。12時から3時まで全地が暗くなりました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。地が揺れ動き、墓が開いて聖徒たちのからだが生き返りました。それらのしるしは、イエス様が、確かに神のひとり子であるということを裏付けるものとなりました。私たち一人一人の生涯においても、神が生きていて自分に働いてくださったという特別な経験があるのではないでしょうか。主に従って歩んでいくとき、主は、生きて働いてくださり、そこに様々なしるしも現れるものです。
③アリマタヤのヨセフ…イエス様がエルサレム入城されるとき、ロバの子が用意されていました。ベタニヤのシモンの家におられたときには、一人の女性が、埋葬の用意にと、高価な香油をイエス様に注ぎました。また、最後の晩餐のための座敷の用意もありました。そして、十字架の死後、イエス様のからだを葬る場所を、サンヘドリンの議員でもあるアリマタヤのヨセフが備えていたのです。神の国とその義とを第一にするなら、主は、その人の必要を備えてくださるのです。
④墓の番…イエス様のからだを盗んで復活したと言って民衆を惑わすかもしれないという恐れを食い止めるため、当時の世界で最強のローマ軍の兵士に墓の番をさせました。しかし、結果的に、イエス様は復活して墓を打破り、そんなことは全くの無駄な努力でした。すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです(ローマ11:36)。確かに、見える世界の影響は小さくなく、無視できません。しかし、すべてのことの背後にあって、すべてを統べ治めておられるのはイエス・キリストの父なる神様なのです。この方に信頼してまいりましょう。

●2月19日祈祷会メッセージ要旨(箴言3章)

この章の全体をまとめてみましょう。
1~10節では、「わが子よ。わたしの教えを忘れるな。恵みとまことを捨ててはならない。収穫の初物で主を崇めよ。」
11~12では、「主の懲らしめをないがしろにするな。」13~20節では、「幸いなことよ。知恵を見い出す人、知恵は真珠よりも尊く、その道は楽しい道、平安。知恵はいのちの木。」
21~35節では、「わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。にわかに起こる恐怖におびえるな。主が守ってくださる。善を行なう力があるとき、求める者にそれを拒むな。理由もなく人と争うな。暴虐な者をうらやむな。あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みをさずける。」 
特に3節で、「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書き記せ。」とあります。「恵み」とは、神の愛、祝福に相当する部分でしょう。「まこと」とは、神の義、神の真実に相当する部分と言えるでしょう。実に、イエス様は、その恵みとまことに満ちておられる方(ヨハネ1:14)として、この地上を歩まれました。
3.11大震災後、丸三年を経過しようとしています。現在お借りしている建物に永続的に留まることはできません。新しい移転先をこの三年間探し続けてきました。一度、ある物件を購入しようと申し込んだことがありますが、売主側で断ってきました。また、昨年の今頃は国の主催する土地建物の競売に参加しましたが、全く手が届きませんでした。そして、この度、色々な条件を満たす素敵な場所が与えられました。恵みとまことに満ちておられるイエス様に信頼しつつここまで来ることができました。ここから、先もそうです。自分の悟りに頼るのではなく、主に信頼し、祈りつつ、主のみ声を聞きながら、一歩一歩進んでまいりましょう。

●2月9日礼拝メッセージ要旨(マタイ27章27~44節)

27節から44節まで、記事の内容に合わせて、ポイントを四つあげて学びましょう。
①ユダヤ人の王さま…たった一人の囚人に対して全部隊の兵士を集めたのですから、やはり、尋常でない警戒をしていたようです。緋色の上着といばらの冠と葦の棒は、王のマントと王冠と杖に見立てたのでしょう。ローマ兵たちは「ユダヤ人の王さまバンザイ」といって、嘲笑しましたが、イエス様はユダヤ人の王だけではなく王の王、主の主、全人類の王であることを彼らは知らなかったのです。1953年アメリカで制作された「聖衣」という映画(フィクション)は、キリストの十字架刑に関わった一人のローマ兵を主人公にしています。彼は後にクリスチャンになり殉教の道を進みます。
②クレネ人シモン…イエス様の代わりに無理矢理十字架を背負わされたシモンは、もしかしたら、そのまま自分も十字架につけられるかもしれないという恐怖を覚えたことでしょうが、イエス様が背負った十字架を代わりに背負ったということで、彼にとっては名誉なことだと、あとで思ったかもしれません。イエス様に香油を注いだマリヤのように、クレネ人シモンも世界中の教会で語り継がれています。マタイ16:24には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。私たちそれぞれに与えられた神からの使命を背負って、イエス様に従ってまいりましょう。
③苦味を混ぜたぶどう酒と十字架…苦味を混ぜたぶどう酒は、痛みをマヒさせるためであったようですが、イエス様が、それを拒否されたのは、あえて、痛みを全て受け止めたということでしょう。イエス様は今日、大祭司として、私たちの弱さや痛みに同情できない方ではありません。ですから、私たちは、おりにかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づきましょう。
④ののしり…ローマ兵、大祭司、長老たち、そして、共に十字架につけられている強盗たちからもののしられたキリストは、第一ペテロ2:22~24で、「罪も偽りもなく、ののしられてもののしり返さなかった」とあります。それは、キリストを信じる私たちが罪を離れ、義のために生きるためでした。

●2月2日礼拝メッセージ要旨(マタイ27章1~26節)

 いよいよ、イエス様が十字架にかけられる場面が出てくる章に入りました。1節から26節まで、ポイントを三つ上げて学びましょう。
 ①イスカリオテ・ユダの結末…ユダはなぜ自害までしたのでしょう。「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」とありますが、イエス様がまさか罪に定められることはないだろうと思っていたのでしょうか。彼は元々、イエス様の12弟子の一人として、大きな祝福の輪の中に入っていました。しかし、それが、最も対極にある勢力と手を結び、結局、祝福とは反対の道に向かって行きました。マタイ18:20には「ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのです。」とあります。今日、私たちはイエス様の近くに居続けるということが大事なことです。教会の礼拝、諸集会になるべく多く参席することが祝福のカギでもあります。
 ②バラバだ…ローマ総督ピラトは、イエス様に罪は無く、祭司長たちの妬みによって訴えられていることを分かっていました。また、彼の妻も悪い夢を見て、夫のピラトにイエス様に関わらないようにと進言しています。しかし、群衆の暴動を避けるために、ピラトの思惑を外れ、イエス様を十字架につけるように判決を下すことになりました。結果的には祭司長たちの願い通りになったのですが、全てのことの背後にある全知全能の主のご摂理の通りになっていったのです。日々の生活の中で、私たちは最善の努力はしなければなりません。しかし、その結果は神に委ねることです。
 ③責任…「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に対して、ピラトは手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。」と言いました。もし、ピラトが責任を免れようとするなら、暴動覚悟で、イエス様に無罪を宣告しなければなりません。実際、現在、世界中の教会の使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け~」と、唱えられ続けています。それはともかく、私たち個人個人においても、自分の魂に責任があり、さらに、私たちが関わる回りの人々の魂に対して責任がないとは言えません。心を尽くして主を愛し、隣人を自分自身のように愛することができますように。

●1月29日祈祷会メッセージ要旨(箴言1章)

1節には、「ダビデの子ソロモンの箴言」とあります。30章、31章の冒頭にはソロモン以外の人物が書いたことが記されていますが、少なくともソロモンが箴言の編纂に深く関わったことは間違いないでしょう。25章1節には、ヒゼキヤ王の人々が書き写した、とありますが、ヒゼキヤ王は、王位就任当時、宗教改革に近いことをしているので、古くなった箴言を多くの人が読めるように整えたのでしょう。
さて、1章です。1~7節は、箴言全体の序章と言えます。この箴言が書かれた目的、それは、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためでした。
7~19節では、主を恐れることは知識の始めであり、父母に従い、罪人らと行動を共にするな、と言っています。
20~33節では、わきまえのない者たちに、いつまでわきまえのないことを好むのか、と叱責しています。そして、最後に、わたしに聞き従う者は安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかであると結んでいます。
もう一度、振り返ってみますと、7節では、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」とあります。ここで、愚か者とは、知能指数が低いという意味ではなく、主を知ろうとしない人のことです。伝道者の書4:13には「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。」とあります。人の忠言に対して頑な人は、結局、聖書のみことばに対しても同じようにするでしょう。ローマ12:2には「…神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。愛ある人の忠言、あるいは聖書のみことばに対して、いかに従順であるか、それが、後の日になって多くの実を結ぶか否かのカギとなるでしょう。

●1月12日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:57~75)

イエス様が捕らえられ、大祭司の中庭で尋問を受けた時の様子、そして、ペテロが三度イエス様を知らないと否認した箇所からポイントを三つあげて学びましょう。
①二人の証人…当時のユダヤの最高議会サンヘドリンはイエス様を死刑にすることを前提に動いていたようです。ローマ帝国の支配下にあって、自分たちで死刑執行をする権利はありませんでしたが、少なくとも死刑に持っていくための罪状が必要でした。多くの証人が出ましたが、最終的に二人の証人が、「この人は『わたしは神の神殿を壊して、それを三日のうちに立て直せる。』と言いました。」と証言しました。この証言も虚偽で、イエス様が神殿を壊すなどとは一言も言ってはいません。こういった悪意ある証言は、私たちの日常会話の中でも案外に見受けられるものです。エペソ4:29には「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。偽証などはもってのほかです。人を助け、人を生かすことばを話すことを心がけましょう。
②主、自らの証言…祭司長たちの尋問に対してイエス様が答えなかったのは、世で言う黙秘権とは全く異なり、無益な反論を避けただけです。祭司長が業を煮やして「あなたは生ける神の子キリストなのか。」と言いますと、主は、ようやく口を開かれ、それを肯定するだけではなく、天の神の右の座に着き、やがて、再臨すると言われました。それを聞いた大祭司は衣を引き裂き、主を死刑に定めます。イエス様は、私たちの模範として、この地上を歩まれました。私たちは、この世で、回りの人々と平和を保ち、柔和で穏やかに暮らしながらも、堂々と真実を証してまいりましょう。
③ペテロ、三度の否認…鶏が鳴く前に三度、イエス様を知らないと言うとの預言が全くその通りに的中し、それに気づいたペテロは激しく泣きました。第二コリント7:10には「神のみこころに添った悲しみは悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」とあります。ペテロは、みこころに添った悔い改めをし、その後、神に豊かに用いられました。

●1月5日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:47~56)

 ゲッセマネの祈りのあと、イエス様が、祭司長から差し向けられた群衆に捕らえられる場面からポイントを三つ上げて学びましょう。
 ①ユダの口づけの合図…夜中に捕らえに行ったのは、昼間だとイエス様を支持する群衆の反対に遭遇するという恐れを回避するためだったのでしょう。暗がりで、ユダならイエス様がどの人なのか見分けがつくということで、口づけで合図としたのでしょう。イエス様の側から見れば、恩をアダで返されるような情けない気持ちになったことでしょう。また、ユダからすれば、3年間共に過ごした師を裏切るのですから、複雑な苦しい気持ちは避けられなかったでしょう。銀貨30枚のために師を裏切ったユダですが、第一テモテ6:10~11には、金銭を愛することが、あらゆる悪の根であるので、神の人は、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めるべきであるとあります。
 ②剣を取る者はみな剣で滅びます。…国際関係における軍隊や武器保有の問題、教育現場における体罰の問題など、机上での理想論では割り切れない、現場に立つ人たちの現実という難しさもあります。それはさておき、ここでイエス様は、12軍団よりも多い御使いを配下に置くことができるのに、あくまでも十字架の道を進みます。旧約聖書のヨシュア記5章で、ヨシュアの前に立った主の軍の将は、ヨシュアに対し「あなたの足のはきものを脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である。」と言いました。最強の天の軍隊を味方に付けるには、私たちがイエス様に服従することです。
 ③聖書の実現…聖書が実現するためにイエス様は暴徒たちに捕らえられました。聖書に記されたみことばは必ず成ります。しかし、神のみこころは必ず成るからと言って、私たちが何もしないでよいということはありません。やはり、人間の側の努力も必要です。また、実現していく聖書のみことばを暗唱して復唱することも有益です。

●12月29日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:30~46)

 イエス様が弟子たちを伴って、ゲッセマネで祈りをされる箇所からポイントを三つあげて学びましょう。
 ①祈りの応援…この時、イスカリオテ・ユダを除く11人の弟子たちを伴ってゲッセマネに祈りに行かれたイエス様は、さらに、その内から、ペテロとヤコブとヨハネを連れて別の場所に祈りに行かれました。ペテロとヤコブとヨハネは、マタイ17章で、イエス様が高い山に登られたとき、一緒に連れて行った人たちです。イエス様は、罪の無い神のひとり子、神ご自身であられましたが、私たちと同じように、人としての性質を持っておられました。いよいよ、十字架の死を目前にして、彼らの祈りの応援を必要としていたのでしょう。パウロは、エペソ6:19~20で、「福音の奥義を大胆に語ることができるように祈ってください。」とエペソの教会の人たちに祈りの応援を求めています。また、パウロ自身も当時の諸教会の聖徒たちのためによくお祈りをしていました。私たちも、教会の兄弟姉妹のため、礼拝などで奉仕する説教者や奉仕者のため、また、他教会の人々のために祈りの応援をしましょう。  ②みこころを求める祈り…自分の願いと主のみこころが一致しないとき、私たちは、自分を主のみこころに合わせなくてはなりません(ローマ12:2)。ヨナ書で、主はヨナに、ニネベに行くように命じましたが、ヨナはそれを拒み、タルシシュに向かいました。しかし、後に、彼は悔い改め、ニネベに行って、神のことばを伝えました。パウロは、アジア方面で福音を伝えようとしていましたが、マケドニヤを始めとするヨーロッパ方面に行くようにと聖霊に導かれました。主のみこころを求めて祈りましょう。 ③一時間でも目を覚まして祈る。…イエス様は弟子たちを激励しながら、祈りましたが、弟子たちは眠りこけていました。眠っていては祈れません。祈ること、そのことが霊的に目覚めることでもあります。祈りは、理屈ではなく、祈り始めることです。当教会の深夜祈祷会は、この箇所のみことば(マタイ26:40)に基づいて始まりました。教会で行われている祈りのプログラムにも積極的に参加しましょう。

●12月22日の礼拝メッセージ要旨(ルカ1:1~20)

 ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリヤは、当時のローマ皇帝アウグストの勅令によって、住民登録のためにユダヤのベツレヘムに行くことになります。身重のマリヤが、そんな長旅をしなければならないとは、なんということだったのでしょう。しかも、ベツレヘムに着いて、宿もなく、結局、家畜小屋で出産をすることになります。しかし、それは、遠い昔から、イエス様はベツレヘムで生まれなければならないという預言の成就でもありました。また、家畜小屋の飼葉おけで寝かされていることも、羊飼いたちのための印でもありました。私たちの人生においても、それぞれ様々な試練があるものです。しかし、神に愛され、神に選ばれた人々にとって、それは神の栄光が現れるときでもあります。
 ところで、イエス様は何のためにこの世に来てくださったのでしょう。それは救いのためです。何からの救いですか。罪と死と滅びからの救いのためです。先日、NHKテレビで、今年、日米通算4000本安打を達成したイチロー選手が取り上げられていました。イチロー選手は、4000本安打を達成した数日後の試合の終盤で、主力選手を休ませるために代打で登場するという屈辱を味わったということです。「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。(第一ペテロ1:24)」とありますが、野球選手も一時的に脚光を浴びていても、年齢を重ね、やがて現役を退いていかねばなりません。
 詩篇49:20には「人はその栄華の中にあっても悟りがなければ、滅び失せる獣に等しい。」とあります。仏教の開祖釈迦は、世にある死や苦しみを避けようとするから余計苦しむ。それを諦めることが悟りであると教えました。しかし、聖書が言っている悟りは諦めることではなく、真理を知ることです。真理を知るということについて、二つのポイントがあります。一つは、人間は罪人であるということ。もう一つは、イエス様が、その罪の身代わりに十字架で死んで復活し、救い主となってくださったということです。イエス様の御名を呼び求めるならば、救いを受け、永遠のいのちが与えられます。永遠のいのち、天国などと聞くと、なにか薄ぼんやりしたイメージを抱きがちですが、第一コリント13:12を見ますと、実は、今のこの世が薄ぼんやりしていて、むしろ、天国は顔と顔を合わせてはっきりと見える所であり、今、分からないことが明らかにされる所なのです。イエス様を信じ受け入れることにより、天国の前味を知り、永遠が始まっているのです。