2012.5.20礼拝メッセージ要旨(マタイ2:1~12)

 三つのポイントから学びましょう。
 第一は、「東方の博士たちの礼拝」です。ちょうど明日の朝七時半頃は鹿児島から福島にかけて金環日食が見られます。それは、天文学の分野によって、そういうことが分かるのです。東方の博士たちが見た星は、今日の天文学では説明できない超自然的な方法で全能の神様が博士たちを導いたのでしょう。博士たちは、いったいどういう人たちだったのか、ギリシャ語ではマゴスが博士と訳されていますが、魔術師とも訳すことができ、占星術師のような人たちだったかもしれません。が、いずれにしても、彼らは遠い道のりを、特別な王として生まれた幼子を礼拝するために命がけでやって来たのです。彼らの礼拝をする姿勢は、今日の私たちが模範とすべきものです。
 第二のポイントは、「ベツレヘム」です。ルツ記では、ナオミとルツがモアブから帰ってきた場所です。ダビデ王の故郷でもありますが、ミカ5:2では「ユダの中で最も小さいもの」と記されています。真の神は、小さなもの、見下されているようなところに目を留めておられます。使徒パウロは、第二コリント12:10で「私が弱いときにこそ、私は強い」と言いました。神の力は弱いところに働くのです。
 第三は、「黄金・乳香・没薬」です。博士たちがイエス様にささげた、これらのものは、当時、高価な品物で、イエス様の家族の旅費や生活費になったことでしょう。また、黄金は、王の王としてのイエス様にふさわしく、乳香は永遠の祭司としてのイエス様にふさわしく、そして、没薬は十字架で死なれ葬られるイエス様を表していると言われています。正に、イエス様は、十字架により、信じる者に真のいのちを与え、天においても地においてもいっさいの権威をもって、今も、求める者を助けとりなしてくださいます。

2012.5.13メッセージ要旨(マタイ1:18~25)

キリスト降誕直前の記事です。ルカの福音書は、マリヤに焦点が当てられていますが、このマタイの福音書では、ヨセフの心の動きに焦点が当てられています。三つのポイントから学びましょう。第一は「妻マリヤを迎えなさい」です。主の使いが夢でヨセフに現われ、妻マリヤの妊娠が聖霊によるものであることを告げられ、ヨセフは、その言葉に対して、実に従順に従います。士師記に登場するギデオンは、ヨセフと違い、主の使いのことばに対してしるしを求めました。神のことばを疑わず信じ受け入れる人は幸いです。第二は、「その名をイエスとつけなさい」です。イエス様の名の意味は「主は救い」です。この地上に、自らを低くし、救い主となられたイエス様の御名こそ、ほめたたえられ、賛美されるべきです。第三は、「インマヌエルと呼ばれる」です。もちろん、イエス様はインマヌエルと直接的に呼ばれてはいませんが、今日、聖霊によって、信じる者とともにおられる方です。マタイの福音書の最後の節である28:20を見ますと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがととともにいます。」ということばで完結しています。しかし、それは、マタイ28:19~20を見ますと、「あらゆる国の人々を弟子とし、バプテスマを授け、イエス様の教えを教えなさい。」というイエス様の命じられたことを遂行するためでもあります。また、イエス様がともにおられるからこそ、その命じられたことを行なうことができるのです。

2012.5.6礼拝メッセージ要旨(マタイ1:1~17)

黙示録の学びを終え、新約聖書の初めから、マタイの福音書です。イエス・キリストの系図です。この系図は、少なくとも、ユダヤ人にとっては意味の深いものですし、キリストが、旧約聖書で預言されていた救い主であり、正統的な王家の家系から生まれられた、正に由緒正しい方であるということを示すためのものと言えるでしょう。このマタイの福音書に記されている系図では、アブラハムからマリヤの夫であるヨセフまで。一方、ルカの福音書に出てくる系図では、ヨセフの妻であるマリヤの父ヘリからさかのぼってアダムまで記されています。両系図は、アダムからダビデまで同じで、ダビデから、同じ母バテ・シェバによるソロモンとナタン(第一歴代誌3:5)で分かれます。このマタイの系図は、マリヤ以外では四人の女性が出てきます。タマルはユダの息子の嫁です。ラハブは、エリコの遊女です。ルツはモアブ人で再婚です。そして、バテ・シェバはウリヤの妻です。「ウリヤの妻」という表現自体が尋常ではありません。つまり、神は、人間の弱さや醜さを包み込み、それらを用いて、キリストの系図が形成されています。それゆえに、私たちも神の大きな恵みの救いに与ることができるのです。その神の懐の深さと言いましょうか、愛の大きさに比べ、私たち人間は、自分の枠や壁を作ってしまって、自分の枠外の人たちを裁いたり、自分と同類の人たちだけで固まってしまう傾向にあります。ですから、私たちは、もしそれが不要な枠や壁ならば、それを取り払うために努力し、神の大きな愛に一歩でも近づきましょう。

2012.5.2祈祷会メッセージ要旨(詩篇77:1~20)

 この詩篇の記者は、1節で、「私は神に向かって声を上げると、神は聞かれる」と、信仰的な告白をしています。しかし、次の2節では「私のたましいは慰めを拒んだ」、3節では「私の霊は衰え果てる」と、信仰的ではなく、すっかり元気を失っています。8節では「主の恵みは永久に絶たれたのだろうか」と言っていて、この記事はバビロン捕囚が背景になっているのかもしれません。さて、この詩篇の最大のポイントは、10節と11節でしょう。記者は10節で、「私が弱いのは主の右の手が変わったからだ。」と、とんでもないことを言っています。全地全能の主は不変であり、変化するような神は、もはや本当の神ではありません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)」と聖書は言っています。そして、11節では、一転して「私は主のみわざを思い起こそう。」と告白し、そこから、正に信仰のV字回復です。つまり、現実を見て暗く落ち込んでいたのですが、主を見上げ、主がイスラエル人のために行なわれた数々の奇跡を思い起こして、もう一度、信仰に立つことが出来たのです。昔も今も、その人の信仰の通りになります。いつもどんなときも主を見上げ、信仰の言葉、信仰の行動、信仰の人となりましょう。

2012.4.22礼拝メッセージ要旨(黙示録22:1~21)

聖書の最後の章から、四つポイントをあげて学びましょう。①生ける水の川…天の都を流れる生ける水の川の水源は「神と小羊の御座」です。そこから流れてくるのですから、どれだけいのちに溢れていることでしょう。ヨハネ7:37~38を見ますと、イエス様を信じる者は、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになると書いてあります。②聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい。…さばきの時が近づいているとき、私たちが白か黒か分からない、灰色でどちらにも属さないようでは、神様もさばきに困って?しまうでしょう。もちろん、黒や灰色ではなく、イエス様の十字架によって洗われて白に属する者となりましょう。③この書の預言のことばを加えたり取り除いてはならない。…旧新約聖書66巻は正典と呼ばれ、神の霊感によって書かれたものですが、一方で外典、儀典と呼ばれている書もあるので、この点注意が必要です。④「来てください」「すぐに来る」…わたしたちは、数か月後、あるいは一年後の計画を立てていて、案外、その日がすぐに来るということを体験します。準備が十分出来ていると、待ち遠しいのですが、出来ていないと、「ちょっと待って」となります。「主イエスよ来てください。」と心から告白できるような歩み方をしている人はなんと幸いでしょう。

2012.4.15礼拝メッセージ要旨(黙示録21:1~27)

 この章は、聖書の中で、天の光景について最も詳細に記してある箇所と言えるでしょう。この21章、大まかに見て、天では三つの特徴があります。①死も悲しみも叫びもない。②高価な宝石のようなもので形づくられていた。この記事だけですと、若干、無機質な感じがしますが、22章には川もあり、植物もあるようですから、心配?することはないでしょう。③主ご自身が天の都を照らしていた。さて、さて、ここを読んで、私たちはどんなふうに感じるでしょう。すごい!素晴らしい!と感じる反面、多少の違和感もあるかもしれません。つまり、生活感がなくて、なんとなく実際的な魅力を感じないかもしれません。時々、死の間際などに、霊魂が体から離れて、天国を体験した人の証言を聞くことがあります。そこに入ると、皆、異口同音に、「二度と地上に戻りたいとは思わない。」と告白しています。実は、天国はこの上なく魅力的な所なのです。第一コリント13:12を見ますと、そこは完全な場所であり、明確にすべてを知ることができ、むしろ、今の私たちが住むこの地上がほんの一部分でぼんやりした場所であるのです。私たちは、やがてその素晴らしい場所に入らせていただくために必要なことは、イエス様を信じる「信仰」です。また、その信仰を安定的に持続するために「すべてのことに感謝する」ことです。クリスチャンにはイエス様というバックボーンがあります。この世で起こるすべての現象は、全能の主の御手の中にあり、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです(ローマ8:28)。ですから、私たちは、その神を信頼し、信仰を働かせながら、すべてのことについて感謝していきましょう。

2012.4.8礼拝メッセージ要旨(ルカ24:1~12)

 日本ではクリスマスが有名ですが、イースター(復活祭)は、それほど一般的に知られていません。しかし、その内容においてはクリスマスよりも大切な行事ということになります。なぜなら、私たち人間にとって最も恐れる死の解決がイエス様の十字架と復活にあるからです。イエス様は多くの人の罪をその身に負い、十字架で死なれました。それだけでも特別なことですが、イエス様はどうしても復活する必要がありました。それは、復活しなければ、イエス様が真の神のひとり子とは認められず、十字架による罪の赦しも有効なものとみなされないからです。イエス様は、確かに復活し、今日、イエス様を信じる私たちもイエス様と同じように永遠に死ぬことのない復活のからだにされるのです。なんという大きな希望でしょう。しかし、この希望は中々見えにくいところがあります。私たち人間は、財産、名誉、業績、そういったものを持つことによって、それらのものに無意識のうちに頼ってしまうところがあるものですが、しっかりとした人生の土台となりうるのはイエス・キリストだけです。今日、イエス様の墓と言われるところはありますが、そこにはイエス様はおられません。よみがえったからです。自らの無力さを悟り、この方、イエス様を信じる者には聖霊が注がれる、つまり復活のイエス様がともにいてくださいます。イエス様が共におられるなら、恐いものがなくなります。生きる目的が見つかります。毎日が楽しい。もちろん、問題があっても祈ることができます。聖書のことばに励まされます。そして真の希望を持つことができます。 

2012.4.1礼拝メッセージ要旨(黙示録20:1~15)

 この章では三つのキーワードから学びましょう。第一に「千年の間~」です。一般的には千年王国と言われていますが、この「千年の間~」と表現している箇所は聖書ではここだけです。但し、この箇所に関連すると推測できる記事は聖書に何箇所かありますが、聖書は、千年王国について、それほど詳しく述べてはいません。千年が実際的な数字なのか、象徴的な表現なのか、色々な説があるようです。大事なことは、千年王国そのものに対する議論よりも、そういった祝福の場所に入るために主を恐れ、主のみことばに聞き従うことです。第二は、「いのちの書」です。モーセは、出エジプト32:32で「いのちの書」と同じ概念のことを言葉にしています。70人がイエス様に遣わされて、その働きが成功して帰ってきたとき、イエス様は「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。いのちの書に名が記されるということはこの上ない祝福です。今日、イエス・キリストを信じ受け入れることによって、いのちの書に名が記されるのです。第三は、「第二の死」です。ユダヤ人の指導者ニコデモがイエス様をこっそり尋ねたとき、イエス様に「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはありません。(ヨハネ3:3)」と言われました。イエス様を信じて新しく生まれているなら、たとい、死んでも第二の死である永遠の滅びに至ることはありません。すでに救いのうちにある人はイエス様の福音を証ししましょう。