●12月18日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇147篇)

詩篇の各篇は、悔い改めや主への祈りといった内容が多いのですが、この147篇は、主への称賛や賛美に終始しています。
1節では、「われらの神にほめ歌を歌うのは良い。」とあります。礼拝や諸集会で主への賛美を歌うことは、無条件で良いことです。上手に歌えればそれは素晴らしいことですが、それよりも主に賛美をささげる姿勢が最も大事です。
2節は、バビロン捕囚後の帰還のことを言っているのでしょう。当時のイスラエルを再びエルサレムに帰還させたのは全能の主ご自身です。主は打ち砕かれた者をいやし、その傷を包む方であり(3節)、星の数を数え、そのすべてに名を付ける方です(4節)。
10~11節では、主は、馬の力、歩兵を喜ばず、主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを好まる、とあります。つまり、この世の権力や軍事力、そういったものを頼りにするのではなく、全知全能の主を恐れ、主を頼りとして祈る人を主は求めておられます。
13~14節では、主は、神の子らを守り、祝福し、良いもので満たそうとしておられます。また、主は、雪を降らせたかと思えば、一方では、その雪や氷を融かされる方です(15~18節)。
そして19~20節では、「主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。」とあります。聖書の教えを受け入れること、おきてとさばきについて知らされているということは実に幸いです。ヨハネ16:8には「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とあります。その人が、罪について、義について、さばきについて、聖書の正しい見解を持つためには、聖霊の働きが不可欠です。そのために、私たちは、主を恐れ、主に頼り、御恵みを待ち望みつつ(11節)お祈りしていきましょう。

●12月8日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:14~29)

 「過ぎ越しの食事」という題でポイントを三つあげて学びましょう。
  ①食卓の備え…弟子たちはイエス様に過ぎ越しの食事をどこでしたらよいのかと尋ねます。イエス様は、全能の神の権威において、場所を備えました。マタイ21章で、ロバの子に乗られたときも、イエス様はロバを用意させました。創世記22章でアブラハムがイサクをささげようとしたとき、一頭の雄羊が備えられていました。「主の山の上には備えがある。(創世記22:14)」とあるように、今日も、主のみこころに従っていくとき、必要な備えがあるのです。
  ②ユダの裏切り…なぜユダはイエス様を裏切ったのでしょう。このことを理解するのは困難です。全てのことをお見通しのイエス様がなぜユダを選んだのか。ユダからすれば、完全なリーダーであるイエス様になぜ不満を持つのか。新約では12使徒、旧約ではイスラエル12部族が出てきます。12使徒はイスカリオテ・ユダの代わりにマッテヤ(使徒1:26)が加わります。12部族ではダン族が消え、マナセ族(黙示録7:6)が加わっています。マタイ5:48には「天の父が完全なように完全でありなさい。」とありますが、私たちの人生は、毎日毎日、不完全で欠けだらけではないでしょうか。でも、私たちは、その不完全さを受け入れながらも、完全であるイエス様に祈り願い、助けていただきましょう。
  ③過ぎ越しの食事…過ぎ越しの祭りは、かつて、出エジプトのとき、イスラエル人が家の門柱とかもいに傷の無い一歳の雄羊の血を塗ったことにより、神の怒りがその家を過ぎ越したことから、そのことを覚えるために守られてきた祭りです。それは、今日のイエス様の十字架の予表でもあります。裂かれたパンはイエス様のからだ、杯はイエス様が流された血です。イエス様を信じ受け入れる人には、神の怒りが過ぎ越し、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちが約束されています。マタイ26:29でイエス様は、やがて父の御国でも飲食するということを言われています。ヘブル12:22には「天の大祝会」のことが記されています。今、私たちは、イエス・キリストにあって神の民として、この地上で天国の霊的な豊かさ、聖さ、優しさ、誠実さ、そういったものを人々に証ししていきましょう。

●12月1日の礼拝メッセージ要旨(マタイ26:1~16)


   イエス様一行はエルサレムからベタニヤに行き、ツァラアトに冒された人シモンの家でのことです。一人の女性がイエス様の頭に高価な香油を注ぎました。四つの福音書から総合的に判断すると、この女性はマルタの妹マリヤで、この家の主人シモンとは、マルタとマリヤの父親だったのかもしれません。
さて、このとき、弟子たちは憤慨して「何のために、こんな無駄なことをするのか。」と言っています。イエス様が5千人にパンを分け与えたとき、「余ったパン切れを、一つも無駄に捨てないように集めなさい。(ヨハネ6:12)」と言われていますから、そもそも、倹約すること、浪費しないことは聖書の教えでもあります。しかし、ここでマリヤは弟子たちが無駄に思えることをしたのです。そのときイエス様は、「この女はわたしの埋葬の用意をした。世界中どこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られる。」と言われます。実際に、今日、世界中の教会などで、マリヤのしたことが語られています。
このマリヤは、本当にすごい人だと思いますが、なぜ、彼女にそれができたのでしょう。実は、イエス様はマタイの福音書ではこの章26:2もそうですが、16:21、17:23、20:19、それぞれで、ご自分が十字架で殺されるということを語っています。ルカ10:39では「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた。」とあります。ですから、マリヤは、イエス様が語られたことばを素直に受け入れ、その語られたみことばに従って行動したのです。
私たちの毎日の生活は、良識的でなければなりませんし、倹約も必要です。でも、聖書のみことばに従う生活は、永遠に照準を合わせています。それは、時に、無駄と思えたり、非効率に思えることもあるでしょう。しかし、それは、いのちの道であり、永遠の祝福の道です。

●11月27日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇144篇)

この詩篇は、冒頭に「ダビデによる」となっていて、全体的に、主の助けを求める内容です。
3節に「人とは何者なのでしょう。」とあります。この表現は、詩篇8:4でも使われていて、第二サムエル7:18でも、ダビデが「私はいったい何者なのでしょう。」と同じような表現をしています。このときダビデは、預言者ナタンに主の宮を建てることを伝えますが、そのあとで、主は、ナタンを通して、主の宮を建てるのはダビデではなく、ダビデの身から出る者が宮を建て、その王国はとこしえに確立されると語られます。それを聞いたダビデが、そのことばを言ったのです。
元々、ダビデは羊飼いの息子に過ぎない者であったのに、神の民であるイスラエルの王として君臨し、神の宮を建てようとするまでになりました。そして、そればかりでなく、ダビデの王国をとこしえに確立されると言われて、恐れ多いことだと思ったのでしょう。
全知全能の神のひとり子イエス・キリストは、系図上はダビデの子孫として、この地上を歩まれました。そして、十字架による救いを完成させ、正に、とこしえの王国を確立されました。今日、イエス様の救いに与った者は、そのとこしえの王国、すなわち、永遠の天の御国の民に加えられるのです。ダビデが「人とは何者なのでしょう。」と言ったことばは、そのまま、今日のキリスト者にも当てはまるのではないでしょうか。
さて、12~14節でダビデは、息子、娘たち、つまり後継者について言及しています。息子らは「よく育った若木のように」、娘らは「宮殿の建物の柱のように」と願っています。今日の教会に、救われる人々が加えられ、さらに次世代の人々が成長して、教会を建て上げるために熱心に主に仕える、としたら、それは理想的な教会の姿と言えるでしょう。地上的なダビデの王国の場合は、ソロモン王のあと、南北に分裂し、やがて、両王国とも他国に滅ぼされてしまいます。その背景を探るとき、後継者育成の難しさということもあるでしょうが、やはり、後継者の模範となるべき世代が、主に忠実に仕えるということ以外にはないでしょう。

●11月17日の礼拝メッセージ要旨(マタイ25:31~46)

 25章の三つ目のたとえ話、「羊と山羊」という題で、3つポイントをあげて学びましょう。
  ①羊と山羊…羊と山羊は生物学上の分類では共に牛に属するのだそうです。羊と山羊はよく似ています。鳴き声もよく似ていますが、交配はせず、その性質はかなり異なるようです。羊は群れて、素直で、単独行動ができず、迷いやすいのだそうです。一方、山羊は、単独行動をし、人に対して不従順で高い所を好み、羊が外敵に対して逃げるのに比べ、山羊は向かう姿勢を見せるのだそうです。ずいぶん対照的ですが、ちょうど、その、羊と山羊の性質が、私たちの信仰姿勢と重なる部分があるので、イエス様が用いたのでしょう。イザヤ53:6には、「私たち人間はみな、羊のようにさまよっている」とあります。この世の知者であれ、支配者であれ、もし、救い主イエス様に出会わなければ、心の中はさまよっているのです。また、イザヤ53:7には、羊のもう一つの性質である従順を表現しています。イエス様が十字架にかけられるとき、羊のように黙って引かれていったのです。つまり、私たちは、自分が羊のようにさまよっている者であることを認め、同じく羊のように従順にイエス様を信じて従ってまいりましょう。
  ②最も小さい者たちに…東日本大震災では、私たちは被災者としての立場から様々な支援を受けました。また、支援の中継基地のような役割も担い、それは今日も続けられています。しかし、私たちの場合、支援と言っても、限られた小さなことしかできません。それでも、イエス様に五つのパンと二匹の魚をささげた少年のように、自分に出来る精一杯のことをすればよいのです。そういった慈善活動や施しも素晴らしいことですが、一番見落としてならないことは、最も近しい自分の家族や回りの人々に愛(思いやり)を注ぐということです。
  ③永遠の刑罰と永遠のいのち…聖書には、永遠のいのちだけでなく、永遠の刑罰についても明確に言及(マタイ25:46、第二テサロニケ1:8など)しています。聖書を真実な書と位置付ける者にとっては、当然、その永遠の刑罰を免れ、永遠のいのちに与り、さらに、自分だけの救いに満足することなく、多くの者を義とする(ダニエル12:2~3)務めに向かっていかなくてはなりません。

●11月10日の礼拝メッセージ要旨(マタイ25:14~30)

 「預かったタラント」という題で、3つポイントをあげて学びましょう。
  ①各々賜物が与えられている…自然界に生息する動物などを見ますと、その体型、配色など実によく整えられているものです。正に創造主のデザインによって完璧に形づくられていると言えます。まして、私たち人間もそうです。その人の両親のそれぞれの特徴を良い具合に受け継ぎ、最高傑作として仕上げられているのです。そして、ある人には5タラント、ある人には2タラント、また、ある人には1タラントというふうに、それぞれにその人に応じた個性や賜物、また度量が与えられています。ここで、1タラントとはどのくらいの単位なのか調べてみますと、1タラントは60ミナ、1ミナは100デナリで、一日分の賃金に当たる1デナリを仮に1万円として計算すると、1タラントは6000万円となります。大きな金額ですが、それ以上に、私たち一人ひとりには大きな賜物が与えられています。
  ②賜物を用いて生かす…私たちに与えられている賜物が全く生かされない、用いられないとすれば、それは大きな損失です。ある人には預言、またある人には奉仕、そのほか勧め、指導、慈善を行なう力(ローマ12:5~8)、そういった様々な賜物が与えられていて、それらをキリストのからだである教会を建て上げる(イエス様の御名を呼び求める人が一人でも多く起こされる)ために用いられますように。
  ③清算と評価のとき…死後、人はどうなるのでしょう。この世の考えも様々あります。無になる?霊体となって地上をさまよう?輪廻説?などですが、聖書は「ちりは元あった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。(伝道者の書12:7)」とあり、死んだ人の霊魂は創造主のもとに帰ります。しかし、そこから「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」とあるように、厳粛な神のさばきの前に立たされます。しかし、キリストを受け入れた者は神の怒りが臨むことはありません。そうかと言って、与えられた賜物を全く用いないで眠らせておくなら、受けるべき祝福を取り逃がすことにもなるでしょう。1タラントを地の中に隠しておいたしもべは、主人から「だったら銀行に預けておくべきだった。」と言われました。小さなことでもよいし、出来ることでよいのです。何をするにもただ主の栄光を現わすことを求めましょう。最後の清算と評価のとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われるような歩みが出来ますように。

●11月3日の礼拝メッセージ要旨(マタイ25:1~13)

 この25章では、世の終わりと主の再臨をどのように迎えるべきかということについて、三つの記事が記されています。最初の記事、花婿の到着を待つ10人の娘のたとえから三つのポイントで学びましょう。
   ①油の用意…5人の賢い娘たちは油を用意していたので、花婿の到着が遅れても何の問題もありませんでした。しかし、他の5人の愚かな娘たちは油を用意していなかったので、結局、婚宴に間に合いませんでした。さて、私たちが、世の終わりと再臨に備えるために、何を備えておけば良いのでしょう。初代教会が誕生したばかりのとき、救われた人たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをして(使徒2:42)いました。それは、今日も変わることがありません。教会に来て礼拝と交わりを持ち、家に帰っても聖書通読と祈りに励む。そうすることが、油を用意した賢い娘たちのようです。
   ②戸がしめられた…ノアの大洪水のとき、動物とノアの家族が箱舟に入ると、主ご自身が戸を閉ざしました。アブラハムの時代、ロトと彼の妻と二人の娘たちがソドムとゴモラから山に向かって逃げるとき、御使いが後ろを振り返ってはいけないと言いました。しかし、ロトの妻は後ろを振り返り、塩の柱になってしまいました。イエス様は、ルカ16章でラザロと金持ちの話をしています。ラザロが入ったアブラハムのいる場所と金持ちが入ったハデスとの間には大きな淵があって、決して行き来はできません。今、私たちは、恵みの時、救いの日の中に生かされています。しかし、最後の審判のときは容赦なく、救いの戸が閉じられるのです。
   ③目をさましていなさい…私たちは、肉体の健康のために十分睡眠をとる必要があります。ここでは、霊的な意味で眠っていてはいけないということです。創世記28章で、ヤコブは、父イサクのもとから叔父のラバンの所へ旅立ち、途中で石を枕にして野宿しました。そのとき、彼は夢を見ました。一つのハシゴが天から地に向けてかけられていて、そのハシゴを神の使いが上り下りしていたのです。目を覚ましたヤコブは、「ここは天の門だ。」と言いました。アブラハムから受け継がれた祝福がヤコブにも注がれていたのです。今日、私たちにもイエス様によってアブラハムの祝福が注がれています。イザヤ60:1には「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。ヤコブのように、私たちの真上にも主の栄光が輝いているのです。霊の目を覚まし、起き上がって、主の栄光を反映させるような生き方を求めてまいりましょう。

●10月30日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇140篇)

 この詩篇は、ダビデの賛歌となっています。ダビデを苦しめる人々に対して、ダビデは、彼らから自分が守られるようにと祈っています。ダビデにとって「よこしまな人、暴虐な者、悪者」とは誰でしょう。ペリシテなどの当時のイスラエルを取り巻いていた敵対する国々のことかもしれませんが、ダビデをもっと苦しめたのは、ダビデの義父でもあるサウル王、そして、実の息子でもあるアブシャロムではないでしょうか。サウルはダビデの命を狙い続けました。アブシャロムはダビデを王宮から追い出しました。結果的に、サウルもアブシャロムも自滅してしまいますが、何が彼らをそうさせたのでしょう。サウルは、部下でもあるダビデが戦いに出て大勝利したとき、イスラエルの娘たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌ったのを聞いて、ひどく怒り、それ以来、ダビデを妬み、憎むようになりました。アブシャロムは自分の妹タマルがアムノンによって辱めを受けたとき、ダビデの対応に不満を持ち、その気持ちが日増しに大きくなっていったのでしょう。
   もし、サウルが、寛大な心で、優秀なダビデを自分の部下として味方に付けておけば、サウルの王権は安泰だったことでしょう。アブシャロムも自分の怒りを治め、静かにしていれば、ダビデ王家の側近として、平穏に過ごすことが出来たでしょう。
   さて、ダビデは、10節で「燃える炭火が彼らの上にふりかかりますように。」と言っています。旧約聖書的な表現と言えますが、新約聖書のローマ12:20では「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあり、敵を赦すこと、愛すことを教えています。
   私たちの生涯においても、サウルやアブシャロムのように人を憎み続けたり、恨み続けるならば、やがて病的になり、結局、自分自身に災いをもたらすでしょう。寛容であり、柔和であり、謙遜に主を恐れつつ、人々をどこまでも愛していく、そのような歩みが求められているのではないでしょうか。
   この詩篇の最後のあたりの12節でダビデは「私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。」と、全能の主に信頼する信仰的な告白をしています。

●10月20日の礼拝メッセージ要旨(マタイ24:29~51)

 24章前半では、「世の終わりの前兆」という題で学びました。この後半では、「キリストの再臨」ということに焦点をあてて三つのポイントで学びましょう。
   ①天変地異…太陽が東から出て西に沈む。私たちは、それを毎日、当たり前のように感じています。今年2月15日にロシアのチェリヤビスク州で隕石が落下し、建物などに大きな被害が出たというニュースを知りました。「星は天から落ち(29節)」という聖書のみことばを思い浮かべました。天の万象が揺り動かされる、そのようなときにイエス様が再臨されるようです。そのとき地上では、悲しみながら人の子を迎える人(30節)と携挙に与る人(31節)の二種類の人々があると言っています。第二ペテロ3:6~7で、ノアの大洪水では水によって当時の世界が滅びたけれども、今の天と地は、同じみことばによって火に焼かれるためにとっておかれているとあります。
   ②その日、その時がいつであるか…32節では「イチジクの木からたとえを学びなさい。」とありますが、再臨の日が近づいているのかどうなのか、そういった霊的現象を見分けるには、聖書をよく読むことです。但し、再臨の日がいつかということを論じるとき、最も注意しなければならなのは、その日を特定すべきではないということです。36節には「いつであるかは~父だけが知っている」とあり、使徒1:7には「いつとか~知らなくてよい」ともあります。40~41節には、日常生活の中で、一人が取られ、一人が残されるとあります。仲の良い二人のうち、一人だけ携挙に与ることよりも、二人一緒のほうがより幸いです。私たちを取り囲む愛する家族や友人のためにも祈りましょう。
   ③忠実な賢いしもべ…最近、アンパンマンの作者・やなせたかしさんがお亡くなりになりました。アンパンマンの漫画(劇画)がヒットしたのは、やなせさんが69歳になったときだったそうです。そういった漫画の世界でコツコツと自分の道を模索しながら長く続けて来られて成功を見たのでしょう。私たちの信仰生活も堅実で忠実であることが必要です。継続は力です。聖書をコツコツ読み続ける。祈り求め続ける。信仰の成長に役立たないようなことには深入りしない。主人が帰って来たときに、任された仕事に忠実だったしもべのようでありたいものです。

●10月13日の礼拝メッセージ要旨(マタイ24:1~28)

●10月13日の礼拝メッセージ要旨(マタイ24:1~28)

 マタイ24章はイエス様が世の終わりの前兆と再臨について語っている記事です。1~28節からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①神殿と終末…24章の冒頭で、当時の神殿のことが取り上げられます。イエス様は、神殿の積まれた石がくずされる時がくると言っていますが、その後のAD70年に、ローマ軍によって神殿が破壊されます。さてここで、私的にひらめいた興味深いことを話しましょう。BC1000年頃、ソロモン王が建てた第一神殿がバビロンによって破壊されたのはBC586年で、その70年後に第二神殿が再建されます。そして、キリスト降誕の数年前に、ヘロデ王によってその第二神殿が改修、増築され、そのヘロデ神殿はAD70年にローマ軍によって破壊されます。つまり、第一神殿が破壊されて再建するまで70年、キリスト降誕からヘロデ神殿が破壊されるまで70年(約)です。そして、マタイ24:15に「荒らす憎むべき者が聖なる所に立つ」とあります。第二テサロニケ2:3~4のみことばとも一致します。ところが聖なる所となるはずの神殿は現在も破壊されたままです。一方で、現在、エルサレムでは、第三神殿の建設計画があるとのことです。数字遊びかもしれませんが、70年という数字をイスラエル建国の1948年に加算すると2018年となります。もちろん、これは憶測であって、先のことは分かりませんが、仮にあと5年して第三神殿が再建されると、マタイ24:15、第二テサロニケ2:3~4のみことばが成就する下地が出来るということになります。この章の最初に神殿が取り上げられているのは、そういった背景があるからなのかもしれません。
   ②その他、世の終わりの前兆…偽キリストの出現、戦争、民族間の対立、ききん(異常気象)、地震、これらは産みの苦しみの初めで、さらに、背教、裏切り、偽預言者、不法がはびこり、愛が冷えると言っています。15~22節は、AD70年のエルサレム陥落の時と重なる部分があるでしょうし、キリスト再臨前と重なる部分もあるでしょう。そして、23~27節では、偽キリストにだまされないように、キリストの再臨は明確に起こると言っています。このとき、私たちは、第一テサロニケ4:16~17のみことばの通りに空中再臨の恵みに与る者とならせていただきましょう。はげたかに食われる死体のように、霊的に死んだ人のようにではなく、霊的に生きた人として再臨を迎えようではありませんか。
   ③福音宣教…終わりの日が来る前提として、福音が全世界に宣べ伝えられなければなりません。神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます(第一テモテ2:4)。私たちも御国の福音を宣べ伝え、証しするために用いられますように。