●11月3日の礼拝メッセージ要旨(マタイ25:1~13)

 この25章では、世の終わりと主の再臨をどのように迎えるべきかということについて、三つの記事が記されています。最初の記事、花婿の到着を待つ10人の娘のたとえから三つのポイントで学びましょう。
   ①油の用意…5人の賢い娘たちは油を用意していたので、花婿の到着が遅れても何の問題もありませんでした。しかし、他の5人の愚かな娘たちは油を用意していなかったので、結局、婚宴に間に合いませんでした。さて、私たちが、世の終わりと再臨に備えるために、何を備えておけば良いのでしょう。初代教会が誕生したばかりのとき、救われた人たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをして(使徒2:42)いました。それは、今日も変わることがありません。教会に来て礼拝と交わりを持ち、家に帰っても聖書通読と祈りに励む。そうすることが、油を用意した賢い娘たちのようです。
   ②戸がしめられた…ノアの大洪水のとき、動物とノアの家族が箱舟に入ると、主ご自身が戸を閉ざしました。アブラハムの時代、ロトと彼の妻と二人の娘たちがソドムとゴモラから山に向かって逃げるとき、御使いが後ろを振り返ってはいけないと言いました。しかし、ロトの妻は後ろを振り返り、塩の柱になってしまいました。イエス様は、ルカ16章でラザロと金持ちの話をしています。ラザロが入ったアブラハムのいる場所と金持ちが入ったハデスとの間には大きな淵があって、決して行き来はできません。今、私たちは、恵みの時、救いの日の中に生かされています。しかし、最後の審判のときは容赦なく、救いの戸が閉じられるのです。
   ③目をさましていなさい…私たちは、肉体の健康のために十分睡眠をとる必要があります。ここでは、霊的な意味で眠っていてはいけないということです。創世記28章で、ヤコブは、父イサクのもとから叔父のラバンの所へ旅立ち、途中で石を枕にして野宿しました。そのとき、彼は夢を見ました。一つのハシゴが天から地に向けてかけられていて、そのハシゴを神の使いが上り下りしていたのです。目を覚ましたヤコブは、「ここは天の門だ。」と言いました。アブラハムから受け継がれた祝福がヤコブにも注がれていたのです。今日、私たちにもイエス様によってアブラハムの祝福が注がれています。イザヤ60:1には「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。ヤコブのように、私たちの真上にも主の栄光が輝いているのです。霊の目を覚まし、起き上がって、主の栄光を反映させるような生き方を求めてまいりましょう。

●10月30日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇140篇)

 この詩篇は、ダビデの賛歌となっています。ダビデを苦しめる人々に対して、ダビデは、彼らから自分が守られるようにと祈っています。ダビデにとって「よこしまな人、暴虐な者、悪者」とは誰でしょう。ペリシテなどの当時のイスラエルを取り巻いていた敵対する国々のことかもしれませんが、ダビデをもっと苦しめたのは、ダビデの義父でもあるサウル王、そして、実の息子でもあるアブシャロムではないでしょうか。サウルはダビデの命を狙い続けました。アブシャロムはダビデを王宮から追い出しました。結果的に、サウルもアブシャロムも自滅してしまいますが、何が彼らをそうさせたのでしょう。サウルは、部下でもあるダビデが戦いに出て大勝利したとき、イスラエルの娘たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌ったのを聞いて、ひどく怒り、それ以来、ダビデを妬み、憎むようになりました。アブシャロムは自分の妹タマルがアムノンによって辱めを受けたとき、ダビデの対応に不満を持ち、その気持ちが日増しに大きくなっていったのでしょう。
   もし、サウルが、寛大な心で、優秀なダビデを自分の部下として味方に付けておけば、サウルの王権は安泰だったことでしょう。アブシャロムも自分の怒りを治め、静かにしていれば、ダビデ王家の側近として、平穏に過ごすことが出来たでしょう。
   さて、ダビデは、10節で「燃える炭火が彼らの上にふりかかりますように。」と言っています。旧約聖書的な表現と言えますが、新約聖書のローマ12:20では「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあり、敵を赦すこと、愛すことを教えています。
   私たちの生涯においても、サウルやアブシャロムのように人を憎み続けたり、恨み続けるならば、やがて病的になり、結局、自分自身に災いをもたらすでしょう。寛容であり、柔和であり、謙遜に主を恐れつつ、人々をどこまでも愛していく、そのような歩みが求められているのではないでしょうか。
   この詩篇の最後のあたりの12節でダビデは「私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行なわれることを。」と、全能の主に信頼する信仰的な告白をしています。

●10月20日の礼拝メッセージ要旨(マタイ24:29~51)

 24章前半では、「世の終わりの前兆」という題で学びました。この後半では、「キリストの再臨」ということに焦点をあてて三つのポイントで学びましょう。
   ①天変地異…太陽が東から出て西に沈む。私たちは、それを毎日、当たり前のように感じています。今年2月15日にロシアのチェリヤビスク州で隕石が落下し、建物などに大きな被害が出たというニュースを知りました。「星は天から落ち(29節)」という聖書のみことばを思い浮かべました。天の万象が揺り動かされる、そのようなときにイエス様が再臨されるようです。そのとき地上では、悲しみながら人の子を迎える人(30節)と携挙に与る人(31節)の二種類の人々があると言っています。第二ペテロ3:6~7で、ノアの大洪水では水によって当時の世界が滅びたけれども、今の天と地は、同じみことばによって火に焼かれるためにとっておかれているとあります。
   ②その日、その時がいつであるか…32節では「イチジクの木からたとえを学びなさい。」とありますが、再臨の日が近づいているのかどうなのか、そういった霊的現象を見分けるには、聖書をよく読むことです。但し、再臨の日がいつかということを論じるとき、最も注意しなければならなのは、その日を特定すべきではないということです。36節には「いつであるかは~父だけが知っている」とあり、使徒1:7には「いつとか~知らなくてよい」ともあります。40~41節には、日常生活の中で、一人が取られ、一人が残されるとあります。仲の良い二人のうち、一人だけ携挙に与ることよりも、二人一緒のほうがより幸いです。私たちを取り囲む愛する家族や友人のためにも祈りましょう。
   ③忠実な賢いしもべ…最近、アンパンマンの作者・やなせたかしさんがお亡くなりになりました。アンパンマンの漫画(劇画)がヒットしたのは、やなせさんが69歳になったときだったそうです。そういった漫画の世界でコツコツと自分の道を模索しながら長く続けて来られて成功を見たのでしょう。私たちの信仰生活も堅実で忠実であることが必要です。継続は力です。聖書をコツコツ読み続ける。祈り求め続ける。信仰の成長に役立たないようなことには深入りしない。主人が帰って来たときに、任された仕事に忠実だったしもべのようでありたいものです。

●10月13日の礼拝メッセージ要旨(マタイ24:1~28)

●10月13日の礼拝メッセージ要旨(マタイ24:1~28)

 マタイ24章はイエス様が世の終わりの前兆と再臨について語っている記事です。1~28節からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①神殿と終末…24章の冒頭で、当時の神殿のことが取り上げられます。イエス様は、神殿の積まれた石がくずされる時がくると言っていますが、その後のAD70年に、ローマ軍によって神殿が破壊されます。さてここで、私的にひらめいた興味深いことを話しましょう。BC1000年頃、ソロモン王が建てた第一神殿がバビロンによって破壊されたのはBC586年で、その70年後に第二神殿が再建されます。そして、キリスト降誕の数年前に、ヘロデ王によってその第二神殿が改修、増築され、そのヘロデ神殿はAD70年にローマ軍によって破壊されます。つまり、第一神殿が破壊されて再建するまで70年、キリスト降誕からヘロデ神殿が破壊されるまで70年(約)です。そして、マタイ24:15に「荒らす憎むべき者が聖なる所に立つ」とあります。第二テサロニケ2:3~4のみことばとも一致します。ところが聖なる所となるはずの神殿は現在も破壊されたままです。一方で、現在、エルサレムでは、第三神殿の建設計画があるとのことです。数字遊びかもしれませんが、70年という数字をイスラエル建国の1948年に加算すると2018年となります。もちろん、これは憶測であって、先のことは分かりませんが、仮にあと5年して第三神殿が再建されると、マタイ24:15、第二テサロニケ2:3~4のみことばが成就する下地が出来るということになります。この章の最初に神殿が取り上げられているのは、そういった背景があるからなのかもしれません。
   ②その他、世の終わりの前兆…偽キリストの出現、戦争、民族間の対立、ききん(異常気象)、地震、これらは産みの苦しみの初めで、さらに、背教、裏切り、偽預言者、不法がはびこり、愛が冷えると言っています。15~22節は、AD70年のエルサレム陥落の時と重なる部分があるでしょうし、キリスト再臨前と重なる部分もあるでしょう。そして、23~27節では、偽キリストにだまされないように、キリストの再臨は明確に起こると言っています。このとき、私たちは、第一テサロニケ4:16~17のみことばの通りに空中再臨の恵みに与る者とならせていただきましょう。はげたかに食われる死体のように、霊的に死んだ人のようにではなく、霊的に生きた人として再臨を迎えようではありませんか。
   ③福音宣教…終わりの日が来る前提として、福音が全世界に宣べ伝えられなければなりません。神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます(第一テモテ2:4)。私たちも御国の福音を宣べ伝え、証しするために用いられますように。


●10月6日の礼拝メッセージ要旨(マタイ23:29~39)

 37節に「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」とあります。創造主である天の神様は、ご自分の民であるイスラエルを愛して、ひなを翼の下に集めるめんどりのようにしたけれども、イスラエルはそれを拒否し、むしろ、彼らのところに遣わされた預言者たちを殺しました。イエス様も、そのみことばのとおりに、その後、殺され、そして復活し、それによって福音が全世界に届けられるようになります。この福音を受け入れるか否かということは、個人にとっても集団にとっても非常に大きな違いを及ぼします。
   私たちの住んでいる日本の国を考えてみましょう。現在NHKで「八重の桜」が放送されています。現在の同志社大学の前身である同志社英学校が創立されたのが、1875年(明治8年)で、その時代背景に大きな影響を及ぼしたであろうと思われる岩倉具視使節団がアメリカ、ヨーロッパに向けて日本を出港したのが1871年(明治4年)のことです。約2年にわたる使節団の旅程のなかでは、特にキリスト教の宣教を日本が受け入れるようにと諸国から要請があったということです。現在、世界の国々を見るとき、キリスト教の宣教を受けいれている国々と拒否している国々を比べてみるとき、言論の自由があるか民主的かという点で大きな違いを見ます。福音に対して閉ざされた国がどれだけ本来あるべき天来の祝福を遠ざけてしまっているでしょう。
   詩篇91:4には「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」とあります。特に、私たち個人においても、創造主である真の神様の翼の下に身を置きましょう。そして、いつも信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないように(ヘブル12:2)していましょう。

●10月1日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇137篇)

●10月1日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇137篇)
 この詩篇は、バビロンに捕囚となったユダヤ人が、故郷のエルサレムを思い出して、川のほとりで泣いているという内容です。
   立琴を奏でる記者が、自分たちを捕え移した者たちから、「シオンの歌を歌え」と興を求められたとき、「どうして異国の地にあって主の歌を歌えようか。もし、歌うのなら、それは主をないがしろにすることであって、そうならないように、自分の右手が立琴を巧みに奏でる能力を忘れてしまうように。」と、そういう意味のことを告白しています。
   また、6節では、「もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」と告白していますが、記者は、バビロン捕囚という苦しみと屈辱の中にあって、逆に、それ故に、創造主である天の主を最上の喜びとするという表現をしています。
   そして、この詩篇の最後では、バビロン捕囚においてエルサレムが陥落するときにバビロンとバビロンに加担して略奪を試みたエドムに対して、主の裁きを訴えています。
   異国に捕え移される。そこで不自由な生活を強いられる。そして、自分たちが信じていた天の神を自由に礼拝できない。そういう環境に置かれるということは、想像もできないほど大変なことでしょう。しかし、全知全能の創造主である真の神を信じる者にとっては、そういった苦難が、その人をより高い信仰の高嶺に引き上げてくださるのです。5節、6節の告白は、この詩篇の記者が信仰的に、より高い境地に引き上げられた証拠と言えるでしょう。

●9月22日の礼拝メッセージ要旨(マタイ23:13~28)

 イエス様は、パリサイ人や律法学者らに対して「わざわいだ」と何回か言っています。この「わざわいだ」は、ギリシャ語原語で感動詞、あるいは間投詞で、嘆きをあらわす「ああ」というような言葉のようです。13~28節まで、ポイントを6つあげて学びましょう。
   ①天の御国をさえぎる…ジョン・バンヤンが著した「天路歴程」は、非常に有名で、天国を目指してこの地上の旅を続ける私たち信仰者を励ましてくれます。この書のように、読んだ人を天国へ近づけるものもあれば、逆に遠ざけるものも無数にあるでしょう。パリサイ人らも人々を天国から遠ざけていましたが、私たちは、人々を天国へ近づける。また、天国の入り口を開けておく、そんな良い働きをしたいものです。
   ②見栄の祈り…パリサイ人らは、やもめの家を食いつぶしていましたが、使徒6章で、初代教会では弱い立場のやもめたちを助けていました。弱者に手を差し伸べるのは今日の教会の使命でもあります。また、祈りは見栄でするものではありません。基本的に奥まった部屋で、隠れた所におられる天の父に祈るのです。
   ③改宗者…イエス様でさえも、12弟子のうちの一人は反逆者となりましたが、初代教会誕生後、他の弟子たちは豊かに用いられ、教会が建て上げられていきました。私たちも、私たちと関わる人たちが救われ、その人が成長し、実を結んだらどんなに幸いでしょう。そのためには私たち自身が聖霊充満されることです。
   ④誓い…パリサイ人らは誓いについて勝手な理屈で間違った教えを伝えていました。何を指して誓っても誓いは誓いです。ヤコブは誓いを重んじ、エサウは誓いを軽んじました。故に、長子の権利は結果的にヤコブに移りました。
   ⑤十分の一のささげもの…パリサイ人らは、十分の一のささげものについて実に細かく無意味な規定を定めていました。本末転倒とはこのことです。実は、私たちも生活の中で、どうでもよいようなことを優先し、大事なことを後回しにしてしまうようなこともあるかもしれません。この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころを優先(ローマ12:2)しましょう。
   ⑥内側と外側…サムエルがエッサイの子8人のうちから次の王として油を注ごうとしていたとき、主は「人はうわべを見るが、主は心を見る(第一サムエル16:7)」と言われました。ダビデは信仰の人であり、内なる人が立派で、主に選ばれ、用いられたのです。

●9月18日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇136篇)

※9月15日礼拝がゲストスピーカーでしたので祈祷会のメッセージです。

 この詩篇は、主への礼拝をささげるときに、感謝と栄光を主に帰する交読文として用いられたのではないかと思われます。
   1節から9節では、主はいつくしみ深い方であり、主の主であり、ただ一人不思議を行なわれ、この世界を創造された方であると告白しています。
   10節から22節では、イスラエル人の出エジプトからカナンの地まで導かれたことを振り返りながら、主に感謝と栄光を帰しています。
   そして、23節では、「主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。」と言っていますが、かつて、イスラエルは、何度も主に対して背を向け、それゆえ、敵国から侵略されたり、支配されたりと、苦汁を味わい、卑しめられた経験をしました。しかし、そのような中においても、主はイスラエルから目を離すことはありませんでした。
   次の24節では「主は私たちを敵から救い出された。」とありますが、実際に、主は、何度も何度もイスラエルを回復させています。しかし、永遠の救いは、ただ一度、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られたイエス・キリストによる十字架の死と復活です。それは、言うまでもなく、イスラエルだけでなく、全人類のために、真の敵である悪魔からの救いとなりました。
   そして、25節では「主はすべての肉なる者に食物を与えられる。」とあります。関連したみことばとして、マタイ5:45には「 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とあり、天の父なる主は、全ての人にご自分の愛を注いでおられるのですから、私たちも天の父のように慈しみ深い者でありたいと思います。クリスチャン新聞福音版10月号に紹介されていた栗原明子さんの未信者の夫は、自宅の近くに教会が出来たので、明子さんに教会に行きたいと言いました。その後、教会で、牧師が、明子さんの夫に「なぜ教会に行きたいと思ったのですか。」と尋ねると、彼は「妻の明子が、なぜそんなに優しく出来るのかを知りたかった。」と答えたということです。

●9月8日の礼拝メッセージ要旨(マタイ23:1~12)

 パリサイ人や律法学者らとの問答を終えられたイエス様は、群集と弟子たちを前にして、彼らに対する評価を下しています。表向きは善人ぶっていたパリサイ人、律法学者ですが、その実態は偽善者であり、イエス様ははばかることなく彼らの悪を明らかにします。1~12節からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①みことばを実行する人…当時のパリサイ人、律法学者は律法を守るようにと、人々に教えていましたが、自ら律法を実践することについては無関心でした。言うには言うが、言ったことを自ら実行しない。そんな人にはなりたくありませんね。何か行動的なことでなくても、例えば、「いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝せよ。(第一テサロニケ5:16~18)」というみことばがあります。簡単に実行できそうに思えますが、実はそれほど簡単ではありません。でも、実行したら、どんなことが起きるでしょう。それまで、つぶやいてばかりいる人が、どんな時にも喜び、祈り、感謝したら、イエス様がどれほど喜んで下さり、その人に祝福を注がれることでしょう。
   ②師はただ一人キリスト…全知全能の聖なる創造主の前に、全ての人間は罪人であり、みな同じような者であって特別な人はいません。ですから、キリスト教会の中には、牧師などの教職の立場にある人に対して徹底して「先生」と言わない教派もあります。それはそれで良いことだと思います。エペソ4:11には、「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とありますので、一方では、神から与えられた職務という立場もあります。教会は、イエス・キリストをかしらとして、互いに尊敬し合い、仕えあっていくことが求められています。
   ③自分を低くする…ヤコブ4:6には「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあります。謙遜な人は祝福されます。ところで、聖書の教えから見て、本当に謙遜な人とはどういう人でしょう。それは、ただ単に自分を低くしているということではなく、共におられる主を認め、たとい自分の思うように事が運ばなくても、主のみ旨が何であるかどうかということを第一に考える人です。そして、決して主から離れず、主の時を忍耐して待ち望むことができる人です。

●9月1日の礼拝メッセージ要旨(マタイ22:34~46)

 パリサイ人、サドカイ人らは、それまで二度、三度とイエス様をためそうと質問を試みたのですが、うまく行かず、最後に律法の専門家によって、「律法の中で大切な戒めはどれですか。」と、質問します。この再三の彼らによる質問とイエス様のお答えは、今日、私たちが聖書を学ぶ上での助けになっています。さて、イエス様は、その律法の専門家の質問に対して「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」、そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」、律法と預言者とがこの二つの戒めにかかっていると言われました。簡単にまとめますと、神と人とを愛すること、これが聖書が言っていることであるということです。神を熱心に愛しているけれども人を人とも思わない。人に対しては親切だけれども神の存在を認めようとしない。これではいけません。十戒に当てはめると、1戒から4戒は神と人との関係の第一の戒め、5戒から10戒が人と人との関係の第二の戒めです。神を愛する具体的な行動の第一歩は、聖日の礼拝参加です。また、人を愛することについては、父と母を敬うことから良い人間関係が始まるでしょう。
 この章の最後でイエス様は、パリサイ人らに「ダビデは、キリスト(メシヤ)を主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」と、詩篇110篇のみことばから、逆に質問をします。しかし、彼らは答えることができず、それ以後は誰もイエス様に質問しませんでした。イエス・キリストは、人としてこの世に現われましたが、永遠に生きておられ、天地創造の時にはそこにおられました。この方を私たちは信じています。クリスチャンはイエス様によって罪が赦され、永遠の希望と祝福が待っています。ちょうど、出エジプトしたイスラエル人のように、私たちは、すでに様々な奇跡を体験しているものです。イスラエル人の場合は、数々の奇跡を見ていながら、多くの者が途中で不信仰になり、約束のカナンの地を見ることなく荒野で死に絶えてしまいました。今日、私たちは、信仰によって始まったクリスチャンライフが、引き続き信仰によって進ませていただきましょう。昨日も今日も変わることのないイエス様が共におられるのですから。