●5月19日の礼拝メッセージ要旨(マタイ17:1~13)

 イエス様がペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に上られ、そこでお姿を変えられたという聖書の箇所からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①本来のお姿…自分が高い地位にあるのに、それを隠して一般民衆の中に紛れ込む、そんな映画もありました。また、その逆で、何の力もないのに周囲に祭り上げられて、偶像化しているというケースもあります。日本には八百万(やおよろず)の神々がいると言われています。それらは正に偶像であり、口や耳がかたどってあっても語ることも聞くことさえもできません。イエス様は人の姿となって、この地上を歩まれましが、本来のお姿は、このマタイ17:2や黙示録1:13~15で表現されているものです。その力強い方が、低くなられて十字架まで従われた(ピリピ2:6~8)のです。 
 ②彼の言うことを聞きなさい…お姿が変わったイエス様の前にモーセとエリヤが現われたので、ペテロは三人のために三つの幕屋を作ると言ったのですが、天から「彼の言うことを聞きなさい。」という厳かな声を聞きます。今日、私たちも、イエス様のみことば、聖書のみことばをよく読み、聞き従う者となりましょう。
 ③エリヤはすでに来た…目の前にエリヤを見たペテロらは、エリヤが来る(マラキ4:5~6)と言われていることと重ね合わせて、戸惑いを感じました。しかし、イエス様は、来るべきエリヤとはバプテスマのヨハネだと言われます。最後の大いなる神の審判の前に、バプテスマのヨハネが道備えしたイエス様の十字架の救いの道が開かれました。この時点で、ペテロたちは、そのことを理解できませんでしたが、今日、私たちは、イエス様の救いを受け、イエス様とともに勝利の道を進みましょう。

●5月15日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇119:121~176)

 詩篇119篇は聖書の中で最も長い巻です。また、ヘブライ22文字による、言わばイロハ歌でもあります。8節つずつ、22文字分ですから、合計176節まであります。これまで40節づつ3回、120節まで学び、この日最後の4回目は121~176節までの56節から学びます。
  まず、121~128節の部分では、記者は、金よりも純金よりも主の仰せ(みことば)を愛し、偽りの道を憎みます、と言っています。
129~136節では、みことばが光のように差し込んで悟りを与え、自分がどんな罪にも支配されないようにと言っています。
 137~144節では、あなたのさとし(みことば)はなんと正しく真実でしょう。また、それはよく練られていると言っています。
 145~152節では、祈りのことが記されています。記者は、夜明け前に起きて叫び求め、みことばを待ち望むと言っています。
 153~160節では、「私を生かしてください」と三回も繰り返しています。みことばにより神のご計画に従っていくとき、その人は神に用いられる器として最高に生かされるでしょう。
 161~168節では、記者は試練の中でもみことばをみつけて喜ぶと言っています。
 最後の169~176節では、みことばの約束通りに悟りが与えられて賛美する者とならせてくださいと言っています。
 以上、119篇は、イロハ歌で、特に定まったテーマというものは無いようですが、全体を振り返りますと、「みことばに従って生きることの幸い」ということが繰り返されていて、やはり、みことばと祈り、ディボーションの実践がその人を生かすカギということでしょう。

●5月5日の礼拝メッセージ要旨(マタイ16:21~28)

 ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白した、そのあとで、イエス様は、ご自分が十字架で死なれ復活するということを語られます。その箇所から三つのポイントで学びましょう。
   ①神のことを思う…ペテロは、イエス様が殺されるということを聞いて、イエス様を諌め、「そんなことが起こるはずがない。」と強く否定します。しかし、イエス様は「下がれサタン~あなたは神のことを思わず人のことを思っている」とペテロに言います。今日、私たちも日常生活の中で、人がどう思うかということばかりに関心を向けて、神のことを無視してしまうようなことがあるかもしれません。この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころは何かをいつも求める者となりましょう。
   ②自分の十字架を負う…インドの高名なキリスト者サンダー・シングは、ヒマラヤの凍てつく雪道で倒れていた人を助けようと、肩に背負ったところ、互いの体温と神の愛の力によって、助けたはずの自分自身が助かったと言っています。私たちも小さなことでも、自分に与えられた使命に忠実に生きるとき、そこに神の栄光が現われるでしょう。
   ③たとい全世界を得ても…申命記8:17には「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。」とあります。どんなに莫大な富を所有していても、それは一時的なことであり、その富が魂を救うということは決してありません。罪の赦し、魂の救いのために、神のひとり子イエス・キリストが十字架により、聖なる尊い血を流されて、永遠の救いの道を開かれました。イエス様によって永遠のいのちを得、この救いを証ししましょう。

4月28日の礼拝メッセージ要旨(マタイ16:13~20)

 ピリポ、カイザリヤ地方というと、ガリラヤ湖の北端から北へ約50㎞ほどの所で、そこでの出来事です。ペテロがイエス様に対し、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と信仰告白した有名な箇所から三つのポイントで学びましょう。
 ①「あなたはキリストです。」…イエス様は弟子たちに、「人々は人の子を誰だ言っていますか。」と聞かれ、続いて弟子たちにも「あなたがたは何と呼ぶか。」と言われました。当時、多くの人々はイエス様のことを預言者の一人だと言っていました。しかし、ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです。」と言いました。「預言者の一人」と言うことと「神の御子キリスト」と言うことでは大きな違いがあります。ペテロがそのように告白できたのは、単なることではなく、実に天の父によるのです。今日、私たちがイエス様を主と告白できるとすれば、それは天の父と一体である聖霊の働きに(第一コリント12:3)よります。
 ②岩の上にわたしの教会を建てる…イエス様はペテロに「あなたはペトロス(石)です。」と言われ、そのあと「わたしはこのペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。こののちペテロはイエス様が捕えられたときイエス様を三度も「知らない」と言います。このときのペテロの信仰告白は石ころのような頼りないものだったということでしょう。しかし、教会は揺るぎない信仰の上にイエス様ご自身が建てられるのです。
 ③天の御国のカギ…19節でイエス様は、ペテロに天の御国のカギをあげると言われていますが、マタイ18:18では弟子たちに対し「あなたがたに」と同じ内容のことを言っています。つまり、今日、誰にとってもイエス・キリストが天の門であり、天の御国のカギであるのです。この聖なるカギによって、心を一つにして祈るならば、天の父はそれをかなえてくださるのです。

2013.4.21礼拝メッセージ要旨(マタイ16:1~12)

 パリサイ人やサドカイ人たちが、イエス様をためそうとして近づいてきて、「天からのしるしを見せてください。」と言い、それに対するイエス様のことばなどから、3つのポイントをあげて学びましょう。
 ①時のしるし…パリサイ人、サドカイ人たちはユダヤ教の一派であり、宗教的には専門家であり指導者でもありましたが、彼らは霊的には無知でした。今日、私たちも、今がどのような時なのかということを見分ける目をもっていなければなりません。最近起こったボストンマラソンでのテロ事件、中国四川省での大地震などは「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。(マタイ24:7)」というみことばと無関係ではありません。主の再臨の前に、いつ不法の人、滅びの子(第二テサロニケ2:3)が現われるかということがカギになりますが、私たちは、救いの希望の中に慎み深くして(第一テサロニケ5:8)いましょう。
 ②「ヨナのしるし」…ここでイエス様は、ご自分の十字架と復活のことを「ヨナのしるし」と言っています。聖書の中心はイエス・キリストであり、イエス様の十字架の救いこそが最も大事です。私たちも、この中心からずれないように、イエス様の十字架以外に誇るものがない(ガラテヤ6:14)ようにしましょう。
 ③パリサイ人サドカイ人たちのパン種…ここでパン種というのは彼らの教えのことです。彼らの教えは、結局、人を滅びに向かわせ、救いもないし、いのちもありません。私たちは、みことばと祈りに励みつつ、イエス様とともにいのちに溢れながら、主の栄光のわざを体験させていただきましょう。

2013.4.14礼拝メッセージ要旨(マタイ15:29~39)

●4月14日の礼拝メッセージ要旨(マタイ15:29~39)
 イエス様がデカポリス地方のガリラヤ湖東岸に来られたときの記事から三つのポイントをあげて学びましょう。
 ①イスラエルの神を崇めた…天地を創造した唯一で真の神は、創世記12:3でアブラハムを通して地上のすべての民族は祝福されると言われました。イエス様は、アブラハムの子孫としてこの世に来られ、異邦人であるデカポリス地方の人々の病や患いをいやされました。そこで、アブラハムの子孫であるイスラエル、その、彼らが信じる神が崇められました。私たちの信仰生活においても、その栄光の所在がはっきりしているということが大事です。私たちの言動を通してイエス様の御名が崇められる、キリストの香りが放たれる者でありたいです。
 ②必要を満たす神…ここでは4000人を満腹させ、14章では5000人を満腹させて、それぞれ適度にパンが余りました。当教会は大震災で一時的に物が無くなりましたが、今、こうして必要があふれるばかり与えられています。今お借りしているものとは別に、想定外でグランドピアノも与えられるようです。ピリピ4:19の約束通り、イエス様はご自身の栄光の富をもって私たちの必要を満たしてくださいます。
 ③信仰における学習…5000人のパンの奇跡を見たばかりの弟子たちでしたが、4000人の人たちを前にして、「どこからパンを手に入れましょうか?」と言っています。旧約時代の出エジプト後のイスラエル人は紅海を渡るという大きな奇跡を見ながらも、何度もモーセにつぶやき、不信仰でした。それは他人事ではなく、現実の中で私たちも、信仰が試されますが、キーポイントは主を信頼することです(詩篇115:11)。祈り、信頼して、主を待ち望みましょう。

2013.4.7礼拝メッセージ要旨(マタイ15:21~28)

イエス様がツロとシドンに行かれたとき、そこで出会ったカナン人の女性との問答から、三つのポイントをあげて学びましょう。
①神のご計画…ツロとシドンというのは、現在のレバノンに位置する地中海沿岸の地で、当時ユダヤ人にとっては異境の地です。イエス様はなぜそこに行かれたのでしょう。神の御子イエス様がご自分の気ままな思いで、そこに行かれるということはないでしょう。そこに、神を切に求める一人の女性がいるということを知っておられたのでしょう。私たちは、日常の生活の中で、深い神のご計画を最初から知ることはできませんが、後から、そのことに気付くことはあります。ですから、私たちは、いつも神のご計画の中で生かされているということを覚え、神のみこころを求めてまいりましょう。
②祈りと解決…イエス様に出会ったカナンの女性は、イエス様に問題を解決していただこうと叫び求めるのですが、イエス様はすぐに、それに応えようとはされません。私たちの信仰生活においても、すぐに祈りがきかれない場合が多々あります。ローマ5:3~4には「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を~」とあります。主は、私たちが砕かれた霊、砕かれた悔いた心(詩篇51:7)の持ち主となることを願っておられるのではないでしょうか。
③立派な信仰…その女性は、イエス様に「子犬」と言われて、「子犬でも食卓から落ちるパンくずをいただきます。」と諦めず、「あなたの信仰は立派です。」とイエス様に褒められます。もし、彼女の信仰が本物でなかったら、きっと、「もういいです。」と言って、怒って去って行ったことでしょう。苦難の中でも、なお主を見上げる。たとい、祈りがきかれなくても、ひたすら主を信頼し続ける信仰者でありたいものです。

4月3日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇118篇)

 最初に「イスラエルの家よ。アロンの家よ。主を恐れる者たちよ。」と、ありますが、この詩篇118篇では「主に感謝せよ。」とあり、詩篇115篇9~11にも同じように「イスラエルの家よ。アロンの家よ。主を恐れる者たちよ。」とあって、そこでは「主に信頼せよ。」となっています。「信頼」は、これから先に対して、「感謝」は結果に対してということでしょう。この詩篇の記者は、5~18節で、自分は苦しみに会ったけれども主を信頼することによって助けられたと告白しています。19~21節では、「義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。」と言っていますが、イエス様は永遠の天の御国への門、救いの門となってくださいました(ヨハネ10:9)。そして、22節の「家を建てる者たちが見捨てた石…」というみことばは、イエス様がエルサレム入城したマタイ21章42節に引用されています。つまり、当時、イエス様を、「見捨てた石」として十字架に引き渡したのは、神に対して熱心だとされていたユダヤ教の指導者たちでした。今日の私たちもそうですが、信仰歴と信仰の深さは必ずしも比例するということはありません。案外、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです(マタイ19:30)。この詩篇118篇の1節と最後の29節には「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と全く同じみことばです。主の恵みに対して、初めも終わりも、いつまでも感謝し続ける姿勢を忘れないようにしましょう。

2013.3.24礼拝メッセージ要旨(マタイ15:1~20)

 手を洗わないまま食事をするイエス様の弟子たちに対して、パリサイ人、律法学者たちは「先祖たちの言い伝えを犯している」と非難します。それに対してイエス様は、そう言う彼らこそ、聖書の教えを空文にしていると言われます。そして、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、これが人を汚します。」と言われます。実際的に、今日、私たちも手を洗わないで食事をすることがよくありますが、確かに手を洗わないまま食事することよりも、悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり、これらのほうが遥かに人を汚してしまいます。さて、ここから、ポイントを三つあげて学びましょう。

 ①父母を敬え…特にここでは、出エジプト21:17の「父母をののしる者は死刑に処せられる。」というみことばが引用されていますが、一見厳しすぎるようにも思えますが、子にとって父母とは天の神の似姿であり、目に見える父母を敬うことは、天の神を恐れることでもあり、その人の生涯が祝福される原点の教えでもあるのです。
 ②天の父がお植えになった木…少なくとも教会に集まっている私たちは、天の父がお植えになった木である可能性は大です。しかし、霊的、信仰的意味で、下に根を張り、芽を出し、成長し、やがて豊かな実を結ぶためには、その人がイエス様にしっかりと連なっていなければなりません。イザヤ60:21に「あなたの民は正しくなり~」とありますが、私たちは聖書のみことばをよく学び、よく蓄え、成長していくべきです。
 ③心から出るもの…人の内側から出てくる汚れを聖めるためには、天の神様ご自身が定められた方法以外にはありません。ヘブル9:22には「血を注ぎだすことがなければ罪の赦しはないのです。」とあるように、罪の無い神のみ子イエス様が十字架上で流してくださった御血によって赦されるのです。私たちがすべきことは、自分が罪人であることを認めてイエス様を仰ぎ見続けることです。

2013.3.17礼拝メッセージ要旨(マタイ14:22~36)   

三つポイントをあげて学びましょう。
①祈るために…五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人を満腹させるという奇跡を行なわれたイエス様に、人々の視線が注がれない筈がありません。ヨハネ6:15によりますと、このとき人々はイエス様を自分たちの王様にしようとしたのです。もちろん、イエス様こそ王の王、主の主ですが、まだ、その時ではありません。イエス様は、弟子たちを舟に乗りこませ、群集を解散させて、ひとり山に登って祈っておられました。夕方から午前3時と計算すると、かなり長時間父なる神との交わりをしておられました。先週の聖日にメッセージしてくださったM師は「祈りは教会の原動力であり、神に用いられる人は祈りの人である。イエス様ご自身もよく祈っておられた。」と話されました。私たちもイエス様を模範としてよく祈る者となりましょう。
②水の上を歩く…水の上を歩くとは何と非科学的な、と誰でも思うことでしょう。私たちが信じている神様は、この世界を創造され、自然の法則も定められました。しかし、時に、理性や法則を超えたことをされる超自然の神様でもあります。教会連合による3.11記念集会で、「頑張ろう日本ではなく、考えよう日本ではないか」ということを聞きました。頑張って元通りになればそれでよいというものではなく、今まで何が間違っていたのか考える機会とすることが大事です。人の手による偶像の神々ではなく、水の上をも歩くことができる本当の神に立ち返るべきです。
③信仰の薄い人…ペテロは、湖上に現われたイエス様を見て、最初は驚いたのですが、すぐに今度は、自分も湖上を歩いてみたいとイエス様に願い出ました。しかし、風で沈みかけると悲鳴を上げて、イエス様から「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。ペテロのみならず、どんな信仰者も様々な局面の中で試されるときがありますが、イエス様を信じ、信頼して、祈りつつ従ってまいりましょう。