6月9日の礼拝メッセージ要旨(マタイ18:15~35)

   「罪と赦し」という題で、三つポイントをあげて学びましょう。
   ①罪を犯している兄弟に対する対処…その人を罪の中から連れ戻すために二人だけのところで責め、もし、聞き入れるならばそれに越したことはありません。しかし、聞き入れない場合は、二、三人で行き、それでもダメなら教会に告げよ、と教えています。これは基本的なイエス様の教えですが、実際的には、様々な状況、背景が折り重なり合うのですから、ケースバイケースの対応となります。いずれにしても、主のみこころは、その人が悔い改めて再び神の子とされることです。
   ②教会とは…17節で「教会」ということばが使われていて、18~20節で、その教会とは何かの説明がされているとも言えそうです。イエス様はマタイ21:13節で、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」と言っておられます。イエス様の名によって二人でも三人でも集まって祈る、それが教会の原点です。エペソ1:23節には、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。教会は建物ではなく、キリストのいのちであり、キリストご自身(聖霊)が満ちておられるところです。
   ③罪を赦す…一万タラント(およそ六千億円)の借金を免除してもらった人が、百デナリ(およそ百万円)貸している人を赦すことができなかったというたとえ話をイエス様はされました。これは、イエス様によって罪を赦されたにもかかわらず、他の人の罪を赦せない人の姿を現しています。日常生活の中で、赦すということの難しさを覚えるという弱さを持つのが生身の肉体を持つ私たちではないでしょうか。でも、そんなときこそ、十字架のイエス様を見上げ、イエス様の助けをいただきましょう。また、赦すことは祝福の源でもあります。

6月2日の礼拝メッセージ要旨(マタイ18:1~14)

 弟子たちが、イエスさまに「天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか。」と聞きます。それに対してのイエス様の答えなどからポイントを三つあげて学びましょう。
 ①一番偉い人…天の御国で誰が一番偉いか、という質問に対して、イエス様は、小さいこどもを真ん中に立たせて、「こどもたちのようにならない限り決して天の御国に入れません。このこどものように、自分を低くする者が天の御国で一番偉い人です。」と答えます。現在の日本の家庭では、子供中心のような傾向があります。この当時のユダヤ社会では、子供は数にも入れられない存在として見られていたようです。ですから、その子ども自身も自分を低くしていたのでしょう。自分を低くして、人々に仕える者が天において高くされるのです。
 ②つまずきを与えない。…「つまずき」と言う場合、自分が誰かにつまずく場合と、自分が誰かをつまずかせる場合とがあります。みことばは、足のともしび、道の光です(詩篇119:105)。聖書のみことばに従っていれば自分が何かにつまずくことはありません。また、自分が誰かをつまずかせないように、霊的、信仰的に毒となるものを自分の回りから取り除かなければなりません。
 ③迷い出た一匹の羊を探す主…ルカ19章では、イエス様は取税人のザーカイのところに来られました。彼は、悔い改め、自分の財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取ったものは四倍にして返すと告白しました。教会の使命は、失われている魂をイエス様のところに導くことです。但し、バランス感覚も必要です。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容であり(第一テサロニケ5:14)ながら、主に仕えてまいりましょう。 

●5月26日の礼拝メッセージ要旨(マタイ17:14~27)

 高い山から降りて来られたあと、また、その後、カペナウムでの宮の納入金に関しての記事などから、ポイントを三つあげて学びましょう。
  ①悪霊からの解放、病のいやし…てんかんで苦しむ息子が、他の弟子たちでは直らなかったと聞いたイエス様は、「不信仰な、曲がった今の世だ」と言われ、その子を連れて来るようにと言ってから、その子を直してあげます。マタイ10:1を見ますと、この時点で、弟子たちには悪霊を追い出し、病をいやす権威が与えられていたのでした。ルカ10:17では、70人が喜んで帰ってきて「主よ。あなた(イエス様)の御名を使うと悪霊どもでさえ服従します。」とあり、今日、イエス様を信じる私たちにも同じようにそういった権威が与えられています。もちろん、適切な状況判断のもとに、与えられた権威を健全に用いるということが前提になります。
  ②からし種ほどの信仰…弟子たちは、なぜ、自分たちには悪霊を追い出すことができなかったかと、イエス様に問います。するとイエス様は、からし種ほどの信仰があればどんなことでもできると言われます。最近、冒険家の三浦雄一郎さんが最高齢でエベレスト登頂に成功しました。三浦さんは、普段から「できない理由を考えるのではなく、出来る理由を考える」とのことです。主は、私たちが、神のみこころを積極的に行なって神の栄光を現わすことを望んでおられるのではないでしょうか。但し、マタイ17:21には「祈りと断食」ということが記されています。行動する前に祈り深く備えることも必要です。
  ③宮の納入金…霊的なことばかりに関わっておられるイエス様が、宮の納入金のことで、問答されるということは、私たちにとっては慰めです。この世に暮らしている限り、私たちには、そういった税金、健康のことや諸問題で、色々と悩まないで済むということはありません。でも、ここで、イエス様も、宮の納入金のことで、弟子と一緒に解決の道を探ったように、今日、私たちの悩みを一緒に心配してくださるのです。第一ペテロ5:7にあるように、私たちは思い煩いを主に委ねましょう。

●5月19日の礼拝メッセージ要旨(マタイ17:1~13)

 イエス様がペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に上られ、そこでお姿を変えられたという聖書の箇所からポイントを三つあげて学びましょう。
   ①本来のお姿…自分が高い地位にあるのに、それを隠して一般民衆の中に紛れ込む、そんな映画もありました。また、その逆で、何の力もないのに周囲に祭り上げられて、偶像化しているというケースもあります。日本には八百万(やおよろず)の神々がいると言われています。それらは正に偶像であり、口や耳がかたどってあっても語ることも聞くことさえもできません。イエス様は人の姿となって、この地上を歩まれましが、本来のお姿は、このマタイ17:2や黙示録1:13~15で表現されているものです。その力強い方が、低くなられて十字架まで従われた(ピリピ2:6~8)のです。 
 ②彼の言うことを聞きなさい…お姿が変わったイエス様の前にモーセとエリヤが現われたので、ペテロは三人のために三つの幕屋を作ると言ったのですが、天から「彼の言うことを聞きなさい。」という厳かな声を聞きます。今日、私たちも、イエス様のみことば、聖書のみことばをよく読み、聞き従う者となりましょう。
 ③エリヤはすでに来た…目の前にエリヤを見たペテロらは、エリヤが来る(マラキ4:5~6)と言われていることと重ね合わせて、戸惑いを感じました。しかし、イエス様は、来るべきエリヤとはバプテスマのヨハネだと言われます。最後の大いなる神の審判の前に、バプテスマのヨハネが道備えしたイエス様の十字架の救いの道が開かれました。この時点で、ペテロたちは、そのことを理解できませんでしたが、今日、私たちは、イエス様の救いを受け、イエス様とともに勝利の道を進みましょう。

●5月15日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇119:121~176)

 詩篇119篇は聖書の中で最も長い巻です。また、ヘブライ22文字による、言わばイロハ歌でもあります。8節つずつ、22文字分ですから、合計176節まであります。これまで40節づつ3回、120節まで学び、この日最後の4回目は121~176節までの56節から学びます。
  まず、121~128節の部分では、記者は、金よりも純金よりも主の仰せ(みことば)を愛し、偽りの道を憎みます、と言っています。
129~136節では、みことばが光のように差し込んで悟りを与え、自分がどんな罪にも支配されないようにと言っています。
 137~144節では、あなたのさとし(みことば)はなんと正しく真実でしょう。また、それはよく練られていると言っています。
 145~152節では、祈りのことが記されています。記者は、夜明け前に起きて叫び求め、みことばを待ち望むと言っています。
 153~160節では、「私を生かしてください」と三回も繰り返しています。みことばにより神のご計画に従っていくとき、その人は神に用いられる器として最高に生かされるでしょう。
 161~168節では、記者は試練の中でもみことばをみつけて喜ぶと言っています。
 最後の169~176節では、みことばの約束通りに悟りが与えられて賛美する者とならせてくださいと言っています。
 以上、119篇は、イロハ歌で、特に定まったテーマというものは無いようですが、全体を振り返りますと、「みことばに従って生きることの幸い」ということが繰り返されていて、やはり、みことばと祈り、ディボーションの実践がその人を生かすカギということでしょう。

●5月5日の礼拝メッセージ要旨(マタイ16:21~28)

 ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白した、そのあとで、イエス様は、ご自分が十字架で死なれ復活するということを語られます。その箇所から三つのポイントで学びましょう。
   ①神のことを思う…ペテロは、イエス様が殺されるということを聞いて、イエス様を諌め、「そんなことが起こるはずがない。」と強く否定します。しかし、イエス様は「下がれサタン~あなたは神のことを思わず人のことを思っている」とペテロに言います。今日、私たちも日常生活の中で、人がどう思うかということばかりに関心を向けて、神のことを無視してしまうようなことがあるかもしれません。この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころは何かをいつも求める者となりましょう。
   ②自分の十字架を負う…インドの高名なキリスト者サンダー・シングは、ヒマラヤの凍てつく雪道で倒れていた人を助けようと、肩に背負ったところ、互いの体温と神の愛の力によって、助けたはずの自分自身が助かったと言っています。私たちも小さなことでも、自分に与えられた使命に忠実に生きるとき、そこに神の栄光が現われるでしょう。
   ③たとい全世界を得ても…申命記8:17には「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。」とあります。どんなに莫大な富を所有していても、それは一時的なことであり、その富が魂を救うということは決してありません。罪の赦し、魂の救いのために、神のひとり子イエス・キリストが十字架により、聖なる尊い血を流されて、永遠の救いの道を開かれました。イエス様によって永遠のいのちを得、この救いを証ししましょう。

4月28日の礼拝メッセージ要旨(マタイ16:13~20)

 ピリポ、カイザリヤ地方というと、ガリラヤ湖の北端から北へ約50㎞ほどの所で、そこでの出来事です。ペテロがイエス様に対し、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と信仰告白した有名な箇所から三つのポイントで学びましょう。
 ①「あなたはキリストです。」…イエス様は弟子たちに、「人々は人の子を誰だ言っていますか。」と聞かれ、続いて弟子たちにも「あなたがたは何と呼ぶか。」と言われました。当時、多くの人々はイエス様のことを預言者の一人だと言っていました。しかし、ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです。」と言いました。「預言者の一人」と言うことと「神の御子キリスト」と言うことでは大きな違いがあります。ペテロがそのように告白できたのは、単なることではなく、実に天の父によるのです。今日、私たちがイエス様を主と告白できるとすれば、それは天の父と一体である聖霊の働きに(第一コリント12:3)よります。
 ②岩の上にわたしの教会を建てる…イエス様はペテロに「あなたはペトロス(石)です。」と言われ、そのあと「わたしはこのペトラ(岩)の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。こののちペテロはイエス様が捕えられたときイエス様を三度も「知らない」と言います。このときのペテロの信仰告白は石ころのような頼りないものだったということでしょう。しかし、教会は揺るぎない信仰の上にイエス様ご自身が建てられるのです。
 ③天の御国のカギ…19節でイエス様は、ペテロに天の御国のカギをあげると言われていますが、マタイ18:18では弟子たちに対し「あなたがたに」と同じ内容のことを言っています。つまり、今日、誰にとってもイエス・キリストが天の門であり、天の御国のカギであるのです。この聖なるカギによって、心を一つにして祈るならば、天の父はそれをかなえてくださるのです。

2013.4.21礼拝メッセージ要旨(マタイ16:1~12)

 パリサイ人やサドカイ人たちが、イエス様をためそうとして近づいてきて、「天からのしるしを見せてください。」と言い、それに対するイエス様のことばなどから、3つのポイントをあげて学びましょう。
 ①時のしるし…パリサイ人、サドカイ人たちはユダヤ教の一派であり、宗教的には専門家であり指導者でもありましたが、彼らは霊的には無知でした。今日、私たちも、今がどのような時なのかということを見分ける目をもっていなければなりません。最近起こったボストンマラソンでのテロ事件、中国四川省での大地震などは「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。(マタイ24:7)」というみことばと無関係ではありません。主の再臨の前に、いつ不法の人、滅びの子(第二テサロニケ2:3)が現われるかということがカギになりますが、私たちは、救いの希望の中に慎み深くして(第一テサロニケ5:8)いましょう。
 ②「ヨナのしるし」…ここでイエス様は、ご自分の十字架と復活のことを「ヨナのしるし」と言っています。聖書の中心はイエス・キリストであり、イエス様の十字架の救いこそが最も大事です。私たちも、この中心からずれないように、イエス様の十字架以外に誇るものがない(ガラテヤ6:14)ようにしましょう。
 ③パリサイ人サドカイ人たちのパン種…ここでパン種というのは彼らの教えのことです。彼らの教えは、結局、人を滅びに向かわせ、救いもないし、いのちもありません。私たちは、みことばと祈りに励みつつ、イエス様とともにいのちに溢れながら、主の栄光のわざを体験させていただきましょう。

2013.4.14礼拝メッセージ要旨(マタイ15:29~39)

●4月14日の礼拝メッセージ要旨(マタイ15:29~39)
 イエス様がデカポリス地方のガリラヤ湖東岸に来られたときの記事から三つのポイントをあげて学びましょう。
 ①イスラエルの神を崇めた…天地を創造した唯一で真の神は、創世記12:3でアブラハムを通して地上のすべての民族は祝福されると言われました。イエス様は、アブラハムの子孫としてこの世に来られ、異邦人であるデカポリス地方の人々の病や患いをいやされました。そこで、アブラハムの子孫であるイスラエル、その、彼らが信じる神が崇められました。私たちの信仰生活においても、その栄光の所在がはっきりしているということが大事です。私たちの言動を通してイエス様の御名が崇められる、キリストの香りが放たれる者でありたいです。
 ②必要を満たす神…ここでは4000人を満腹させ、14章では5000人を満腹させて、それぞれ適度にパンが余りました。当教会は大震災で一時的に物が無くなりましたが、今、こうして必要があふれるばかり与えられています。今お借りしているものとは別に、想定外でグランドピアノも与えられるようです。ピリピ4:19の約束通り、イエス様はご自身の栄光の富をもって私たちの必要を満たしてくださいます。
 ③信仰における学習…5000人のパンの奇跡を見たばかりの弟子たちでしたが、4000人の人たちを前にして、「どこからパンを手に入れましょうか?」と言っています。旧約時代の出エジプト後のイスラエル人は紅海を渡るという大きな奇跡を見ながらも、何度もモーセにつぶやき、不信仰でした。それは他人事ではなく、現実の中で私たちも、信仰が試されますが、キーポイントは主を信頼することです(詩篇115:11)。祈り、信頼して、主を待ち望みましょう。

2013.4.7礼拝メッセージ要旨(マタイ15:21~28)

イエス様がツロとシドンに行かれたとき、そこで出会ったカナン人の女性との問答から、三つのポイントをあげて学びましょう。
①神のご計画…ツロとシドンというのは、現在のレバノンに位置する地中海沿岸の地で、当時ユダヤ人にとっては異境の地です。イエス様はなぜそこに行かれたのでしょう。神の御子イエス様がご自分の気ままな思いで、そこに行かれるということはないでしょう。そこに、神を切に求める一人の女性がいるということを知っておられたのでしょう。私たちは、日常の生活の中で、深い神のご計画を最初から知ることはできませんが、後から、そのことに気付くことはあります。ですから、私たちは、いつも神のご計画の中で生かされているということを覚え、神のみこころを求めてまいりましょう。
②祈りと解決…イエス様に出会ったカナンの女性は、イエス様に問題を解決していただこうと叫び求めるのですが、イエス様はすぐに、それに応えようとはされません。私たちの信仰生活においても、すぐに祈りがきかれない場合が多々あります。ローマ5:3~4には「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を~」とあります。主は、私たちが砕かれた霊、砕かれた悔いた心(詩篇51:7)の持ち主となることを願っておられるのではないでしょうか。
③立派な信仰…その女性は、イエス様に「子犬」と言われて、「子犬でも食卓から落ちるパンくずをいただきます。」と諦めず、「あなたの信仰は立派です。」とイエス様に褒められます。もし、彼女の信仰が本物でなかったら、きっと、「もういいです。」と言って、怒って去って行ったことでしょう。苦難の中でも、なお主を見上げる。たとい、祈りがきかれなくても、ひたすら主を信頼し続ける信仰者でありたいものです。