4月3日の祈祷会メッセージ要旨(詩篇118篇)

 最初に「イスラエルの家よ。アロンの家よ。主を恐れる者たちよ。」と、ありますが、この詩篇118篇では「主に感謝せよ。」とあり、詩篇115篇9~11にも同じように「イスラエルの家よ。アロンの家よ。主を恐れる者たちよ。」とあって、そこでは「主に信頼せよ。」となっています。「信頼」は、これから先に対して、「感謝」は結果に対してということでしょう。この詩篇の記者は、5~18節で、自分は苦しみに会ったけれども主を信頼することによって助けられたと告白しています。19~21節では、「義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。」と言っていますが、イエス様は永遠の天の御国への門、救いの門となってくださいました(ヨハネ10:9)。そして、22節の「家を建てる者たちが見捨てた石…」というみことばは、イエス様がエルサレム入城したマタイ21章42節に引用されています。つまり、当時、イエス様を、「見捨てた石」として十字架に引き渡したのは、神に対して熱心だとされていたユダヤ教の指導者たちでした。今日の私たちもそうですが、信仰歴と信仰の深さは必ずしも比例するということはありません。案外、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです(マタイ19:30)。この詩篇118篇の1節と最後の29節には「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と全く同じみことばです。主の恵みに対して、初めも終わりも、いつまでも感謝し続ける姿勢を忘れないようにしましょう。

2013.3.24礼拝メッセージ要旨(マタイ15:1~20)

 手を洗わないまま食事をするイエス様の弟子たちに対して、パリサイ人、律法学者たちは「先祖たちの言い伝えを犯している」と非難します。それに対してイエス様は、そう言う彼らこそ、聖書の教えを空文にしていると言われます。そして、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、これが人を汚します。」と言われます。実際的に、今日、私たちも手を洗わないで食事をすることがよくありますが、確かに手を洗わないまま食事することよりも、悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり、これらのほうが遥かに人を汚してしまいます。さて、ここから、ポイントを三つあげて学びましょう。

 ①父母を敬え…特にここでは、出エジプト21:17の「父母をののしる者は死刑に処せられる。」というみことばが引用されていますが、一見厳しすぎるようにも思えますが、子にとって父母とは天の神の似姿であり、目に見える父母を敬うことは、天の神を恐れることでもあり、その人の生涯が祝福される原点の教えでもあるのです。
 ②天の父がお植えになった木…少なくとも教会に集まっている私たちは、天の父がお植えになった木である可能性は大です。しかし、霊的、信仰的意味で、下に根を張り、芽を出し、成長し、やがて豊かな実を結ぶためには、その人がイエス様にしっかりと連なっていなければなりません。イザヤ60:21に「あなたの民は正しくなり~」とありますが、私たちは聖書のみことばをよく学び、よく蓄え、成長していくべきです。
 ③心から出るもの…人の内側から出てくる汚れを聖めるためには、天の神様ご自身が定められた方法以外にはありません。ヘブル9:22には「血を注ぎだすことがなければ罪の赦しはないのです。」とあるように、罪の無い神のみ子イエス様が十字架上で流してくださった御血によって赦されるのです。私たちがすべきことは、自分が罪人であることを認めてイエス様を仰ぎ見続けることです。

2013.3.17礼拝メッセージ要旨(マタイ14:22~36)   

三つポイントをあげて学びましょう。
①祈るために…五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人を満腹させるという奇跡を行なわれたイエス様に、人々の視線が注がれない筈がありません。ヨハネ6:15によりますと、このとき人々はイエス様を自分たちの王様にしようとしたのです。もちろん、イエス様こそ王の王、主の主ですが、まだ、その時ではありません。イエス様は、弟子たちを舟に乗りこませ、群集を解散させて、ひとり山に登って祈っておられました。夕方から午前3時と計算すると、かなり長時間父なる神との交わりをしておられました。先週の聖日にメッセージしてくださったM師は「祈りは教会の原動力であり、神に用いられる人は祈りの人である。イエス様ご自身もよく祈っておられた。」と話されました。私たちもイエス様を模範としてよく祈る者となりましょう。
②水の上を歩く…水の上を歩くとは何と非科学的な、と誰でも思うことでしょう。私たちが信じている神様は、この世界を創造され、自然の法則も定められました。しかし、時に、理性や法則を超えたことをされる超自然の神様でもあります。教会連合による3.11記念集会で、「頑張ろう日本ではなく、考えよう日本ではないか」ということを聞きました。頑張って元通りになればそれでよいというものではなく、今まで何が間違っていたのか考える機会とすることが大事です。人の手による偶像の神々ではなく、水の上をも歩くことができる本当の神に立ち返るべきです。
③信仰の薄い人…ペテロは、湖上に現われたイエス様を見て、最初は驚いたのですが、すぐに今度は、自分も湖上を歩いてみたいとイエス様に願い出ました。しかし、風で沈みかけると悲鳴を上げて、イエス様から「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。ペテロのみならず、どんな信仰者も様々な局面の中で試されるときがありますが、イエス様を信じ、信頼して、祈りつつ従ってまいりましょう。

2013.3.3礼拝メッセージ要旨(マタイ14:13~21)   

五つのパンと二匹の魚を五千人に配ると皆が満腹して、なお12のかごにパンが余ったという有名な記事から三つポイントをあげて学びましょう。
①いのちのパン…イエス様はなぜこんな奇跡を起こされたのでしょう。昔、イスラエル人が出エジプトして荒野を進んでいたとき、天からマナが降ってきました。イエス様は、そのマナを降らせた天の神様のひとり子として、この地上を歩まれました。イエス様は「わたしがいのちのパンです。(ヨハネ6:35)」と言われました。私たちのいのちの源であるイエス様を信じて従うならば飢えることはありません。
②パンが無くても…私たちの人生は山あり谷あり、良いときも良くないときもあるものです。使徒パウロは、「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。~あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)」と言っています。どんな境遇の中にあっても、それでも全能の神の最善を信じる、それこそ本当の信仰です。
③わずかなパンでも…五つのパンと二匹の魚、そのわずかなものがイエス様の御手に委ねられると5000人を満腹させました。小さなことでも、神の栄光を現わしていくことなら喜んで神に仕えてまいりましょう。特に、私たちが接する全ての人に対して神の愛と真心を持って仕えていきましょう。そういった小さなこと一つ一つが積み重なってやがて大きな実を結び、少年が差し出した五つのパンと二匹の魚の奇跡以上の神の栄光が現われることでしょう。

2013.2.24礼拝メッセージ要旨(マタイ13:44~58)   

ヘロデがバプテスマのヨハネを殺害したという暗い記事ではありますが、こういう記事からも学び取っていきましょう。ヨハネが牢獄に入れられたのは、ヘロデの異母兄弟の妻ヘロデヤを奪ったヘロデを非難したからです。ヘロデの誕生祝いの席で、ヘロデヤの娘サロメが踊りを踊り、ヘロデがサロメに「欲しい物は何でも願え。」と誓ったとき、ヘロデヤが娘をそそのかしてヨハネの首を求めさせたので、ヨハネは殺されることになりました。その後、ヘロデの心には常に恐れがあったのでしょう。イエス様のうわさを聞いて、ヨハネがよみがえったと思ったのです。ヨハネとしては、そういった権力者たちの戯れごとで命を奪われてしまったのですが、しかし、よく考えてみますと、命を弄(もてあそ)んで奪う側にいたヘロデ、ヘロデヤ、サロメ、彼らは霊的には正に地獄のなかにいるのではないでしょうか。一見、弱かったり、少数派であったとしても、その人が天の真の神の側にいるかどうかということが問われます。使徒27章でパウロは、囚われの身でありながら、同じ船に乗っていた二百七十数名の人々を神のことばをもって励ましました。エリヤはたった一人で偶像神バアルに仕える450人に勝利(第一列王記18章)しました。今日、イエス様を信じる私たちには、助け主なる聖霊様が共におられます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、義の右の手であなたを守る。(イザヤ41:10)」

2013.2.17礼拝メッセージ要旨(マタイ13:44~58)   

四つのポイントです。
①畑に隠された宝と良い真珠…天の御国、永遠のいのちというのは、自分の持っている全財産と引き換えにしても、惜しくないほどに価値あるものです。コロサイ2:3には「このキリストに知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」とあるように、イエス様を信じて従うことは、どんな大きな宝や真珠よりもはるかに優る永遠の富と宝を得ることになります。
②地引網とこの世の終わり…聖書を調べると、この世は良い方向に向かっているのではなく、滅びに向かっていることを示しています。しかし、ただ滅びて終わるのではなく、イエス様が支配される新しい天と地が用意されています。昔、ノアが箱舟を建造して、それに乗って救われたように、イエス様を信じて従いましょう。
③天の御国の弟子となった学者…ここまでイエス様はたとえを用いてお話しされ、弟子たちに「分かりましたか。」と尋ねると、彼らは「はい。」と答えました。私たちも聖書をよく読み、みことばを心に蓄え、いつでもそこから引き出せる聖書の学者となりましょう。
④信仰と奇跡…ガリラヤ湖畔南西あたりから約30キロほど離れたナザレに行かれたイエス様は、会堂で教え始められました。イエス様の知恵と力に驚いた人々は、やがて、口々に「あれは大工の息子、母はマリヤ…」などと言い始めて不信仰になり、イエス様は、そこでは多くの奇跡を行なうことはしませんでした。せっかくイエス様が奇跡を行なおうとしているのに、不信仰で止めてしまったら損をします。いつでもイエス様を信じて期待してまいりましょう。

2013.2.10礼拝メッセージ要旨(マタイ13:24~43)   

二つのテーマで学びましょう。
①良い種と毒麦…天の神様は、この地上に良い種であるみことばを蒔かれました。しかし、一方で、悪魔が毒麦である悪い種をこの世界にまき散らしました。実際に、テロや極悪犯罪のニュースが世界中で起こっています。そういった総合的な視点による見方と、もう一つ、教会内部に蒔かれた毒麦というとらえ方もあります。折角、救いに与っても悪魔の毒牙によって、再び悪魔の支配下に陥る可能性も否定できません。最近、スポーツの現場での体罰問題などがニュースで聞かれます。様々な状況下で一概に論評できませんが、基本的には、どこかで、人を人とも思わなくなってしまったことが原因となったと思います。互いに相手を大切に思い、尊敬し合う。聖書から教えられているはずの私たちも、そういった本来あるべき姿を見失うことがないよう注意しなければなりません。
②からし種とパン種…からし種は本当に小さな種ですが生長すると空の鳥が巣を作るほどに大きくなります。神の民も同じで、一見、弱く小さな群れのようですが、その影響力は決して小さくありません。むしろ、人の役に立ち、人々に永遠の救いをもたらす福音を携えています。パン種もパンを大きくふくらませます。イエス様を信じる神の民は、家庭、学校、職場、社会に大きな影響力を持っているということを覚えましょう。

2013.2.3礼拝メッセージ要旨(マタイ13:1~23)   

 イエス様は多くのことをたとえでお話しされましたが、それは悟る人がさらに悟り、悟らない人には悟らせないためであると、そういう意味のことを言われました。きょうは、四つの種のたとえから、ポイントを四つあげて学びましょう。
 ①道ばたに落ちた種…このたとえでは、みことばを聞いても悟らない人のことを言ってますが、その前に、「信仰は聞くことから始まる(ローマ10:17)」とありますから、まず大事なことは、私たちがみことばを聞く環境に自分を置くということです。
 ②岩地に落ちた種…このたとえは、困難や迫害に対してすぐにつまずいてしまう人のことを言っています。丈夫な植物の根が深くしっかり地中に生やしているように、私たちも信仰の根を下に張り、上に実を結び(イザヤ37:31)ましょう。
 ③いばらの中に落ちた種…この世の心遣いと富の惑わしに注意しましょう。ある程度の健全な趣味などは却って益になるものですが、この世のどんな莫大な財産であっても、やがてキリストとともに相続する天の富に比べたら無に等しいと言わざるを得ません。
 ④良い地に落ちた種…アブラハムの息子であり、ヤコブの父であるイサクは、ある年に種を蒔くと百倍の収穫を見ました(創世記26:12)。イサクの生涯を見るとき、彼は従順で、争いを好まず、欲張ることはせず、その分、主が彼を祝福してくださったのです。主は生きておられます。みことばを聞いて悟る者となりましょう。

 2013.1.27礼拝メッセージ要旨(マタイ12:38~50)   

 ①ヨナのしるし…イエス様に「先生。しるしを見せてください。」という者がいました。イエス様は「ヨナのしるしのほかにしるしは与えられません。」と言われ、その願いを拒まれました。公生涯を始められるとき、イエス様は悪魔の試みを受けられました。そのとき、悪魔が「石をパンに変えなさい。」と言うと、イエス様はそれを拒まれたことを思い出します。結局、しるしや奇跡をゲーム感覚で求める人は、しるしや奇跡を見ても、決して主を崇めようとはしないでしょう。ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いました。それはイエス様の十字架を暗示しています。その後、ヨナはニネベに行って説教すると、ニネベの人々は悔い改めました。また、シェバの女王はソロモンの知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たのです。主は、今日も、神のことばを慕い求め、神のことばに反応し、自分を変え、キリストに似た者になる人を求めておられます。
 ②汚れた霊…聖書は悪魔の存在を明記し、人間にとって最も厄介な存在であることを示しています。私たちは、その悪魔、悪霊の存在を常に意識し、その悪い影響を受けないために、イエス様の御名によって聖霊に満たされることを求めることが肝要です。
 ③わたし(イエス様)の母、兄弟、…母マリヤを特別視し、イエス様と同等に扱うことは明らかに間違いです。確かにマリヤは特別に選ばれた素晴らしい女性ですが、神の器として用いられたに過ぎません。血筋とか家柄とかというよりも、その人が神のみこころを行なうかどうかが大事なのです。

 2013.1.20礼拝メッセージ要旨(マタイ12:15~37)   

①「公義を勝利に導くまでは」…当時イエス様は、ついてきた人々の病をみな癒してあげました。今日の教会にも二千年前と同じイエス様が聖霊によって働いておられますから、同じことが起こってもおかしくありません。しかし、よく考えてみますと、私たちは、何より、イエス様によってまことのいのちが与えられ、平安と真の希望が与えられ、大方、健康にも恵まれています。確かに、主はご自分の聖徒を特別に扱ってくださる(詩篇4:3)のです。くすぶる燈心のように、弱い葦のような私たちですが、天に凱旋するその時までイエス様がしっかり守っていてくださいます。
②イエス様と共に集める…当時パリサイ人たちはイエス様の言動に対してことごとく揚げ足取りをしました。今日、教会はキリストのからだであり、そのかしらはイエス様で、イエス様のいのちに満ちた有機的共同体でもあります。イエス様は、信じる私たちに力を帯びさせて(イザヤ45:5)、キリストのからだなる教会を建て上げるために召されています。ですから、イエス様とともに集めましょう。
③あなたのことばによる…イエス・キリストを信じる信仰の告白によって永遠のいのちを得ることができますし、拒むならば、得ることはできません。ですから、私たちの語ることばは非常に重い結果が伴ってくるのです。自分自身も生かされ、周りの人々も生かされ、また日本のリバイバルにつながるような信仰のことばを語りましょう。今後、私たちが祝福されるか否か、それは私たちの舌(語ることば)にかかっていると言っても過言ではありません。