●12月22日の礼拝メッセージ要旨(ルカ1:1~20)

 ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリヤは、当時のローマ皇帝アウグストの勅令によって、住民登録のためにユダヤのベツレヘムに行くことになります。身重のマリヤが、そんな長旅をしなければならないとは、なんということだったのでしょう。しかも、ベツレヘムに着いて、宿もなく、結局、家畜小屋で出産をすることになります。しかし、それは、遠い昔から、イエス様はベツレヘムで生まれなければならないという預言の成就でもありました。また、家畜小屋の飼葉おけで寝かされていることも、羊飼いたちのための印でもありました。私たちの人生においても、それぞれ様々な試練があるものです。しかし、神に愛され、神に選ばれた人々にとって、それは神の栄光が現れるときでもあります。
 ところで、イエス様は何のためにこの世に来てくださったのでしょう。それは救いのためです。何からの救いですか。罪と死と滅びからの救いのためです。先日、NHKテレビで、今年、日米通算4000本安打を達成したイチロー選手が取り上げられていました。イチロー選手は、4000本安打を達成した数日後の試合の終盤で、主力選手を休ませるために代打で登場するという屈辱を味わったということです。「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。(第一ペテロ1:24)」とありますが、野球選手も一時的に脚光を浴びていても、年齢を重ね、やがて現役を退いていかねばなりません。
 詩篇49:20には「人はその栄華の中にあっても悟りがなければ、滅び失せる獣に等しい。」とあります。仏教の開祖釈迦は、世にある死や苦しみを避けようとするから余計苦しむ。それを諦めることが悟りであると教えました。しかし、聖書が言っている悟りは諦めることではなく、真理を知ることです。真理を知るということについて、二つのポイントがあります。一つは、人間は罪人であるということ。もう一つは、イエス様が、その罪の身代わりに十字架で死んで復活し、救い主となってくださったということです。イエス様の御名を呼び求めるならば、救いを受け、永遠のいのちが与えられます。永遠のいのち、天国などと聞くと、なにか薄ぼんやりしたイメージを抱きがちですが、第一コリント13:12を見ますと、実は、今のこの世が薄ぼんやりしていて、むしろ、天国は顔と顔を合わせてはっきりと見える所であり、今、分からないことが明らかにされる所なのです。イエス様を信じ受け入れることにより、天国の前味を知り、永遠が始まっているのです。

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