いよいよ、イエス様が十字架にかけられる場面が出てくる章に入りました。1節から26節まで、ポイントを三つ上げて学びましょう。
①イスカリオテ・ユダの結末…ユダはなぜ自害までしたのでしょう。「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」とありますが、イエス様がまさか罪に定められることはないだろうと思っていたのでしょうか。彼は元々、イエス様の12弟子の一人として、大きな祝福の輪の中に入っていました。しかし、それが、最も対極にある勢力と手を結び、結局、祝福とは反対の道に向かって行きました。マタイ18:20には「ふたりでも三人でも、わたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのです。」とあります。今日、私たちはイエス様の近くに居続けるということが大事なことです。教会の礼拝、諸集会になるべく多く参席することが祝福のカギでもあります。
②バラバだ…ローマ総督ピラトは、イエス様に罪は無く、祭司長たちの妬みによって訴えられていることを分かっていました。また、彼の妻も悪い夢を見て、夫のピラトにイエス様に関わらないようにと進言しています。しかし、群衆の暴動を避けるために、ピラトの思惑を外れ、イエス様を十字架につけるように判決を下すことになりました。結果的には祭司長たちの願い通りになったのですが、全てのことの背後にある全知全能の主のご摂理の通りになっていったのです。日々の生活の中で、私たちは最善の努力はしなければなりません。しかし、その結果は神に委ねることです。
③責任…「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に対して、ピラトは手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。」と言いました。もし、ピラトが責任を免れようとするなら、暴動覚悟で、イエス様に無罪を宣告しなければなりません。実際、現在、世界中の教会の使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け~」と、唱えられ続けています。それはともかく、私たち個人個人においても、自分の魂に責任があり、さらに、私たちが関わる回りの人々の魂に対して責任がないとは言えません。心を尽くして主を愛し、隣人を自分自身のように愛することができますように。