エルサレムの宮で、イエス様は、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫なのに、どうしてダビデはキリストを主と呼んだのでしょう?と話されます。また、見えを飾る律法学者について、そして、人々が献金する様子を見ていたイエス様は、レプタ2枚を献金した貧しいやもめが誰よりも多く献金したと言われます。以上、三つの記事からそのまま三つのポイントで学びましょう。
①ダビデの子キリスト…この当時も、それから2000年も経過する今日も、「イエス・キリストは誰なのか」ということを探り求めることは全ての人にとって大きな課題であると言えるでしょう。ダビデは自分の身から出る子孫からメシヤが現われ、その人物に対して「私の主」と告白しています。当時、律法学者たちは、ダビデが「私の主」と告白している方を蔑(ないがし)ろにしていたのです。世には一神教と言われる諸宗教、またキリスト教系新興宗教などと言われる諸団体があります。それらが天地を創造した唯一の真実な神とつながっているのでしょうか?第一ヨハネ4:2~3を見ますと、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。すべての人は罪人であり、やがて神のさばきの前に立たなくてはなりません。それを免れる唯一の道がイエス様の十字架であり、ゆえに、イエス様を主と呼び、この方を主として生活することが求められ、逆に、そうでなければ必ず行き詰まることになるでしょう。
②見えを飾る人…当時、律法学者たちは、長い衣をまとったり、広場で挨拶されたり、宴会の上座が大好きで、見えを飾るために長い祈りをしていたようです。今日、私たちは、社会生活上、ある程度の体裁を整えることも必要ですが、その枠を超えて見えを飾る必要などありません。うわべではなく、心を見ておられる主の前にどうであるか(第一サムエル16:7)が問われます。
③レプタ銅貨二つ…皆が献金するのを見ておられたイエス様は、献金箱に大金を投げ入れた多くの金持ちたちよりもレプタ銅貨二枚を投げ入れた貧しいやもめが「どの人よりもたくさん投げ入れた」と言われました。主へのささげものは、心を見られる主に対して、心から喜んでささげる姿勢が大事です。私たちは、主イエス様にしっかりと結びつき、みずみずしく生い茂った木のように、多くの実を成らせようではありませんか。