●10月9日礼拝メッセージ要旨(ルカ18:1~17)  

 「夜昼神を呼び求める」という題で、ポイントを3つあげて学びましょう。
   ①夜昼神を呼び求める…ギリシャ語で「人間」のことをアンスロポスと言い、語源的に「顔を上に上げる」という意味があるようです。つまり、人間とは上を見上げて生きる、神に心を向けて生きる存在と言えるでしょう。また、神に心を向けるとは「祈り」のことでもあります。キリストは、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ということを教えられました。祈るときは、すぐに祈りがきかれなくても、あきらめないで祈り続けることが必要です。当教会の礼拝堂には立派な長椅子が設置してあります。当初、個人的に私は、積み重ねられるタイプのスタッキングチェアを希望していました。私以外の役員さんたちは、どうしても長椅子にしてほしいと切望していました。私としては、どちらかと言えばスタッキングチェアを希望して、長椅子でも良いと思っていました。「どうしても」×「どちらでも」とではどちらが勝ちますか?もちろん「どうしても」です。マタイ7:7~8には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」とあります。祈りは、あきらめることなく、最後の最後まで不信仰にならずに求め続けることです。
   ②自分を低くする者は高くされる…パリサイ人と取税人がそれぞれ祈っていました。パリサイ人は、自分の義を並べ立てた祈り、取税人は「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。どちらが義と認められたでしょう。パリサイ人ではなく、取税人です。ユダヤ教の教育を受け、パリサイ派に属していたパウロは、初代教会最初の殉教者ステパノが殺害されるとき、殺害者たちの着物の番をしていました。そののち、クリスチャンたちを捕えようとしてダマスコに行く途上でキリストに出会い、彼の人生は180度の転換をしました。福音の伝道者として大いに用いられたパウロですが、第一テモテ1:15で「私は罪人のかしらです。」と告白し、初心を忘れることなくどこまでも謙虚でした。自分を低くする者は高くされるのです。
   ③子どものように神の国を受け入れる…キリストにさわっていただこうとして子どもたちが連れて来られると、弟子たちがそれを見て叱りました。しかし、キリストは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」と言われました。ものの考え方は、しっかりと大人でなくてはなりませんが、聖書のみことばに対しては子どものように素直に受け入れる者でありたいです。

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