●10月23日礼拝メッセージ要旨(ルカ18:31)

 「何をしてほしいのか」という題で、ポイントを3つあげて学びましょう。
 ①エルサレムに向かって…キリストは何のためにこの世に人となって来られたでしょうか。十字架にかかるために来られました。そのことを確認するかのように、このルカの福音書では9:22でも、そして、別の福音書では、マタイ16:21、マルコ8:31で、ご自分が十字架にかけられ、三日目に復活することを語っています。十字架にかかるためにエルサレムに向かわれたキリストのように、私たちは、キリストを信じる信仰を明確にし、そして、キリストのしもべとしてふさわしく生き、また教会の一員として証しの生活をすることを目標としてまいりまよう。
 ②ダビデの子のイエス様…キリスト一行はガリラヤからヨルダン川沿いを南下して、エリコに近づいたのでしょう。そのとき、ある盲人が道ばたに座り、物乞いしていたのですが、キリストに連なる群集の騒ぎに「これはいったい何事ですか。」と尋ねると、誰かが「ナザレのイエスがお通りになるのだ。」と応えました。すると、その盲人は「ダビデの子のイエス様私をあわれんでください。」と大声で叫びます。「ナザレのイエス」と聞いて「ダビデの子のイエス様」と呼びました。ナタナエルは、ヨハネ1:46で「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と言っています。ナザレは現在、キリストの故郷として観光地になっていますが、当時は少々見下げられた地名だったのです。一方、「ダビデ」はイスラエルで最も尊敬されている王の名前です。第一歴代誌17:11~12には「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。」とあります。この盲人は、もしかしたら、会堂(シナゴグ)でその聖書の箇所を聞いていたのかもしれません。それで、彼は、ダビデの子として来られるメシヤこそ、イエス様であるという信仰に至ったのでしょう。それゆえ、42節で彼はキリストに「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。今日、私たちも、この盲人と同じように、イエス・キリストは、永遠の天の御国の王であり、唯一の救い主であるということを告白する者となりましょう。
 ③何をしてほしいのか…キリストの前に連れて来られた盲人は、キリストから「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると「主よ。目が見えるようになることです。」と明快に答えました。ヨハネ14:14には「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とあります。私たちも、お祈りするとき、イエス様の名によって、具体的に、そして大胆に求めましょう。もちろん、すべて祈りがきかれるわけではありませんから、みこころにかなう祈り(第一ヨハネ5:14)も必要です。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です