●1月14日礼拝メッセージ要旨(ヨハネ13:1~20)

   「互いに足を洗い合う」という題で、ポイントを三つあげてお話しします。
   ①わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない…そもそも、師が弟子の足を洗うなどということは、この世の常識ではありえません。ですから、ペテロが、師であるキリストが自分の足を洗おうとしたとき「決して私の足をお洗いにならないでください」と言うのも無理はありません。でも、誰でもラーメン屋さんに入ったらラーメンを注文するでしょう。もし、「決して私のラーメンを作らないでください。」などと言ったら、ラーメン屋の主人が「お客さん。あなたは私と関係ない。帰ってくれ。」と言うでしょう。ここでキリストが「わたしが洗わなければ、あなたとわたしとは何の関係もありません。」と言われたのは、この後、キリストが多くの人の罪を贖うために十字架で死なれることは、弟子の足を洗う事以上のことであり、その洗足を断ることは十字架の救いを拒否することになるからです。今日、私たちは、イエス・キリストの十字架の救いを拒むのではなく、素直に感謝して受け取る者となりましょう。
   ②互いに足を洗い合う…私たちが聖書を読むとき健全な正しい解釈をしないと間違って受けとめてしまうという危険もあります。聖書解釈学概論(バーナード・ラム著)という本もありますが、聖書を読むとき、聖書の書かれた時代や文化、習慣など総合的に判断した上で、その内容を理解すべきです。当時の履物、道路状況、また習慣として、建物に入るときは足を洗っていたのでしょう。今の時代に、教会に来られた人に、誰かが、聖書に書いてあることだから何でも実行するべきだとして、「さあ、靴と靴下を脱いでください。私があなたの足を洗いましょう。」と言って足を洗っても、却って有難迷惑となるでしょう。ですから、ここでキリストが「互いに足を洗い合いなさい。」と言われたことを今日の私たちに当てはめるならば、「互いにしもべとなって仕え合いなさい」ということでしょう。ヨハネ15:12に「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とあります。私たちかキリストのからだなる教会の一員として、それぞれの賜物を用い、愛をもって仕え合ってまいりましょう。
   ③それを行なうときに祝福される…17節の「それを行なう」の「それ」とは何を指しているのでしょう。16節には「しもべはその主人にまさらず」とあり、18節ではイスカリオテ・ユダがキリストに反逆したことが記されています。つまり、16~18節の三節を文脈で判断すると神の権威に従順に従うことによって祝福されるということでしょう。主人とそのしもべとの関係を考えてみましょう。しもべは主人に従順に従うことが求められます。イスカリオテ・ユダは神から遣わされたキリストを拒否し、自ら祝福を拒みました。20節には、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」とあります。キリストが遣わした者を受け入れる。またキリストご自身を受け入れるということが祝福の基です。

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