●2月25日礼拝メッセージ要旨(ヨハネ15:1~12)

   「まことのぶどうの木」という題でポイントを3つあげて学びましょう。

   ①まことのぶどうの木…ぶどうの産地なら別ですが、私たちの日常でぶどうの木を見かけることはないでしょう。しかし、当時のユダヤにおいては、ぶどうの木を頻繁に目にしていたかもしれません。ですから、聖書では、ぶどうの木がよく例えに用いられているのでしょう。エレミヤ2:21には「わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。」とあります。聖なる神の民イスラエルが霊的に堕落し、神の民とは言えなくなったのです。ここでキリストが「わたしはまことのぶどうの木です」と言われたのは、地上にある神の国のことであり、キリストのからだなる教会のことです。枝は、その教会に連なる当時の弟子たちであり、今日のクリスチャンです。また、父なる神は農夫で、実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はもっと多く実を結ぶために刈り込みをされます。キリストに連なるクリスチャンは、時に様々な試練があるものですが、それは、その人にとっては後に多くの実を結ぶための良い経験となるものです。神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)のです。
   ②キリストにとどまる…ぶどうの木とその枝は物理的に接続していますが、キリストをかしらとする教会に連なるクリスチャンは、実際には自由にあちらこちらに動けますから、キリストのまことのぶどうの木に枝として連なっているかどうかということは、教会の集会に参加しているかどうかということによって計られるとも言えます。今は昔と比べて、人を楽しませる娯楽が満ち溢れ、教会へ向かおうとする人々の足を遠ざけるという傾向にあります。しかし、そういったものは人の魂を満足させることは出来ません。ヘブル10:25には「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日(キリストの再臨)が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。
   ③何でもほしいものを求めなさい…私たちの日常生活においては、色々と願うものとか欲しいと思うものがあるものですが、祈れば何でも与えられるということはありません。やはり、神のみこころにかなう願いをする(第一ヨハネ5:14)という前提条件があるのでしょう。第一歴代誌4章に出てくるヤベツの名の意味は「悲しみ」です。ヤベツが生まれた時、彼の母親に何らかの悲劇があったのでしょう。そんなヤベツは、逆境に埋もれてしまうのではなく、神に祝福を祈り求め、その願いがきかれたのです。とにかく、私たちも何でも祈り求めましょう。みこころならきかれるし、そうでなくても、祈りの中で神のみこころを知ることができます。

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