ヨハネ18:12~27から「鶏が鳴いた」という題でポイントを3つあげて学びましょう。
①捕えられたキリスト…アンナスの前にキリストが捕えられ、連行されて来ました。アンナスが尋問すると、キリストは「わたしは会堂や宮で公然と話し、隠れて話したことはない。何を話したかは、その話を聞いた人々に尋ねなさい。」と答えられると、そばに立っていた役人が平手でキリストを打ちました。それに対してキリストは、「もし、わたしの言ったことが悪いのなら悪い証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜわたしを打つのか」と言われました。第一ペテロ2:22~23には「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」とあります。キリストは、相手の誤りはきちんと指摘しつつも、それ以上のこと、ののしったり、おどしたりするということはしませんでした。このキリストの姿は、私たちの模範です。
②もう一人の弟子…キリストが捕えられたとき、ペテロだけではなく、もう一人の弟子がキリストのあとについて行ったということを、ヨハネの福音書だけが記しています。この弟子が誰であったのかは不明ですが、たぶんヤコブの兄弟ヨハネであっただろうと推測されます。尤も、ガリラヤ出身のヨハネがなぜ大祭司の知り合いであったのかという疑問は残りますが、ここでは仮に、この「もう一人の弟子」をヨハネとしましょう。ヨハネは、何につけても人より先んじているペテロが入れないでいる大祭司の庭に堂々と入り、そのあとで、ペテロが中庭に入れるように門番に取り次いでいます。そして、ヨハネは、ヨハネの福音書の中で、度々自分のことを「イエスが愛された者」と表現しています。自分のことを「イエスが愛された者」と自分で告白できるということはなんと幸いなことでしょう。ローマ人への手紙8:37で、パウロは「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」と言っています。
③ペテロ、三度の否定…「あなたのためには命も捨てます。」と言っていたペテロでしたが、鶏が鳴くまでに三度もキリストを知らないと否定しました。人間的な気合いとか気力などはあまり頼りになりません。実は、私たち自身もペテロを笑うことはできないのではないでしょうか。ヤコブ4:15には「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」とあります。一年先のことも、明日のことさえも分からない私たち人間は、主のみこころならば、主のお許しがあるならば、あのことを、このことをさせていただこうという謙虚な姿勢が必要なのです。