ヨハネ20章1~18節から「空っぽの墓」という題で、ポイントを3つ上げます。
①マグダラのマリヤ…ヨハネの福音書では、他の福音書とは異なり、墓を見に行った女はマグダラのマリヤだけ記されています。彼女はかつて「七つの悪霊」に支配されていました。しかし、キリストによって悪霊から解放され、彼女の人生は一変したことでしょう。その変わり方に著しいものがあったゆえに、記者ヨハネはマグダラのマリヤのみにスポットを当てたのでしょう。かつて福田町時代の当教会に元ヤクザ、今牧師の鈴木啓之さんが来て証ししてくれました。後に、鈴木さんは1998年の3月にはアメリカの大統領朝祷会に招かれてスピーチをしています。その大きな変化には驚きです。聖書の人物で最も鮮やかな回心をしたのはパウロでしょう。彼は、熱心なユダヤ教徒で、クリスチャンを捕らえようと、エルサレムからダマスコに行く途上でキリストに出会い、その後は誰よりも熱心なキリスト者となり、新約聖書中13巻の手紙を記しています。パウロは第一テモテ1:15で「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と言っています。自分は罪人のかしらであるという自覚が一層パウロを熱心にさせたのでしょう。私たちも暗闇から光に移された者として、キリストを証ししましょう。②墓の中…墓を見に行ったマグダラのマリヤらの報告のあと、ペテロたちが墓に行き、中を見ると、キリストの体はなく、布が巻かれたまま残されていました。言うまでもなく、それは、キリストが復活したからです。やがて起こるキリストの再臨のとき、キリストを信じる者はキリストと同じように復活の体に一瞬にして変わります。私たちは、偶像や死んだ人を拝んで、希望のない日々を送るのではなく、私たちを愛して、私たちの罪をその身に負い、十字架で死んだけれども復活して今も生きておられるイエス・キリストのまことのいのちと希望に溢れて歩もうではありませんか。③行って告げなさい…墓を見たペテロたちもマグダラのマリヤも、その時点でキリストが復活したということを知らないでいました。ですからマリヤは泣いていたのです。いくら、信仰に熱心でも間違った情報の元では間違った行動をしてしまいます。そうならないように、私たちは聖書をよく読む習慣をしっかり身に付けなければなりません。マグダラのマリヤは、そのあと復活のキリストに出会い、キリストから何をすべきか教えられました。私たちは永遠のいのちのゴールを目指して、日々、何をすべきか主に導かれつつ励んでまいりましょう。