●7月22日礼拝メッセージ要旨(ヨハネ21:15~25)

ヨハネ21:15~25から「わたしを愛しますか」という題でポイントを3つあげます。
①三度の質問…食事が終わると、キリストはペテロに「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか」と質問します。昔からある教会学校の讃美歌に「どんなに寂しいときでも~イエス様が一番~だってイエス様は神様だもの」という歌詞があります。イエス様が真の神様であるなら、イエス様を一番誰よりも愛することは当然のことです。ここでキリストは「わたしの羊を飼いなさい」と言っておられますが、ペテロにとってイエス様を愛するとは、教会の働きをすることです。かつて大祭司カヤパの官邸でペテロは「キリストを知らない」と三度も否定した苦い経験があります。キリストは、そんなペテロの心の傷を回復させようと、あえて三度「わたしを愛しますか。わたしの羊を飼いなさい。」と言われたのでしょう。さすがにペテロは同じ過ちを繰り返すことはありませんでした。非常に慎重に「私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」と、言葉を選んで答えています。「キリストを愛する」とはキリスト従うことでもあります。私たちも、キリストに従うことが出来ますように。
②行きたくない所に連れていかれる…ポーランドの作家ヘリンク・シェンキェヴィチは西暦1世紀のローマを舞台とした「クォ・バディス」と言う歴史小説を著し、それが認められてノーベル文学賞を受賞しました。この小説の中に、ローマに向かうキリストに対して、ローマから離れようとするペテロが「主よ。どこにいらっしゃるのですか。」と尋ねると、キリストが「そなたが私の民を見捨てるなら、わたしはローマに行って今一度十字架にかかるだろう。」と答える場面があります。結局ペテロは向きを変えてローマに行き、殉教するのです。もちろん、聖書にはありませんが、伝承として言い継がれています。キリストに従順に従うということは時に厳しさもありますが、それはこの上ない祝福の道です。 
③この人はどうですか…ペテロは自分の行く末に対する預言を聞いて、他の人のことが気になり、「この人はどうですか」と言いました。私たちはよく人と比べて、それで喜んだり、落ち込んだりするものですが、それは神のみこころではありません。ガラテヤ6:5には「人にはおのの、負うべき自分自身の重荷があるのです」とあります。私たちは、それぞれに与えられた使命を果たしましょう。特に、クリスチャンには「祈り」があります。祈りを過小評価してはなりません。信仰による祈りは大きな力があります。

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