●9月1日礼拝メッセージ要旨(使徒の働き21:1~19)

「ミレトからエルサレムへ」という題でポイントを3つあげます。

①共に海岸にひざまずいて…パウロ一行はミレトから船でツロに上陸します。ツロに着くと、そこで弟子たちを見つけ出して、そこに七日間滞在します。そこではたぶん、集会が行われたのでしょう。別れるために一行が町はずれまで行くと、弟子たちは妻子を連れて一緒についてきました。それだけツロの弟子たちはパウロ一行との交わりで恵みを受けたのでしょう。そして共に海岸にひざまずいて祈ります。さて、ここで、ひざまずいて祈ることについて考えてみましょう。パウロはミレトの長老会でも最後にひざまずいて祈っています(使徒10:36)。ルカ22:41~42で、キリストは捕らえられる直前にオリーブ山のゲッセマネでひざまずいて「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られています。つまり、ひざまずくとは、神への服従を表す祈りの姿勢であるとも言えるでしょう。これからエルサレムに向かって行こうとするパウロ一行とその一行を見送るツロの弟子たちが共に海岸でひざまずいて祈る。それは、その後、待ち受けるだろう困難や迫害にも屈することなく、ただただ主に従って行こうとする決意の表れだったとも言えるでしょう。

②伝道者ピリポ…ツロからトレマイに行き、そこに一日滞在したあと一行はカイザリヤに着きました。そして、あの七人の執事の一人ピリポの家に入りました。パウロとピリポ、この二人は共に最初の殉教者ステパノとつながっています。パウロ、当時サウロはステパノを石打ちする人々の着物の番をしていました。ピリポにとってステパノは共に選ばれた七人の執事のうちの筆頭執事です。ピリポにとってパウロ(サウロ)はかつての迫害者であり敵対者でした。そのパウロが、今やイエス・キリストの福音を世界中に宣べ伝えている史上最大最強の伝道者になっているのですから、正に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」という伝道者の書3:11のみことばの通りです。

③イエスの御名のためなら…ピリポの家でパウロに会ったアガポという預言者は、パウロの帯を取り、それを自分の手と足に巻いて「この帯の持ち主は、こんなふうに縛られて異邦人に渡される」と預言しました。皆はそれを聞き、パウロにエルサレム行きを回避するように頼みます。するとパウロは「私は主イエスの御名のためなら…死ぬことさえ覚悟しています。」と言いました。イエス・キリストは架空の人物でも偶像でもありません。また、ほんの一時的に支配する世の権力者でもありません。私たちの命を握っておられ、最後の審判の座に就かれ、永遠から永遠の最高権威者でありながら、人となって十字架の救いを成し遂げられた方です。パウロが、その「イエスの御名のためなら…」と言うのは誇張や感情に任せた言葉ではないのです。

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