●2月2日(日)礼拝メッセージ要旨( ローマ2:17~29)

 「神を誇る者として」という題でポイントを3つあげます。

   ①みこころを知っていながら…パウロはローマにいるユダヤ人に対して、神のみこころを知り、何をすべきか分かっているはずなのに、盗み、姦淫、神殿の物をかすめる、そういうことをしていると言っています。パウロ自身もかつては熱心なユダヤ教信者で、そのあたりのユダヤ人の事情をよく知っていたと思われます。福音書においてもキリストが、マタイ23:14で「おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。」と、結果的に盗みをしていることを指摘しています。また、マタイ19:9で「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」と、姦淫の罪について指摘しています。さらに、マタイ21:3では「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」と言われ、宮きよめをされています。今日のキリスト教会も、神に仕えているように見えて実は真逆のことをしている、そんなことがないように十分に気を付けなければなりません。

   ②神の名は汚されている…例えば、スポーツの世界で日本一、または世界一になった選手などが、犯罪を犯して警察沙汰などになった場合、その落差のゆえにニュースで取り上げられることがあります。すると、その選手が所属していた団体までもが恥を受けることになります。今日、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、たとい何の栄誉はなくても、クリスチャンであること自体が栄誉であり、意外に世間一般からは高い倫理性を求められているものなのです。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。神の名を汚すことがありませんように。

   ③御霊による心の割礼…イスラエル民族の祖先アブラハムは、創世記17章で、割礼を受けています。割礼は神の民であるという神との契約を結んだしるしです。ですから、神の民としてふさわしい歩み方が期待されているのです。しかしながら、多くの場合、その割礼は形だけで中身のないものになってしまったのです。パウロは28節で「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではない」、また29節で「心の割礼こそ割礼です」と言っています。今日、クリスチャンも同じようなことが言えます。名前だけのクリスチャンではなく、滅びに向かっている多くの人々に福音を届けるという大きな使命が託されているということを忘れてはなりません。ルカ11:13には「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」とあります。聖霊に満たされ、心燃やされて主に仕えてまいりましょう。

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