「神の相続人」という題でポイント5つあげていきます。
① 神の御霊に導かれる人は神の子どもです…12節に「肉に従って歩む責任を肉に対
して負ってはいません」とあります。難しい日本語ですね。現代訳聖書というのがあっ
て、それには「私たちは、生まれながらの古い人に従って生きる義務はない」です。こ
れだと分かりやすい。要するに、12~14節で言っていることをまとめますと、「肉
的な思いに従うことはない。御霊によって生きなさい。御霊に導かれる人は神のこども
です。」となります。さて、「御霊に導かれる」とはどういうことですか?その時、そ
の時、イエス様が喜ばれることを選び、行なっていくということです。すなわち、「い
つも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する。また、人の悪を思わないで、赦し、
人の魂の救いを求めて生きる。」、それが御霊によって生きる神の子としてのありかた
です。もちろん、あるときは深い祈りの中で、もっと細かい導きを受けることもあるで
しょう。
② キリストとの共同相続人…先日、某団体を名乗る方から教会に固定電話へのアンケ
ート調査がありました。その団体の性質からすると、意外と思えるアンケートの内容で
した。それは「悪魔の存在を信じていますか?」です。筆者は「はい。聖書には悪魔の
存在が明確に書いてありますから、そのまま信じています。」と答えました。次に「悪
魔祓いをしていますか?」という質問でした。以前、エクソシストという映画がありま
した(鑑賞したことはありませんが)。それと混同されても良くないと思い、筆者は
「一般的な意味での悪魔祓いはしていません。但し、お祈りはします。お祈りして結果
的に悪の霊が退くということはあるでしょう。」と以上、二つの質問に答えました。1
5節には「人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく」とあります。占
いやオカルト本、偶像礼拝などにより、悪霊と関わると心は不安になります。しかし、
イエス・キリストの御名により、聖霊様と交わるなら平安が与えられます。神の子ども
には御霊が与えられ、その証拠として、平安と喜びがあります。そして、神の子どもで
すから、キリストとの共同相続人であるという非常に大きな特権が与えられています。
多くのキリスト者は、世の大富豪などに比べたら、質素な生活をしていることでしょ
うが、実は、想像することもできないほどの超莫大な富の共同相続人であるということ
を忘れてはなりません。
③ 今の時の色々の苦しみ…私たちの人生、楽しいとき、苦しいとき、悲しいとき、
色々なときがあります。あとで振り返った時、楽しいときのことはあまり記憶にありま
せんが、苦しいとき、悲しいときの記憶は残っているものです。その苦しい悲しいとき
の経験が、自分を成長させていることが多いのではないでしょうか。同じように、やが
て、天の御国に入ったとき、イエス様のために苦しんだことがあるなら、それが天での
勲章になるのではないかと思います。ですから、パウロは18節で「 今の時のいろい
ろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない
ものと私は考えます。」と言っているのです。
④ 被造物が神の子たちの現われを待ち望んでいる…19~22節には、ちょっと不思
議な興味深いことが書いてあります。筆者は44年前、イエス・キリストを信じ、心に
迎え入れた直後、外で木の葉が風に揺れるのを見て「あれ。木の葉が自分のことを喜ん
でいる。」と、そんなことを思ったことがあります。また、空の星、月、太陽、そし
て、花や様々な創造主による被造物を見て感動したことを覚えています。と言うのは、
それまで花を見て感動したことなど無かったのです。ここでは、その被造物の側から、
人間を見て、どうなのかということが記されています。被造物が神の子たちの現われを
切実な思いで待ち望んでいるのですから、筆者の経験と一致していると言えます。
⑤ 私たちも心の中でうめきながら…このごろ、朝起きて外を見ますと、これまでと変
わらない景色が広がっているのを不思議に思います。一面の田んぼ、遠くに走る車、平
和そのものです。しかし、テレビやインターネットでは毎日頻繁に「コロナ、コロ
ナ。」です。感染した人、その関係者、また医療関係者にとっては深刻な状況です。そ
ういった事実に対する正確な状況把握も大切ですが、一方で、コロナ情報の洪水による
パニックに陥らないように気を付けなければなりません。18節でパウロが「今のとき
のいろいろの苦しみは」と言っていますが、当時は迫害ということが最も大きな問題
だったことでしょう。今は、新型コロナウィルスです。ともかく、早期終息を願うばか
りです。この問題を通して、23節にあるように「心の中でうめきながら」祈ること
が、イメージしやすくなりました。本来は、御霊に与っている者は、どんなときでも心
の中でうめきながら祈る祈りをささげていきたいものです。キリスト者にとって最終的
には自分のからだが贖われること、すなわちキリストの復活に与ること、そのことを最
終目標にしつつ、コロナ終息、そして人々の救いを願い、忍耐と希望をもって、うめき
ながら祈ってまいりましょう。