●4月5日(日)礼拝メッセージ要旨( ローマ7:13~25)

 「みじめな人間」という題でのメッセージです。13~14節でパウロは「律法によって自分が罪ある人間だということを自覚した」ということを言っています。

例えば、十戒の第6戒は「殺してはならない」です。この戒めに関してキリストは、マタイ5:22で「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と言っておられます。また、十戒の第7戒は「姦淫してはならない」です。これに関してキリストは、マタイ5:28で「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言っておられます。キリストは、外側の行動として犯す罪だけではなく、心の中で犯す罪についても言及しています。

パウロは、そういったことを踏まえた上なのでしょう。自分自身のことを分析し、自分の心の中に罪が住みついているということ、自分の心の中に悪が宿っているという原理を見出すと言っています。さらに、24節では「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言っています。

さて、ここでよく考えてみてください。パウロは、新約聖書中、ローマ、コリントⅠ・Ⅱ、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケⅠ・Ⅱ、テモテⅠ・Ⅱ、テトス、ピレモン、計13の書簡を書いています。もし、このパウロが今、この世に生きているなら、大先生どころか、神の人として多くの人から尊敬を集めることでしょう。そのパウロが自分のことを「みじめな人間」と言っているのです。それは、過去にキリスト者を迫害した罪悪の経験からそう言っているのではなく、救いを受けたキリスト信者としての発言です。

聖書の視点で「正しい人」とは、自分が罪人であることを悟り、神を恐れて、へりくだって生きる人のことです。カインの弟アベルは、自分の罪を認め、主に心からのささげものをしました。ノアの箱舟のノアは、大洪水の滅びから免れて、船から出て、真っ先にしたことは、神への礼拝といけにえをささげることでした。ヨブ記のヨブも、常に罪のためのいけにえをささげ、神から「潔白で正しい」と認められていました。

今日、私たちには、神へのいけにえの子羊となってくださったイエス・キリストによる救いが与えられています。ですからパウロは25節で「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言っているのです。教会は確かに罪人が集まるところですが、もう少し詳しく表現するなら、「教会は自分が罪人であるということを自覚している者が集まるところ」ということになります。

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