●5月10日(日)礼拝メッセージ要旨( ローマ9:1~18)

  •    8章までは「信仰によって義と認められる」ということが一貫として語られてきたのですが、9章~11章では「神の選び」について語られます。しかし、「信仰による義」と「神の選び」とは互いに相反するものです。この論議の結論はローマ11:33に「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」とあるように、人間の立場から、この神の奥深さを見極めることなどできないということです。結局、私たち人間は、大いなる神を恐れ、この方に信頼してお任せしながら生きるということでしょう。そういったことを前置きとしながら、このローマ9:1~18から、「神の選びの計画」という題で、ポイント3つあげていきます。

  •    ①私の心には絶えず痛みがあります…パウロは、神の民として選ばれたイスラエル人が、キリストの救いを拒んでいることに対して、聖霊によって、悲しみ、心痛み、できれば自分が彼らのためにのろわれた者となることさえ願いたいと言っています。出エジプト記32:32で、モーセもほぼ同じ内容のことを言っています。アブラハムも、ソドムとゴモラの町が滅ぼされようとしていたとき、その町が滅びないように切に執り成しをしています。パウロ、モーセ、アブラハム、彼らは聖霊に満たされ、正に十字架で救いを成し遂げられたキリストのような心を持っていたと言えます。

  •    ②約束の子ども…アブラハムの子の場合、イシュマエルではなくイサクが約束の子とされました。イサクの子の場合、エサウではなくヤコブが約束の子とされました。肉の子どもがそのまま神の子どもとされるのではなく、約束の子が神の子どもとみなされるのです。今日、イスラエル人(ユダヤ人)は、血統的には神の選民です。しかし、血統はどうあれ、イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れる者ならば、誰でも約束の子です。エペソ1:5には「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。

  •   ③あわれんでくださる神…天地を創造した聖なる神は絶対的な主権者であって、ある人をあわれみ、別の人には心かたくなにされたとしても、それは神の主権の下に、誰も異議を唱えることはできません。【もちろん、神にはえこひいきなど無く(ローマ2:11)、正しい審判をされる方です。】そういう中にあって、私たちがキリストの救いの中に入れられているなら、それは正に神のあわれみを受けたのです。エペソ2:8に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあります。神のあわれみを受け、恵みのゆえに救いを受けたのであるなら、ただただ、神に感謝と栄光をささげるばかりです。そして、まだ救いを受けていない人々に、この神のあわれみが及ぶように執り成し、祈りましょう。


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です