●5月3日(日)礼拝メッセージ( ローマ8:31~39)

先日の4月30日、つばめさわ教会に隣接する山から、今年初めてウグイスの鳴き声を聞きました。陽春と言いましょうか。初夏と言いましょうか。ウグイス登場に代わって、問題のウィルスは一気に退場することを切望します。さて、ローマ8章31節から39節です。この箇所はメッセージなどしないで、ただ読むだけで十分恵まれる箇所だと思います。でも、そんなわけにもまいりませんので、「圧倒的な勝利者」という題でポイント3つあげていきます。このメッセージを読んでくださる方の徳が高められ、励ましと慰めがありますように。
(1)神が味方であるなら(31~32節)…私たち人間は生まれながらにして、この宇宙、天と地と万物を創造し、それらを統(す)べ治めておられる聖なる天の父なる神様の前に罪人であり、神の怒りの下(もと)にあります。しかし、その聖なる方の御(おん)ひとり子イエス・キリストがこの世に来られ、十字架による救いのみわざを完成されました。今日、誰であれ、自分が罪人であることを認め、イエス様の救いを信じ受け入れるならば、その人の罪は赦され、義とされ、聖なる神と和解したのですから、正に神がその人の味方であります。31節に「神が味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とあります。正直、実生活ではあんまり実感できないかもしれません。でも、案外、ピンチの時に、それを感じるときがあるものです。ちょっと古い話で恐縮ですが、2015年秋、ゴスペルハウスと呼んでいる筆者が住んでいる家の駐車場のコンクリート流し込み作業がされた日のことです。その日の朝から業者さんが来て、下準備をして、コンクリートを流し込んで、仕上げを終えたのがお昼近くです。そのお昼ごろ、筆者は別の場所から、その出来栄えを見に行きました。あと3kmほどで到着しようとするとき、朝方は快晴だったのに、黒い雲が出て来て、大粒の雨が降り始めました。施工したばかりのまだ柔らかいコンクリートにとっては最悪の状況です。車の中で筆者は切に祈りました。「主よ。雨を止めてください。コンクリートが流れてしまいます」と。現場に到着すると、強い風が吹いていて、筆者の被っていた帽子が吹っ飛び、隣地の境界のブロック塀まで20mほども転がって行きました。と同時に、空を見上げると、黒い雲が風で流され、雨がピタリと止んだのです。こんな不思議なことは頻繁に起こりませんが、時々あるのです。クリスチャンにとっては、聖なる天の神様はイエス様を仲介者として味方なのですから、何も恐れることはありません。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)」そして、また、ピンチのときは主に向かって祈りましょう。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33:3)」
(2)告発者から守ってくださるキリスト(33~34)…この章、8章1節のみことばをもう一度読んでみましょう。そこには「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とあります。なぜなら、34節にあるように「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる」からです。とは言うものの、クリスチャンは、天の御国に移されるまでは、この地上での生活がありますから、そこに様々な戦いがあります。人によって、戦いの種類が異なるかと思いますが、クリスチャンの共通の戦いは霊的な戦いだと思います。悪魔も生きて働いています。悪魔の目的は、霊的盲目の人々をそのまま滅びに向かわせること、そしてキリスト信者に対しては、その信仰を弱めて、その道から脱落させようとすることです。戦いの勝利の秘訣は、エペソ6:10~18の七つの霊的武具です。「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」、「信仰の大盾」、「救いのかぶと」、「剣である神のことば」、そして「祈り」です。いくら、イエス様がとりなしてくださると言っても、心を空っぽにしていると悪魔が入ってくる恐れがあります(マタイ12:43~45参照)。だから、やはり、心を尽くし思いを尽くして主を愛し、また、隣人を自分と同じように愛する、そういったことを心掛け、日々、適切な緊張感を持って過ごしてまいりましょう。
(3)圧倒的な勝利者(35~39)…1953年というと、筆者が生まれた年です。この年にアメリカで「聖衣」という映画が公開されました。当時、製作費は日本円で約5億円、興行収入は約36億円、全米興行成績一位の大ヒット作品となりました。その内容は、ローマの護民官マーセラスがユダヤに派遣され、キリストを十字架につける責任者となりました。しかし、その後、マーセラスは、その任務を遂行したことで苦しみます。そんなとき、キリストが着けていた衣(聖衣)との関わりがあり、また、自分の奴隷がキリストを信じたことなどから、最終的にマーセラスも信仰を持ちます。その後、彼はローマにて、殉教します。幼馴染のフィアンセと共に刑場に向かうのですが、映画では、その場面が、正に最悪の状況の中で圧倒的な勝利者としての姿を描き出していました。それは真実な神に従い、その肉体は死んだとしても、天に凱旋するという希望と勝利があるからです。詩篇23:5には「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」とあります。敵に取り囲まれている中で豪華な食事を堪能するなどという発想はどこから生まれてくるのでしょう。死んだら全てが終わりだとするこの世の発想からは生まれてくるはずがありません。しかし、真の神、イエス・キリストの父なる神を信じる者にとっては、敵前の祝宴以上の、もっと素晴らしいことが待ち受けているのです。死んで終わりではない、永遠のいのち、失望に終わらない希望があります。だから、圧倒的な勝利者となるのです。そして、この福音をまだ知らない人々に何とかしてお届けしなければなりません。

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