「口で告白して救われる」という題でポイントを3つ上げます。
①だれが天に上るか…この手紙の著者であるパウロは、自分自身がユダヤ人であり、同胞ユダヤ人の救いを心から願っています。しかし、多くのユダヤ人は、自分の義を立てようとして、神が備えてくださったイエス・キリストの十字架の救いを受け入れようとはしませんでした。その結果、「だれが天に上るか。だれが地の奥底に下るか。」と言って、せっかくのキリストの十字架の救いをないがしろにしたのです。海外旅行に行くには、大抵は飛行機に乗ります。誰も、渡り鳥のように自分の力で飛んでいくことは不可能です。同じように、罪の赦しによる救いを受けるにはイエス・キリストの十字架以外にありません。
②口で告白して救われる…私たち一人一人の人格は、その人の語る言葉によって決まると言っても過言ではないでしょう。また、その人が語る言葉が、その人の人生を定めていくのです。8節の「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」ということばは、申命記30章からの引用です。聖なる神は、人の前に「いのちと死」、「幸いとわざわい」、「祝福とのろい」を置かれました。人は、その口から発することばによって、そのどちらかを選び取って行くのです。今、私たちの前には、イエス・キリストによる救いの道が開かれています。その救いを自分のものとするには、イエスは主であると口で告白することです。そして、このことは、救いを受けてからでも続きます。黙示録12:11には「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」とあります。勝利あるクリスチャン生活の秘訣は、信仰の告白です。賛美や祈りも信仰の告白になります。
③失望させられることはない…キリストは、十字架で息を引き取る直前に「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。このことは、私たちの罪の身代わりとなられたキリストが、神に見捨てられた者としての叫びをも代わって発せられたということなのです。私たちは、神に見捨てられた者とならないために、13節のように、主の御名を呼び求める者となりましょう。そして、この方を信頼するならば決して失望することはなく、神の豊かな恵みが注がれるでしょう。本日5月31日はペンテコステ記念日です。ペンテコステの原点は、弟子たちが集まり、主の御名を呼び求めたことにあります。そこから、彼らに聖霊が注がれ、初代教会が誕生し、世界宣教が始まって行ったのです。私たちもイエス様の御名を呼び求め、聖霊に満たされ、主の証人として福音宣教に励みましょう。