●10月18日(日)礼拝メッセージ要旨(第一コリント1:18~31)

この1章の前半で、パウロは、互いに党派心を持って分裂状態にあるコリント教会に対して、一致するようにと言っていて、その一致のために、1章後半では、キリストの十字架に目を向けさせようとします。「十字架のキリストを宣べ伝える」という題で、ポイントを3つあげます。

 ①「十字架のことばは神の力」(18節)…ローマ時代に十字架は死刑の方法として用いられたのですが、今日「十字架」はキリスト教会や病院などのシンボルマークになっていて、アクセサリーにもなっています。但し、神の力となるのは、その形状そのものではなく、「十字架のことば」です。すなわち、宇宙の創造主なる聖なる神のひとり子として、この世に来られ、多くの人の罪をその身に負って、十字架に架けられ、死なれ、葬られ、死後三日目に復活して、今も生きておられる主イエス・キリストによる救いのことです。ヘブル2:14~15には「 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とあります。イエス・キリストの十字架のことばは、信じる者を悪魔の支配から解放し、滅びから救う力があります。

 ②「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(23節)…21節には「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による」とあります。確かに、高等教育機関などにおいて、研究に研究を重ねた末、神を知った、あるいは、キリストの救いに到達したというような話は聞いたことがありません。キリストが弟子たちに「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と質問したとき、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。するとキリストは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と言われました。正に、救いは人間の知恵によるのではなく、神わざです。ですから、今日、私たちは、相手にとっては愚かに見えようとも、十字架につけられたキリストを宣べ伝えなければならないのです。

 ③「誇る者は主を誇れ」(31節)…イエス・キリストを信じるということは、とてつもなく大きなことです。すなわち、霊の目が開かれ、暗やみから光に移され、サタンの支配から解放され、罪の赦しと天の御国を受け継ぐということ(使徒の働き26:18参照)です。この大きな恵みを、私たちが自分の知恵で得たと錯覚しないように注意しなければいけません。イスラエルの初代の王はサウルでした。彼は神から一方的に選び出され、30歳で王となり12年間、王位に就いていました。サウルは預言者サムエルに油注がれ、王として立てられ、最初は順調なすべり出しを見せましたが、しばらくして彼は、主のみことばに徹底して従うということをしませんでした。それゆえ、主はサウルを退け、水面下ではダビデを王として立て、サムエルによって油を注がせたのです。それ以後、サウルはダビデを妬み、ダビデの命を狙って追い回すことが本業となりました。一方、ダビデは失敗もありましたが、主を恐れ、みことばに徹底して聞き従い、晩年は長寿と誉れと富にも恵まれていました。それにもかかわらず、第一歴代誌29:14で「まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」と、与えられたものは、すべて主から出たものであると告白しています。正に「誇る者は主を誇れ」です。

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