●2021年4月18日(日)礼拝メッセージ「キリストのからだ」 

第一コリント12:12~31から「キリストのからだ」という題で、キリストのからだである教会のあり方について、ポイントを3つ上げていきます。

①「からだは一つ」(12~20節)…教会には老若男女、色々な人が集まります。でも、イエス・キリストを信じる信仰によって、一つになれます。人の体には多くの器官があり、それらは異なった形や働きをしますが、同じ一つの体を形成しています。先日NHKテレビで「オープン・シェア革命」ということを取り上げていました。最初に、MLBのダルビッシュ投手がピッチングにおけるボールの投げ方(握り方)を公開しているということを取り上げ、次に、青山学院大学陸上部の原晋監督も、自チームの練習方法を公開しているということを取り上げていました。そんなことをすれば、他チームがそれを真似て強くなり、自チームにとっては不利になるはずなのですが、原監督は、陸上界全体のレベルアップのためには良いことであると考え、結果的には自チームにとってもプラスになると言っていました。聖書には「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。(ルカ6:38)」、「受けるよりも与えるほうが幸いである。(ルカ20:35)」とあります。自分の持っている賜物をそれぞれ、分かち合って役立てる、という考え方は正に教会としてのありかたと重なります。

②「弱い器官、苦しんでいる部分」(22~26節)…人間の体で、運動面からみて一番弱い部分は頭部でしょう。頭部の中でも一番デリケートなところは目でしょう。でも、そのあたりは一番なくてはならない部分でもあります。また、体の中で一部が病んでいるとき、例えば歯痛などがあるとき、体全体がそこに集中し、痛みが無くなるまで落ち着かないものです。教会の中で、一人の人が苦しんでいるときは、皆がその人のために祈ります。クリスチャン新聞福音版5月号で、12世紀のイタリヤのアッシジの「フランシスコの祈り」が紹介されていました。その一部です。「憎しみのあるところには愛を。いさかいのあるところには赦しを。分裂のあるところには一致を。迷いのあるところには信仰を。誤りのあるところには真理を。絶望のあるところには希望を。悲しみのあるところには喜びを。」とありました。教会は社会の問題も含めて、様々な問題のために祈りましょう。ヨハネ14:14には「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とあります。イエス様の名によって、信仰をもって弱っている人、病の人、問題解決のために祈りましょう。

③「あなたがたはキリストのからだです」(27節)…エペソ1:23には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。クリスチャンは、不思議な神の導きにより、教会に集まり、教会の一員とされています。教会には3つの段階があります。まず、第一は個々の教会。第二は公同の教会、つまり世界中のキリスト教会です。そして、三つめは天上の教会です。先日私は登米市米山町平筒沼の桜を見ました。大きな沼(湖)の回りに桜が見事に咲いていました。それを見たとき、桜の木を何年か前に計画的に植えたであろう人たちのビジョンに感心しました。私たち一人一人も、自分の人生設計をしっかりと持たねばなりません。まずは、個々のキリストのからだなる教会に連なり、その器官となって、多くの実を結び、やがて務めを終えたならば、天上の教会(天の御国)に移されるのです。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:8)」

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