●2021年6月20日(日)礼拝メッセージ「神に、より頼む者となる」 

第二コリント1:1~11からです。第一の手紙の最後では、テモテをコリントに派遣すると言っていますが、この時は、そのテモテはパウロと共にいます。パウロ自身も第一の手紙のあとコリントに行っているようです。第二の手紙全体からすると、コリント教会の様々な問題はすんなり解決しなかったようですし、また、解決したように見える記事もあります。いずれにしろ、これらの手紙が今の時代を生きる教会のための指針となっています。今回もポイント三つ上げます。

①「慰めてくださる神」…私たち人間は、毎日人と関わりながら生きています。その中で、関わる人の優しさに触れ、それによって慰めを受け、それが生きる力になっていると思います。逆に、人間関係が厳しい環境に置かれている人は、心が病んでしまう場合もあるようです。そういった人との関係も大きなウェートを占めますが、一番は、慰めて下さる神様、イエス・キリストの父なる神様に出会い、この神様とともに生きることです。詩篇23:4には「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とあります。羊のような私たちと共に羊飼いのような主がおられ、日々、私たちを正しい道に導いてくださり、たとい死の間際にあっても勝利を与えてくださるのです。

②「神に、より頼む者となる」…パウロは使徒の働き14章で、石で打たれ、一旦死んだと思われた経験があります。たぶん、そのことに対してでしょう。9節で「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」と言っています。「神に、より頼む者となる」、これはクリスチャンにとっては非常に大事なことです。私たち人間は創造主である真の神によって生かされているのに、自分の力で生きていると思っていませんか。そして、自分自身を誇り、自分はあれをした、これをしたと言って自慢するものです。しかし、パウロは第二コリント12:5で「自分の弱さ以外に誇らない」と言っています。そして、ガラテヤ6:14では「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と言っています。実際に、使徒の働きでパウロは機会あるごとに自分の救いの体験を証ししています。かつてパウロは、クリスチャンを迫害する側にいて、そのためにエルサレムからダマスコへ行く途上で聖霊なるイエス・キリストにお会いしています。それは自分の知恵や努力によるものではありません。ただ、神のあわれみのゆえです。今日の私たちも神のあわれみのゆえに救いを受けました。私たちを救ってくれた主は、これからも助けて下さいます。ですから、私たちは、益々自分ではなく、助けてくださる神により頼む者となりましょう。

③「望みを神に置いている」…パウロは、最後はローマで殉教したようですが、そこに至るまでは、神が彼を何度も救い出しました。第二コリント11:24~25によると、39度のムチを5度、それ以外のムチを3度、石打1度、難船3度など、苦難の中で、その都度、救い出されました。誰も、パウロほどの試練を経験したことはないでしょう。もちろん、筆者もありません。ただ、開拓伝道からこれまでを振り返る時、最初は宮城野区福住町、次に福田町、その次は蒲生、そして3.11大震災のあとは新田、現在は燕沢です。それぞれ導かれ、あるときは文字通り救い出されもしました。そうです。これからも神は助け、御手を差し伸べて下さるでしょう。主にある皆さんも、それぞれ、これまでの導きを感謝し、これからもさらに神に期待しましょう。互いに祈り、支え合って、主イエス・キリストの栄光が現れることを求めてまいりましょう。

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