●2023年1月15日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一テモテ6:1~10から、「満ち足りる心を伴う敬虔」という題でポイントを3つ上げていきます。

「奴隷と主人」…創世記39章で、ヨセフは兄たちによって、エジプトに奴隷として売られ、ポティファルという人に仕えることになりました。主がヨセフとともにおられ、ヨセフは何をしても成功し、主人は自分の財産全部をヨセフに管理させるほどになりました。奴隷制度については大いに問題がありますが、今日、クリスチャンがその勤める職場において、上司や経営者などを尊敬し、従順に仕え、その職場に貢献することで、神の栄光が現われます。また、上司が自分と同じクリスチャンの場合は、ますます上司を尊敬し、仕えていくことです。ところで、クリスチャンは従業員の立場のみならず、自ら会社を起こして成功して、不景気と言われるこの世にあって、雇用を促進して、神の栄光を現わす人が現われても良いと思います。

「満ち足りる心を伴う敬虔」…この当時「敬虔を利得の手段」とする人がいたようです。それは、偽教師のような人たちのことです。目的がどこにあるかということが非常に重要なことです。例えば、日本の国会議員さんの歳費と言われるお給金は世界第三位とのことで、しかも新幹線がタダなど大変な優遇を受けています。そうなりますと、国民の年収も世界第三位になってもよさそうですが、ここ数年、こちらのほうの世界ランキングは下がりっぱなしのようです。そうなりますと、国会議員としての役割よりも、頂ける高額なお給金を目当てにする人がいても不思議ではありませんね。聖書に戻ります。6節には「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」とあります。敬虔、それは信仰的な充足感とか、霊的な満たし、そういったものを目標にした信仰生活こそ、その人を結果的に幸いに導くのです。利得を目的にした信仰生活ではなく、まず、敬虔に生きることを目標とした信仰生活が望まれます。

「衣食があれば満足すべし」…7節には「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」とあります。確かに私たちは何も持たずに生まれ、何も持たずに世を去っていきます。ですから、そのあとで、「衣食があれば、それで満足すべきです。」とあります。もちろん、私たちは衣食のみならず、実に沢山の物を所有しているのではないでしょうか。クリスチャンが模範とすべき方であるイエス・キリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)」と言われました。キリストは家畜小屋でお生まれになり、人々の前にお姿を現わされたときは、決まった住居さえありませんでした。それでも、乏しいということはなく、山で群衆が集まったときは、5つのパンと2匹の魚から、5千人の人々を満腹にさせ、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。ローマ8:20には「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とあります。主にあるクリスチャンは、当時のキリストと同じように天からこの世に遣わされているのです。天の御国は莫大な富で満ち溢れている場所です。この世の滅びて行く富に執着すべきではありません。マルコ10:29~30でキリストは「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」と言われました。キリストのために、福音のために捧げた者には、後の世で永遠のいのちを受けるに止まらず、この世において百倍の報いを受けるのです。もちろん、第二のポイントで学んだように、この世の報いである利得を目的にしたら、本末転倒です。まず、敬虔を求めるのです。

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