少し振り返ってみますと、黙示録1章では、イエス・キリストの本来的なお姿が記され、2~3章では、当時の七つの教会について記されていました。4~5章では、この黙示録が啓示される発信源となる天の御座について記されています。そして、黙示録の本論は6章以降となります。今日は黙示録4:1~11からです。
1.御座に着いておられる方…天の御座、言うなれば天国の本部のような場所です。そこから、この見える世界である全宇宙、全世界に様々な指令が発せられているのでしょう。ヘブル11:3には「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」とあるように、今は、私たちに天国は見えませんが、その見えない所の見えない方によって、この世界が創造されたのです。そして1節で、主がヨハネに「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と言われました。天から、地を見ているのです。先日、筆者は、ある「祈りについての本」を読みました。その中に「天から地に祈る」という項目がありました。普通、私たちは、地から天に向かって祈ります。すると、人間ですから、やはり私利私欲(※とは言うものの、はばかることなく何でも祈り始めることが大事です)が入ります。でも「天から祈る」とは、神のみこころにかなっているかと思います。Ⅰヨハネ5:14には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。なるほど、そういう祈りが「天から地に祈る」ということかもしれません。
2.四つの生き物…6~8節の「四つの生き物」とは、私たちの感覚からすると何とも理解しがたい表現です。それを見たヨハネは、このように表現するしかなかったのでしょう。この四つの生き物とほぼ同じ存在がエゼキエル書1:4~14にも記されています。また、イザヤ6章では「セラフィム」という名で記されています。イザヤが万軍の主を見てしまったということで「ああ、私はもうだめだ。くちびるのけがれた者で」と言うと、セラフィムのひとりが燃えさかる炭火を持って飛んで来て、イザヤの口に触れて「これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」と言います。さて、その四つの生き物の回りも内側も目で満ちていたとあります。益々理解不能に陥ります。ある解説書では、「天からこの地を無数の目で見張っているのかもしれない」というものがありました。そして、それらが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」と昼も夜も絶え間なく叫び続けたのです。そのように、天の御座、そしてそこに座しておられる方は、あまりにも聖なる方であり、この地上に住む被造物である私たち人間が近づくことも出来ないのですが、ただ、聖なる神の御ひとり子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、その尊い救いを信じ受け入れることによって、天の御国に入らせていただけるのです。
3.二十四人の長老…この4章の記事では、まず御座とそこに着座されている方がおられ、その近くに四つの生き物がいて、さらにその回りに24人の長老たちがいるということなのでしょう。この24人の長老たちは白い衣を着て、頭には金の冠を被っています。ある解説書では、同じ黙示録21:12~14から、イスラエル12部族とキリストの12弟子を表わすのではないかとありました。いずれにしても、彼らはきよめられ、天の御国にふさわしい何らかの貢献をした人たちかと思います。その彼らが、四つの生き物たちが栄光、誉れ、感謝をささげるときに、主の前にひれ伏して、自分の冠を投げ出して主を称えるのです。この姿勢は素晴らしいですね。金の冠を受ける栄誉を決して誇ることなく、ただただ主に栄光を帰す姿勢は、私たちが見習わねばならない姿です。ピリピ3:20には「私たちの国籍は天にあります。」とあるように、キリスト者は天国人です。天国人である私たちは、信仰の人、祈りの人として、天からこの地に遣わされている者として、主の栄光のために仕えてまいりましょう。