黙示録10:1~11からです。七つのラッパのうちの七つ目のラッパが吹き鳴らされるのは11章15節ですが、この10章では、七つ目のラッパが吹き鳴らされる直前になって、一つの「間」がここに描かれます。そこに天の神様のみこころと言いましょうか、メッセージが隠されていると思われます。本日は「口には甘いが腹には苦い」という題でポイント3つ上げていきます。
1.もうひとりの強い御使い…もうひとりの強い御使いが登場します。この御使いは、「雲に包まれて、天から降りて来て、頭上には虹があり、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようである」とされています。さらに開かれた小さな巻き物を持っているのです。黙示録1:13~16に記されているイエス・キリストの本来のお姿を彷彿とさせます。もちろん、御使いですから、キリストではありません。そして、この御使いは、右足は海の上に、左足は地の上に置いています。これはどういう意味でしょう。黙示録12:12には「それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」とあります。永遠の天に比べ、地と海は不安定な場所です。しかし、まだ救いのチャンスが残されています。この強い御使いが海と地に足を置いているということは、そこに思いがある、そこに残された人々の救いを願っているということなのではないでしょうか。キリストに似た強い御使いが遣わされたのは、そのためなのでしょう。
2.もはや時が延ばされることはない…第一のポイントで取り上げた強い御使いが右手を天に上げ、創造主である方に誓って「もはや時が延ばされることはない」と言います。逆の視点から言いますと「救いの門が閉じられる時がそこまで来ているので、もう時間がない。今のうちに悔い改めなさい。」ということでしょう。Ⅱペテロ3:9には「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とありますように、創造主である真の神は、これまで忍耐に忍耐を重ねて、救いの締め切りの時を遅らせてこられたのです。今、キリストの救いに与っている人々は、その神の忍耐のゆえであると言えます。しかし、その締切日が間近に迫っているのです。
3.口には甘いが、腹には苦い…天から声が聞こえ、ヨハネに対して「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」言います。ヨハネは、「その小さな巻き物をください」と言って御使いから受け取り、それを食べると、それは彼の口には蜜のように甘いのですが、食べてしまうと、腹は苦くなりました。その開かれた小さな巻き物とは今日、私たちに与えられている聖書のことであると思われます。聖書には福音が語られています。その福音には二つの大きな要素があります。一つは「救い=永遠のいのち」であり、もう一つは「さばき=滅び」です。例えば聖書全体のメッセージをこの一節で表わしていると言われているヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。そのみことばにも二つの要素が含まれています。救いや永遠のいのちは私たちの口には甘いでしょう。しかし、さばきや滅びは苦いという域に収まらず、もはや敗北と絶望です。ですから、私たちは、まず、自分自身の救いの達成に努めましょう(ピリピ2:12)。そして、そこだけに止まるのではなく、家族、親族、友人、知人、そして全ての人に福音を宣べ伝えるべきなのです。11節でヨハネが「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と言われたのは、実に、そのためなのです。