●2024年7月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

このところ、黙示録から学んでおりますが、本日はバプテスマ式と結婚式があり、それに関連してⅠコリント13章1~13節から「信仰、希望、愛」という題でこの題のまま、ポイント3つ上げていきます。Ⅰコリント12~14章の中心テーマは、御霊の賜物についてです。御霊によって、知恵のことば、いやしの賜物、奇跡を行なう力、預言、異言などが与えられると、「自分はなんてすごいのだろう」と、すっかり勘違いして、傲慢になり、歩むべき道を踏み外してしまうということもあるでしょう。そんなことが起こらないように12~14章の真ん中の13章で、大事な「愛」ということを説いています。また、その「愛」とともに「信仰」、「希望」についても語られます。

1.「信仰」…「信仰」のギリシャ語原語はピスティス(πίστις)です。日本でよく言われる「イワシのあたまも信心から」という言葉と違い、そのピスティスの意味は、「信頼するに足るものに対しての信仰、真実な確かなものを信じる信仰」ということです。かつて、私が生まれ育った実家はクリスチャンではなく、仏壇と神棚がある他の多くの一般家庭と同じでした。玄関脇にはイワシではなく、サンマの頭を串刺しにしたものを竹筒に入れてありました。イワシやサンマの頭を信仰してどうするのですか。この宇宙と世界を創造し、水、空気、食物、その他あらゆるものを恵み与えてくださり、それだけにとどまらず、そのひとり子イエス・キリストを世に送ってくださり、この方は、私たち全てのために、その罪をその身に負い、実に十字架の救いを完成されました。このイエス・キリストを信じる信仰によって、罪の赦しのみならず、どんなときも、神は最善を成してくださるということを期待することができるのです。

2.「希望」…7月21日の午後は、納骨(移転)式が行われました。左右二枚の石碑で十字架の空間を浮き立たせ、左側に「私たちの国籍は天にあります(ピリピ3:20)」と、右側に「この希望は失望に終わることはありません(ローマ5:5)」という聖書のことばが書き入れてあります。Ⅰコリント13:12には「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあります。案外、私たちは誤解しています。今、この現実世界がはっきりしていて、次の世界がぼんやりしていると思ってしまいますが、そうではなく、今がぼんやり、次の世界が顔と顔を合わせて見るようにはっきりとしていて、しかも、今は一部分しか知らされていませんが、その時には完全に知ることになるのです。私たちは、キリストの教会に連なり、イエス・キリストを信じる信仰によって、失望に終わらない希望を証しする者でありましょう。

3.「愛」…Ⅰコリント4~8節の「愛」をイエス・キリストに置き換えてみましょう。「愛(キリスト)は寛容であり、愛(キリスト)は親切です。また人をねたみません。愛(キリスト)は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛(キリスト)は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」となります。私たち人間は、不完全です。寛容でもなく、親切でもなく、人を妬み、自慢し、高慢になります。しかし、イエス様は、ここで語られている「愛」そのもののお方です。ですから私たちは、イエス様を信じて心に受け入れ、このイエス様の御名によって与えられる聖霊の力に助けていただきながら生きるのです。

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