●2025年3月2日(日)礼拝メッセージ要旨

創世記17:1~27からです。この章ではアブラムがアブラハムと改名され、割礼を受けました。ポイント3つ上げていきます。

1.「全き者であれ」…アブラムが99才のとき、主が彼に現われ、「わたしは全能の神である。あなたは、わたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われます。アブラムは、75才でカナンの地に来て、24年間経過しました。こののち、100才で約束の子イサクが与えられるのですが、ここで主は、また新たな契約をアブラハムと結ぼうとされます。アブラムのこれまでを振り返ってみますと、甥のロトがケドルラオメル王たちに拉致されたとき、アブラムは見事にロトを救出し、財産をも取り返しました。しかし、その一方で、ききんでエジプトに下ったときには、自分の身を守ろうとして、妻サライを自分の妹だと偽ると言う不可解な行動をしました。また、16章では、妻サライの勧めで、女奴隷ハガルを妻として受け入れ、イシュマエルが生まれます。アブラムには素晴らしい一面もありますが、芳しくないところもあります。しかし、そういうアブラムに対して、主が目を留め続けておられます。主はアブラムに全き者であるために「わたしの前を歩め」と言っておられます。詩篇16:8には「私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。今日(こんにち)、イエス・キリストは別名でインマヌエル(主は私たちと共におられる)と呼ばれています。大事なことは、イエス様がともにおられることです。聖霊様がともにおられるならば大丈夫、ゆるぐことはありません。

2.「あなたの名はアブラハムとなる」…この章では、アブラムだけではなく、サライも改名します。アブラム(尊い父)は、アブラハム(多くの国民の父)に、サライはサラになります。彼女の場合は旧名も新名も「王女、高貴な女性」という意味で、ほぼ変わりがありません。さあ、なぜここで二人は改名させられたのでしょうか。はっきりしたことは正直、分かりませんが、たぶん意識改革ということではないかと思います。ある青年が教会で自分の「証し」をしました。彼は「全てを失い、自分の人生は終わったと思いました。しかし、そのとき、イエス・キリストのために生きようと決めた瞬間に全てが変わった」のだそうです。「自分という土台の上にイエス・キリストを信じる信仰をくっつけて歩む」のではなく、「イエス・キリストを土台として、このキリストのために生きる人生」でありたいと思います。   

3.「割礼を受けなさい」…この章では、主はアブラムと新たな契約を結ぼうとしています。この契約によって「アブラハムは多くの国民の父となる」ということです。また、アブラハムがすべきことは「割礼を受ける」ということです。このとき、アブラハムだけではなく、彼の家で生まれたしもべたち、また外国人の奴隷たち、そしてイシュマエルも割礼を受けます。この割礼の儀は今日(こんにち)までも続けられ、ユダヤ人は生まれて八日目に割礼を受け、自分がイシュマエルの子孫であるとする人は13才で割礼を受けるのだそうです。旧約時代に主が定められたことであり、その時は、そのようにすべきだったことは間違いないでしょう。しかし、ガラテヤ5:6には「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」とあります。少なくとも、異邦人クリスチャンにとっては、割礼は不要です。それよりも、もっと大事なことは「愛によって働く信仰」です。さらにガラテヤ6:15には「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」とあります。こちらは「新しい創造が大事」だと言っています。「新しい創造」とは、Ⅱコリント5:17の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というみことばと関連がありそうです。人が救いに与ること、またキリストに似た者となっていくことではないでしょうか。そうです。私たちは、そこのところに焦点を定めて進んでいきましょう。

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