●2025年3月9日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記18:1~33からです。「主に不可能なことがあろうか」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「主に不可能なことはない」…アブラハムの所に三人のの一行が現われます。彼らがアブラハムの天幕に近づいたとき、アブラハムはその一行が特別な方たちであるという事を直感的に悟ったのでしょう。彼はその一行を招き入れ、もてなします。落ち着いたところで、そのうちの一人が、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子ができている」と言いますと、天幕の入口で聞いていたサラは笑って、聞いたことを信じることができませんでした。それを知った主はサラに「なぜ笑うのか。主にとって不可能なことがあろうか。」と言いますと、サラは恐ろしくなり、「私は笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言います。この場面は、ルカの福音書1章で、マリヤと主の使いガブリエルとの会話を思い出します。処女マリヤが男の子を産むと聞いて、マリヤが戸惑っているとガブリエルが「主にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)」と言うと、そこでマリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりに、この身になりますように」と答えます。マリヤの主に対する信仰姿勢は、素直で従順です。私たちも、不可能を可能にする全能の主を素直に信じて、この方に期待してまいりましょう。

2.「アブラハムに隠しておくべきだろうか」…その後、主の一行は、ソドムを見下ろす方へ向かって行きます。アブラハムも、見送りのために一緒に歩いて行きます。そのとき主は17節で「わたしがしようとしていることをアブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えておられました。アブラハムは大いなる強い国民となり、地の全ての国々は彼によって祝福され、主の道を守り、正義と公義を行なうために主に選ばれました。つまり、どういうことかと言いますと、今、ソドムとゴモラがきわめて重い罪にゆえに滅ぼされようとしているのに、主の道を守り、正義と公正を行なうべき神の民であるアブラハムは、滅ぼされようとする人々のために執り成すべきであるとするならば、そのことをアブラハムに隠しておくべきではない、ということです。今日の私たちクリスチャンの立場と重なります。ヘブル6:1aには「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。~」とあります。初歩の教えにとどまっていないで、自分の生涯を神におささげし、献身者として成熟を目ざして進み、滅びようとしている人々のために立ち上がるべきであるということです。  

3.「アブラハムの執り成し」…アブラハムは、ソドムの方へ進んで行った主の一行の前に立ち、近づいて「あなたは本当に、正しい者と悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか」と申し上げます。そして「50人の正しい人がいたら滅ぼすのですか」と言うと、主は「50人の正しい者を見つけたら赦そう」と言われます。正しい人50人いないかもしれないと思ったアブラハムは「45人では」、次に「40人では」、さらに「30人」、「20人」と人数を下げていきますが、主は「滅ぼさない」と言われます。そしてアブラハムは最後にもう一度、「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」と言いますと、主は「滅ぼすまい。その十人のために。」と仰せられます。しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされ、その正しい者10人もいなかったということです。今日、神に選ばれ、召されたクリスチャンは、自分自身の救いの達成とともに、回りの人々の救いのために執り成す使命が与えられています。祈りを通し、また福音宣教を通して、神のみこころを求めて行動してまいりましょう。ピリピ2:13~14には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」とあります。神のみこころを求めて祈り、そして、そのみこころのままに行動していきましょう。

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