創世記22:1~24からです。「イサクをささげなさい」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「試練」…アブラハムは、妻サラとの間に待望の約束の子イサクが生まれ、その心は喜びに溢れていたことでしょう。そんなとき、主はアブラハムに試練を負わせます。「モリヤの山に行き、そこで一人子イサクをささげなさい」と言われるのです。アブラハムが信じる主なる神も、こんにち私たちが信じる主も全く同じ主です。その方は「まことに、【主】のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。(詩篇33:4)」と言われていて、主の為さることに誤りはありません。しかし、このアブラハムに対する試練については、誰もすんなり納得できるものではないのではありませんか。強いて言うなら、アブラハムの心の中に、全知全能の主よりもイサクへの思いのほうが上回っていたのかもしれません。たぶん、アブラハムもそのことを感じていたのか、主に対して何も抗議することなく、二人の若者を伴い、イサクを連れてモリヤに向かって行くのです。マタイ6:33には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。何はともあれ、私たちも主を第一にして歩んでまいりましょう。
2.「主の山の上には備えがある」…ヘブル11:19には「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と、アブラハムの心の内を記しています。このあたりが、アブラハムが信仰の人として評価されている所以でしょう。彼がイサクをほふろうとしたとき、主の使いがそれを止めました。すると、角を藪に引っ掛けている雄羊がいて、アブラハムはその雄羊を取って全焼のいけにえとして主にささげたのです。正に、主の山の上には備えがありました。2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後から今日に至るまで、筆者にとっては「主の山の上の備え」を経験してきました。震災直後の小学校の避難所、その後の福室のアパート、新田の元喫茶店と青葉区の住居、そして、現在の教会と住宅です。その間には断られたりとか、購入できなかったりとかありましたが、今考えると、却って、あのとき断られて良かったというようなことが再三ありました。主が今日まで最善の備えをして下さったのです。
3.「あなたを大いに祝福し」…16節で、主の使いがアブラハムに主のみ告げとして「あなたはひとり子を惜しまなかったから、あなたの子孫は海辺の砂のように増え、敵の門を勝ち取り、地の全ての国々はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる。(要約)」と言っています。こののち、アブラハムの子孫によってイスラエル民族が起こり、建国され、ダビデ、ソロモン時代には相当の権勢を現わしますが、それは一時的でした。そのことばが完全に成就することになったのは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として世に来られた神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活による救いが完成してからのことです。新約聖書の使徒の働きでは、当初、パウロはユダヤ教の熱心な信者としてキリスト者を迫害していました。そのキリスト者をひっ捕らえるためにエルサレムからダマスコに行く途上、聖霊なる主(イエス・キリスト)にお会いし自らがキリストの証人に任命されます。そして「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)」と言われます。正にパウロの世界宣教から始まり、こんにち、全ての国々の人々は、イエス・キリストの御名によって敵(悪魔)の門を勝ち取り、永遠のいのちの祝福を受けるのです。