創世記27:1~46からです。イサクが結果的に長男エサウではなく、弟ヤコブに長子の特権の祝福を与える記事です。「それぞれの思惑」という題でポイント三つ上げていきます。
1.「それぞれの思惑」…この章の登場人物は、イサク、リベカ、ヤコブ、エサウの四人です。この四人がそれぞれ何を思っていたかを見て行きましょう。まずイサクです。彼は、自分の死期が近づいていることを覚え、アブラハムから受けついだ長子の特権の祝福をエサウに授けようとしていました。それは、主の示しとか、何か深い意図に基づいているということでもなかったようです。次にリベカです。彼女は、エサウがめとった二人のヘテ人の嫁たちを嫌っていたようです。その理由もあって、どうしてもヤコブに長子の特権の祝福を受けさせたいと願っていました。次はヤコブです。彼は母リベカから、エサウに変装してイサクからの祝福を横取りするように言われます。しかし、さすがに一旦は断りましたが、母の強い要望により仕方なくそれに従います。最後にエサウです。彼は以前、ヤコブが料理した赤い煮物と引き換えに弟ヤコブに長子の特権を売り渡したはずです。しかし、そんな約束は無視し、父イサクに言われた通りに、長子の特権の祝福を受けようと猟に出かけます。第一ポイントのまとめです。「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。(箴言19:21)」
2.「四人はどうあるべきだったのか?」…詩篇37:23には「 人の歩みは【主】によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」とあります。過ぎ去った時間をやり直すことはできませんが、あえて、ここで、四人が主のみこころの道を進むとしたら、どうあるべきだったのかを考えてみましょう。まずイサクです。彼は、双子の兄弟エサウとヤコブ、この二人の内、どちらが祝福を受け継ぐべきか、主に伺い、求め、思慮深く結論を出すべきではなかったのではないでしょうか。今年6月15日は父の日です。エペソ6:4には「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。エサウとヤコブの父として、神のことば、主の教えによって教育すべきであったでしょう。リベカです。「祝福の横取り」などという不実な方法ではなく、堂々と、夫イサクに相談するとか、あとは主に委ねるべきではなかったのではないでしょうか。ヤコブです。母リベカの横取り作戦の片棒を担ぐのではなく、ここは、母を説得し、横取りを思いとどまらせ、「主のみこころなら、その祝福は私のところに来るでしょう。それを待ちましょう。」と言うべきでした。エサウです。彼が誠実な人物なら、「その祝福はかつて弟に売り渡しています」と父に言い、むしろ、兄として弟ヤコブに祝福を譲り、弟を応援するくらいの品格を見せても良かったでしょう。Ⅰサムエル記で出て来るダビデを支えたヨナタンのようであったら、と思います。
3.「祝福を軽んじたエサウ」…イサク、リベカ、ヤコブ、エサウの四人家族うち、エサウだけ何か違うところ、足りない何かを聖書読者は感じます。それは何でしょう。「長子の特権に関わる祝福に対する姿勢」または「全知全能の神に対する信仰」でしょう。エサウは、取ってきた獲物を料理してイサクの所に行って祝福を受けようとしたとき、イサクは弟ヤコブが祝福を横取りしたことに気づきます。エサウは「お父さん。祝福は一つしかないのですか」と嘆き、悲しみます。この箇所はマタイ25:1~13の花婿を出迎える10人の娘のうち、愚かな5人の娘たちを思い浮かべます。灯だけで、油を用意していなかった5人の愚かな娘たちは祝宴の会場に入れてもらえず、「ご主人様。開けてください。」と願うのですが、彼は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言います。油とは、聖霊様のことと言えます。Ⅰテサロニケ5:19には「御霊を消してはなりません」とあります。私たちは、その御霊を消さないために、イエス・キリストがおられる教会に集まり、みことばと祈りに励みましょう。