●2025年10月19日(日)礼拝メッセージ要旨         

創世記43:1~34からです。ヤコブの家族、後のイスラエル民族はエジプトに移住して、そこで約400年滞在します。そこに向かっていく途中経過の一幕です。「兄たち再びエジプトへ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「私(ユダ)に責任を負わせてください」…穀物が底をつき、父ヤコブは息子たちに再びエジプトへ行って穀物を買ってきてくれ、と言います。ユダは弟のベニヤミンを連れて行かなければそれは出来ない、と言いますが、ヤコブはベニヤミンだけは手放したくありません。そこで、ユダが「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」と言います。ヨセフ物語は言うまでもなくヨセフが主役ですが、このユダの犠牲的、献身的な言動は随所に見られ、ユダが影の主役であるとも言えるでしょう。1940年7~8月、リトアニアの領事館に赴任していた杉原千畝氏は人道的立場からユダヤ人に2139枚のビザを発給し、約6000人のユダヤ人を助けました。また現在、アメリカ大統領のトランプさんは、何はともあれイスラエル対ハマスの戦争終結に尽力しました。そしてロシア対ウクライナの戦争終結のためにも行動しています。自己の保身とか欲得のためではなく、世のため人のために自分を犠牲にして行動する姿は、まさしく、救い主イエス・キリストのうちに見られるものです。

2.「父イスラエルの決断」…ユダが「私に責任を負わせてください」と言ったことにより、父イスラエルは心を動かされたのでしょう。カナンの地の名産品を携え、前回、袋に入っていた銀を返し、ベニヤミンとシメオンを連れて帰ってきなさいと、急に人が変わったような発言をするようになります。創世記43:14では「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。~私も失うときには、失うのだ。」と言っています。ここでちょっと興味深いのは、創世記42章では「父ヤコブ」と記されているのですが、この43章では「父イスラエル」となっています。ヤコブは「押しのける者」、イスラエルは「神は戦う」の意味です。つまり、人間的な肉の考えに縛られて行動するのではなく、全知全能の神の力に委ねて神のみこころに従って行動するという生き方が求められているということです。使徒の働き20章で、パウロは小アジアのミレトでエペソの長老たちを呼んで最後のメッセージをしています。その中で「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20:24)」と語っています。

3.「兄たち、ヨセフの家に行く」…イスラエルの息子たちは一番下の弟ベニヤミンを伴い再びエジプトに行きます。彼らはヨセフの家に連れて行かれるので、恐れますが、ヨセフの家の管理者は、安心するようにと言い、先の銀もちゃんと受け取ったと言います。そしてヨセフと共に少し離れて別々の食事が提供されます。ここでヨセフと兄たちの心境を探ってみましょう。兄たちとしては穀物をしっかりと購入し、ベニヤミンとシメオンを連れて無事に父の元に帰ることが出来ればそれで十分です。一方、ヨセフとしては、そうはいきません。今やエジプトの権力者になっているものの、兄たちには酷く苦しめられました。それを簡単に過去のものとして水に流して終わりにするなどということは出来なかったのでしょう。ヘブル2:10には「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。今日(こんにち)、私たちはイエス・キリストの救いの中にあるなら、既に地上的な栄光の中にありますが、さらに永遠の天的な栄光の中に入れられます。それはキリストの十字架の救い、すなわち多くの苦しみを通して完成されたものであって、私たちはそのことを決してないがしろにすべきではありません。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です