出エジプト記4:1~17から「あなたの手にあるそれは何か」という題で、ポイント2つで見て行きましょう。
1.「それ(杖)を地に投げよ(1~9節)」…モーセはエジプトで苦しみを受けているイスラエル人を連れ出して救う、という実に大掛かりな働きをしようとしている人です。結果的にはそれを成し遂げた偉大な人物とも言えます。しかし、彼は驚くほど慎重派であり心配性な人物でもあったようです。主がモーセに「エジプトに行ってイスラエルの民を連れ出しなさい」と命じているのですが、モーセは3章では11節、13節、4章では1節、10節、13節の計5回も不安を訴えています。この4章1節では、モーセは「『主はあなたに現われなかった』と言われるでしょう」と、自分には霊的な権威が無いという不安を訴えます。そこで主はモーセに、持っている杖を投げよと言われます。すると杖は蛇になります。尾を掴めと言われ、その通りにすると再び杖になります。それだけではなく、結果的にモーセはエジプトで杖のしるし以外に10のしるしを行ないます。さて、ここで気になるのはモーセよりも、この聖書の記事を読んでいる私たちです。最初から聖書を受け入れない人にとっては「杖が蛇になるなんて?!」と、聖書を否定する根拠にするでしょう。「クリスチャンである」と自他ともに認める人々の中にも、こういった聖書に記されている奇跡を素直に受け入れない人々もいるようです。例えば、聖書を素直に信じる人々は、地球の年齢を約6000年としています。一方、無神論、進化論者は46億年としています。一般的には何となく後者が支持されています。それは無神論の立場から宇宙や地球の存在、そして私たち人間の存在を説明するためには、とてつもなく長ーい年月を要すると考えるからです。クリスチャンと言われる人々の中にも、聖書よりもこの世の46億年を支持して自分たちを知識人であると勘違いしている人々もいます。しかし、アイザック・ニュートン、ヨハネス・ケプラーなどは地球の年齢を約6000年としています。よく考えてください。この世界を創造した真の神が杖を蛇に変えても、また元通りにしても何の不思議はありません。聖書は、創造主である全き神のことばです。聖書のことばを素直に信じ受け入れることによって真のいのちを得るのです。ピリピ2:16です。「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
2.「私はことばの人ではありません(10~17節)」…モーセは、今度は「私はことばの人ではありません」と言います。すると主は「だれが人に口をつけたのか。わたし主ではないか」と仰せられます。それでもモーセは「ああ主よ。どうか他の人を遣わしてください。」と、くいさがります。主はモーセの願いを受け入れ、兄のアロンと一緒に行動するようにと言われます。アロンが語り、モーセは杖を手に取ってしるしを行なうというわけです。モーセとしては結果的に兄と二人で行動出来て心強かったかもしれません。私たちはどうでしょう。モーセのように杖は持っていないかと思いますが、天の神様から多くのものを与えられているのではないでしょうか。よく考えてみれば、それぞれ、その人にだけ与えられている独特な賜物もいただいているものです。最後はⅠペテロ4:7~11です。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」