●2026年3月22日(日)礼拝メッセージ要旨    

出エジプト記7:1~25からです。「しるしと不思議の始まり」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「わたしの命じることをみな告げよ(1~7節)」…前章の6章で、モーセは主から「パロの所に行ってイスラエル人を出て行かせるように言え」という命令に対して「私は口下手です」と消極的な姿勢を崩しませんでした。しかし、この7章に入り、モーセは兄アロンと共にパロの所へ行って、主の命じられた通りに忠実に行動しています。このとき、モーセは80才、アロンは83才でした。モーセの生涯は40才まではエジプトの王女の息子として過ごしました。40才から80才まではミデヤンで羊飼いとして過ごしました。そして80才からは同胞イスラエル人の出エジプトのため、また神の山ホレブで十戒と律法を授けられます。ですから、主がモーセに用意していた本来の使命は80才からなのでした。つまり、モーセは80才までは、その準備段階だったとも言えるでしょう。それは、こんにちの私たちにも言えることではありませんか。一般的に多くの人々は60代で定年退職を迎えるものですが、神の選びの民にとっては70代、80代でも、まだまだこれからです。

2.「杖を取ってパロの前に投げよ(8~13節)」…パロの所へ行ったモーセとアロンですが、アロンが自分の杖をパロの前に投げると杖は蛇になりました。そこでパロは知恵ある者と呪術者を呼び寄せ、彼らもその秘術を使って同じことをしました。彼らがめいめい自分の杖を投げると蛇になりました。しかし、アロンの杖は彼らの杖を飲み込んでしまいました。この世の知恵や秘術を使っても全能の神、主に勝つことはできません。先日、筆者は、ジェネシスジャパン(創造科学の啓蒙活動)会長・宇佐神実氏の講演会に参加しました。この世は無神論、進化論一辺倒で、聖書の創造論は多くの人々に無視されています。ここでは、宇佐神氏の講演から一話だけ紹介します。ある家庭の食事時に、お母さんが料理をし、それをテーブルにきれいに並べました。家族がテーブルを囲んで、さあ食べようとしたとき、お父さんが「この料理は自然に偶然にこのテーブルに置かれたのだよ」と言ったとしたら、お母さんは何て思うでしょうか。無神論、進化論というのは、それと同じことをしているのです。全知全能の創造主がおられて、その方によって全ての被造物は創造されているのに、その方を無視することは実に愚かなことです。ローマ1:20には「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。また、イザヤ55:9には「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たち人間は創造主である真の神を恐れ、この方の前にへりくだるべきです。

3.「ナイルの水は血に変わる(14~25節))」…次に、モーセとアロンはナイル川の岸に出てきたパロを迎え、アロンの杖でナイルの水を打つと、ことごとく水は血に変わり、エジプト人は水を飲むことが出来ません。このしるしと不思議を初めとして、最後はエジプト人の初子が打たれたとき、イスラエル人の家の柱とかもいには羊の血が塗ってあり、神の怒りが過ぎ越すというしるしと不思議が起こります。これは過ぎ越しの祭りの原型となり、イエス・キリストの十字架による救いの予表でもあります。また、ナイルの水が血に変わる不思議はⅠヨハネ5:6の「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。」のみことばと関連するかもしれません。つまり、水は人に命を与える存在(源)であり、血は与えられた命そのものです。イエス・キリストは人に命を与える神ご自身であり、その命を与えられた人と同じ姿で世に来られ、十字架の死と復活によって救いを成し遂げられ、その後、御霊によって信じる者に内住されました。

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