出エジプト記14:1~31からです。聖書の記事の中でも最も劇的な章の一つです。「海の真ん中の乾いた地を行く」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「追いかけて来たエジプト軍」…エジプトから連れ出され、雲の柱と火の柱に先導されていたイスラエル人でしたが、ここで主は、モーセに「イスラエル人に引き返すように言え」と不思議なことを言っています。さらに「わたしはパロの心をかたくなにし、イスラエル人のあとを追えば、わたしは栄光を現わす」という内容のことを付け加えます。つまり、それはイスラエル人にとっては試練となります。その試練を通して、そこに主の栄光が現われるということです。新約聖書のヨハネの福音書9:1~3で、イエス様が道の途中で生まれつきの盲人を見られたとき、弟子たちはイエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか?」と質問しています。するとイエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と言われ、結局、その盲人の目が見えるように導かれます。今日(こんにち)、私たちの人生を振り返るとき、何の問題もなく順風満帆の人は一人もいません。むしろすべての人が問題を抱えながら生きています。しかし、その問題を通して、却ってそこに主の栄光が現われることがあるのではないでしょうか。
2.「主の救いを見よ」…イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト軍が自分たちを追っかけて来て、後に迫っているではありませんか。そこで民はモーセに対して「エジプトに墓が無いのであなたは私たちをこの荒野で死なせるのですか?」と抗議します。するとモーセは「恐れてはいけない。しっかり立って、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」と言います。結局その後、海の乾いた地を進ませると言う大きな奇跡を見させるのですが、それだけにとどまらず、19~20節では、民を先導していた雲の柱が民の後ろに移って、真っ暗な雲となってエジプト軍がイスラエル人に近づけないようにされています。「歌いつつ歩まん」という聖歌があります。折り返しは「歌いつつ歩まん ハレルヤハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」と歌います。後ろから迫って来たエジプト軍を見て恐れ、モーセに呟いたイスラエル人のようではなく、私たちは主を信頼し、主を賛美しつつ進んで行きましょう。
3.「海の真ん中の乾いた地を歩いた」…モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされました。そこでイスラエル人は、乾いた地を進んで行きました。水は彼らのために右と左で壁となりました。物理的な常識ではあり得ないことが起こりました。全知全能の神にとって不可能なことは一つもありません。さて、エジプト軍も後を追って乾いた地を進んで行こうとするのですが、主が彼らの行く手をかき乱され、戦車の車輪が外れ、進むのを困難にされます。それでエジプト人たちは、主がイスラエル人たちのために戦っておられるということに気づき、逃げようとするのですが、そのときモーセが再び海の上に手を伸ばすと、海が元の状態に戻り、エジプト軍は全滅することになるのです。新約聖書ローマ人の手紙8:37には「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とある通りです。先日、筆者はマルコの福音書16章を読みました。特に15~18節の「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』」という箇所に目が留まりました。この記事は、世の一般常識では素直に受け入れ難いでしょう。しかし、私たちは、聖書のみことばの原点に立って行かねばならないということを改めて思わされました。