召天者記念礼拝ということで、Ⅰコリント15:50~58から「死は勝利にのまれた」という題でポイント3つ上げていきます。
1.「血肉のからだは神の国を相続できない」…旧約聖書の最初には「 初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)」とあります。創造主である全知全能の神様が、この宇宙と世界を創造し、そこに私たち人間を住まわせてくださっています。私たちは、この目には見えないけれども、全能の方によって、今、この時、生かされて生きているのです。ある人は「いいえ。私は自分で生きています。自分の力で歩き、自分で食事をして生きています。」と言われるかもしれません。それは大きな勘違いです。歩く力が与えられているので歩くことが出来、食欲も与えられているから食べることができるのです。創造主によって形づくられ、生かされている私たち人間ですが、そのまま死んで行くとすれば行き着く先は永遠の滅びです。血肉のからだは神の国を相続できません。ローマ3:10には「義人はいない。一人もいない。」とあり、ローマ3:23には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず」とあります。現時点での世界人口は約83億人です。83億人、正に一人残らず聖なる神の前に罪人です。しかし、朽ちるもの死ぬものが、朽ちないもの不死を着るならば、つまり、イエス・キリストの内にあるなら、終わりのラッパが鳴るときに死者は朽ちないものによみがえり、一瞬のうちに変えられるのです。
2.「死は勝利にのまれた」…死ぬものが不死を着るとき「死は勝利に飲まれた」と記されているみことばが実現します。今から、およそ2026年前、聖なる神のひとり子イエス・キリストが人としてこの世に生まれられました。そしてその約33年後、イエス様はローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに十字架に架けられ、苦しみを受け死なれます。そして、墓に葬られますが、死を打ち破り復活し、墓を出て40日間弟子たちの前に復活の姿を現わされます。そして天の父なる神様のもとに帰られ、さらにその10日後、すなわち復活から50日目に弟子たち120名ほどが祈っているところに聖霊様となって降られるのです。今からちょうど50年前、1976年4月26日のことです。筆者は、キリスト教会で行なわれた母親の葬儀に参列しました。そのとき筆者は未信者でした。葬儀のメッセージでは、私(筆者)の母はイエス・キリストを信じたので永遠のいのちを持ったということが語られたようです。その日の夕方、私はその母のお骨を火葬場から一時的に自宅に持って帰りました。私が死んだら、自分の魂がどうなるかを考えました。私に永遠のいのちの保証はありません。心が苦しくなりました。しばらくの時間を経て、私は降参しました。「イエス様。信じます。」と心の中で祈った瞬間、苦しみは完全に消え、大きな喜びと安心感が入ってきたのです。それ以来、私は教会に通うようになり、同年6月6日にバプテスマ(洗礼)を受けました。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」とあります。正にキリストを着て、喜びと平安と勝利が与えられたのでした。
3.「いつも主のわざに励みなさい」…イエス・キリストを信じたら、次は、堅く立って動かされることなく、歩んでいきたいと思います。特に、クリスチャンは日曜日の礼拝出席に全てがかかっていると言っても過言ではありません。イザヤ26:3には「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」とあります。主を信頼し、従ってまいりましょう。もちろん、人間は元々罪人であり、弱い者です。だからこそ、大事なことは「祈り」です。主を信頼し、主に祈り求めつつ、いつも主のわざに励むことが出来ますように。