マタイ5~7章は「山上の垂訓」と言われているイエス様のおことばです。主は、ガリラヤ湖の北西岸ではないかと言われている山で、群衆と弟子たちに語られました。マタイ5:1~16から「幸いな人」という題で一節ずつ見ていきましょう。
「八つの幸い」…まず3節「心の貧しい者は幸いです」と言われました。このときの「心」は、英語聖書ではspirit、ギリシャ語原語でも「霊」の意味です。ただ、日本語で「霊の貧しい人」というのは伝わりにくいので「心の貧しい人」と翻訳されたと思われます。意訳するとすれば「自分の霊的な乏しさを自覚している人は幸いである」となるでしょう。次に4節「悲しむ者は幸い」です。案外、悲しみ、苦しみのあとに神様の慰めがあるものではないでしょうか。5節「柔和な者は幸い」です。尖って生きるよりは柔和に生きた方が断然うまくいくでしょう。6節「義に飢えかわく者は幸い」です。箴言21:21には「正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。」とあります。7節「あわれみ深い者は幸い」です。人間は弱いものです。互いに相手を思い遣り、助け合っていきましょう。8節「心のきよい者は幸いです」の「心」は英語の聖書ではheart、ギリシャ語原語も同じで、心臓や人格を意味します。「その人は神を見るから」とありますが、「真の神に出会う、神を知る」ということでしょう。9節「平和をつくる者は幸い」です。真の平和は救い主イエス・キリストを信じる信仰によって得られます。エペソ6:15には「足には平和の福音の備えをはきなさい。」とあります。10節には「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあります。八つの幸いのうち「天のみ国はその人のものだから」とされているのは最初の3節とこの最後の10節です。すなわち、「心の貧しさ」、自分の足りなさを自覚して謙虚に生きる人、そして、たとい義のために迫害を受けていたとしても、その人は天のいのちの書に名が記されているという最大の恵みがあるのです。
「喜びおどりなさい」…11~12節です。イエス様を信じる信仰のゆえに、ののしられたり、迫害されていたとしても「喜びおどりなさい」と言われています。使徒16章で、パウロは、自分たちの宣教活動を実質的に妨げている占いの霊につかれた女性に対して「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言うと、霊が出て行きました。そのため、商売が出来なくなった彼女の主人たちはパウロたちを訴え、パウロとシラスはピリピの牢獄に入れられます。しかし、彼らは獄舎の中で神に祈りつつ賛美の歌を歌いました。すると大地震が起こって、牢の扉は開き、鎖は解けてしまいます。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げたと思い、自害しようとしました。そこでパウロは「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と言うと、看守は「先生方。救われるためには何をしなければなりませんか。」と言うと、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言います。その後、その看守と家族は全員イエス様を信じてバプテスマを受けるのです。
「地の塩、世の光」…13節です。塩は、料理においても重要な役割を担っています。信仰的、霊的な意味において、キリスト者は塩気を保ち、世の腐敗をくい止める役目を担っています。14~16節、「あなたがたは世界の光です。」とあり、家の中の明かりは片隅にではなく、部屋の中全体を照らすところに置くべきです。そのように、人々の前で光を輝かせることが期待されています。大阪の某牧師さんは70才になったとき、気力を失いました。そこで「主よ。私を天に召すか、気力を与えてくださるかどちらかにしてください。」と祈りました。すると、その牧師さんに天からの力が注がれ、今もバリバリお元気で大活躍しておられます。私たちも主に祈り求め、聖霊充満されて「地の塩、世の光」とならせていただきましょう。