●9月22日の礼拝メッセージ要旨(マタイ23:13~28)

 イエス様は、パリサイ人や律法学者らに対して「わざわいだ」と何回か言っています。この「わざわいだ」は、ギリシャ語原語で感動詞、あるいは間投詞で、嘆きをあらわす「ああ」というような言葉のようです。13~28節まで、ポイントを6つあげて学びましょう。
   ①天の御国をさえぎる…ジョン・バンヤンが著した「天路歴程」は、非常に有名で、天国を目指してこの地上の旅を続ける私たち信仰者を励ましてくれます。この書のように、読んだ人を天国へ近づけるものもあれば、逆に遠ざけるものも無数にあるでしょう。パリサイ人らも人々を天国から遠ざけていましたが、私たちは、人々を天国へ近づける。また、天国の入り口を開けておく、そんな良い働きをしたいものです。
   ②見栄の祈り…パリサイ人らは、やもめの家を食いつぶしていましたが、使徒6章で、初代教会では弱い立場のやもめたちを助けていました。弱者に手を差し伸べるのは今日の教会の使命でもあります。また、祈りは見栄でするものではありません。基本的に奥まった部屋で、隠れた所におられる天の父に祈るのです。
   ③改宗者…イエス様でさえも、12弟子のうちの一人は反逆者となりましたが、初代教会誕生後、他の弟子たちは豊かに用いられ、教会が建て上げられていきました。私たちも、私たちと関わる人たちが救われ、その人が成長し、実を結んだらどんなに幸いでしょう。そのためには私たち自身が聖霊充満されることです。
   ④誓い…パリサイ人らは誓いについて勝手な理屈で間違った教えを伝えていました。何を指して誓っても誓いは誓いです。ヤコブは誓いを重んじ、エサウは誓いを軽んじました。故に、長子の権利は結果的にヤコブに移りました。
   ⑤十分の一のささげもの…パリサイ人らは、十分の一のささげものについて実に細かく無意味な規定を定めていました。本末転倒とはこのことです。実は、私たちも生活の中で、どうでもよいようなことを優先し、大事なことを後回しにしてしまうようなこともあるかもしれません。この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころを優先(ローマ12:2)しましょう。
   ⑥内側と外側…サムエルがエッサイの子8人のうちから次の王として油を注ごうとしていたとき、主は「人はうわべを見るが、主は心を見る(第一サムエル16:7)」と言われました。ダビデは信仰の人であり、内なる人が立派で、主に選ばれ、用いられたのです。

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