●2026年1月25日(日)礼拝メッセージ要旨    

 出エジプト記に入りました。1:1~22から「エジプトでの圧制」という題で今回はポイント2つ上げます。

1.「苦役を強いられる(1~14節)」…あの七年の豊作と七年の飢饉のとき、エジプトはヨセフのゆえに大いに富を増し加えました。そのヨセフが生きていた頃は、エジプト人もイスラエル人に対しては何も出来なかったでしょう。しかし、ヨセフが死に、ヨセフのことを知らないエジプト王が立てられると状況は変わって来ました。しかもイスラエルは多産であり、人口が増えてくると、元々の住民であるエジプト人たちにとっては脅威に感じたことでしょう。例えば、日本のプロスポーツの世界もそうですが、外国人枠という制度を設けて対策をしています。それでも、大相撲などでは外国人力士の活躍が際立っています。さて、エジプトです。イスラエル人の勢いを抑えるため、エジプト王はイスラエル人に対して苦役を課します。しかし、12節には「苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった」とあります。結果的にイスラエル民族がエジプトに寄留していたのは約400年ですが、たぶん、最初の100年間ほどはヨセフのゆえに安泰だったでしょうが、その後の約300年間(推定)は奴隷状態でした。それは、「神の選びの民としての試練の時」となったと思われます。ハミガキで有名なライオンの創業者・小林富次郎氏(1852~1910)は36才のときにクリスチャンとしての洗礼を受けました。才覚に恵まれた人で、石鹸やマッチなどの会社を立ち上げました。マッチの材料である丸太を宮城県石巻で積み上げて置いていたところ、大雨で北上川が氾濫し、丸太が流れ、それが家々に損壊を及ぼしました。小林氏は自分の財産を失い、自然災害で致し方ないことなのですが責任を感じて極度に苦しんでいました。そのとき、牧師さんからもらっていた葉書のみことばヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」を思い出し、そこから、もう一度やり直そうと決意して39才のときに東京に戻り、そこから始まって今のライオン株式会社があるとのことです。

2.「神を恐れた助産婦(15~22節)」…エジプト王は、次の手を打ちます。それはイスラエル人の子が生まれるとき、「男の子なら殺し、女の子なら殺せ」という、とんでもない命令を発しました。しかしヘブル人の助産婦、シフラとプアは、その命令に従うことはありませんでした。王が彼女たちに問い詰めると「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と答えます。しかし、神はこの助産婦たちに良くしてやり、彼女たちの家を栄えさせます。そこでパロ王は22節で「生まれた男の子はみなナイル川に投げ込まなければならない」と命じます。次の出エジプト2章でモーセが登場します。モーセは生まれてから3か月間隠されていましたが、パピルス製のかごに乗せられナイル川に流されたところ、パロの娘がそれを見つけて引き取ったのです。それゆえ、王家の子として育てられます。ローマ人への手紙11章33節には「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」とあります。それらの背後に天地を創造した全能の神の御手があることは間違いありません。イエス・キリストの名によって、同じ全能の神を信じる今日のクリスチャンにとっても、不思議な神の導きの中にあり、日々、様々な霊的、信仰的な戦いの中に置かれていると言えるでしょう。Ⅱコリント10:4には「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあります。クリスチャンには「祈りとみことば(聖書)」があります。いつも、主に心を向け、謙虚に誠実に歩み、主を待ち望みつつ、日々を過ごしてまいりましょう。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:6)」

●2026年1月18日(日)礼拝メッセージ要旨              

創世記の章、50章1~26節からです。ヤコブの葬儀が行われ、その後、ヨセフも死にます。「ヤコブの葬儀」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブの葬儀(1~14節)」…ヤコブが死に、ヨセフは生前の父の要望通り、遺体を先祖と同じカナンの地に埋葬します。喪主であるヨセフは、まずパロ王の承諾を得てから、エジプトの家臣やパロの家の長老たちを伴い、さらにエジプトの戦車と騎兵も同行します。それを見たカナンの住民は「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言っています。現代の日本では、数年前まで葬儀というと、人が多く集まるというイメージがありましたが、新型コロナウィルスの騒動以後、「家族葬」とか「小さなお葬式」、または葬式をしないでいきなり火葬するケースもよく聞くようになりました。却って、コロナ騒動の影響で形よりも実質を重んじるようになったとも言えます。最近は「終活」という言葉をよく聞きます。確かに、自分が死んだあとのことを整えるということも疎かにできませんが、クリスチャンはイエス・キリストの救いによる永遠の希望が与えられているのですから、むしろ、この永遠の希望を証しすることに心を向けるべきでしょう。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」

2.「仕返しの心配(15~21節)」…父ヤコブが死んでいなくなり、兄たちはヨセフが自分たちに仕返しをするのではないかと心配になりました。彼らはヨセフの所に行き、父ヤコブが生前「ヨセフに対して兄たちは悪いことをしたが赦してやってほしい」と言っていたという言葉を伝えて、改めて、かつてヨセフを奴隷として売り飛ばした悪事に対しての赦しを乞いました。ヨセフは「恐れることはありません。あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとされました」と彼らを赦しています。詩篇84:6には「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」とあります。誰の人生においても「涙の谷」があることでしょう。でも、神はそれを泉のわく所としてくださることを信じる信仰を持ちましょう。また、人を赦すと自分も神に赦され、赦さないと、自分も神に赦されません(マタイ6:14~15参照)。人を赦し、人を祝福し、それによって、自分も赦され、祝福を受けるのです。

3.「ヨセフの死(22~26節)」…ヤコブは147才で死に、ヨセフは110才で死にます。単純計算ですが、ヨセフは30才でパロに次ぐエジプトの支配者になり、9年目にヤコブ一族がエジプトに移住した時は39才です。その17年後に父ヤコブが死んだ時は56才、父の死後54年生きて、110才で亡くなった計算です。晩年も穏やかに幸せに過ごしたことがうかがえます。ただ、ここで興味深いことは、ヨセフ自身の葬儀のことは記されてはいません。ヨセフも自分の遺体をカナンの地に葬ってほしいと兄弟たちに言っていますが、実際にヨセフの遺骨がカナンの地に埋葬されるのは、その400年ほど後のことになります。ヨシュア記24:32には「イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあるとおりです。つまり、ヨセフは自分の権力と財をもって父ヤコブの荘厳な葬儀をしたものの、自分が死ぬと、急激に彼の権勢はその影響力を失ったのではないかと思われます。世の権力や栄華はほんの一瞬です。私たちは救い主イエス・キリストの永遠の希望に目を留めてまいりましょう。「 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(ダニエル書12:2~3)」

●2026年1月11日(日)礼拝メッセージ要旨 

 創世記49章1~33節からです。臨終を直前にしたヤコブが12人の子たちを集めて預言的祝福(祝福とは言えない内容も含め)を語ります。「ヤコブ、12部族を祝福」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「ルベンからユダまで(1~12節)」…長男ルベンは「水のように奔放」だったと言われています。それは「父の床に上った」からです。つまり、節操が無かったということです。次男、三男のシメオンとレビは、シェケムで虐殺事件を起こしています。それゆえにカナン定着後には両部族とも散らされています。但し、レビ族は祭司職という理由で土地の割り当てがありません。またモーセが出ています。ユダ族は「王権はユダを離れず」と言われ、12部族中で断トツに祝福のことばを受けています。ユダは若いときには芳しくない道を行きましたが、特に、エジプトに二回目の穀物購入に行ったときです。ベニヤミン一人が監禁されかけたとき、ユダが「自分がベニヤミンの身代わりになる」と言っています。そのときエジプトの支配者として応対したヨセフは感極まって自分の素性を明かし、その後、ヤコブ一族は皆でエジプトに移住しています。人の一生を見るとき、子ども時代はもちろん、若い時も欠けが多いものです。もちろん、年を取っても欠けだらけです。それでも、私たちは、聖書のことばに教えられて、祈りつつ、成熟を目ざしていきたいと思います。

2.「ゼブルンからナフタリまで(13~21節)」…ダンとナフタリを取り上げましょう。彼らはラケルの女奴隷ビルハの子です。士師記13~16章でダン族出身の怪力サムソンが出てきます。彼はナジル人(聖別された者の意)として髪を切らずに伸ばしていました。それが怪力の秘訣でした。しかし彼は女性関係にだらしなく、デリラという女性に自分の秘密を打ち明け、とうとうペリシテ人に捕らえられます。最後は、ペリシテ3000人が入った建物の柱に縛り付けられますが、再び髪の毛が伸び、彼の怪力で自分と建物内の3000人と共に死にます。また、ダン族は士師記17章で正義とは言えない行動をしています。一方、ナフタリは21節で「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい小鹿を産む」と言われ、申命記33:23でモーセのことばとして「ナフタリは恵みに満ち足り、【主】の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」と言われています。カナン定着後はガリラヤ湖の西側、キリスト時代のイエス様の宣教の拠点となった地域を得ます。さて、この創世記49:18には前後の脈絡に関係なくポツンと「 【主】よ。私はあなたの救いを待ち望む。」とあります。何はともあれ、私たちは創造主によって形づくられ生かされている被造物に過ぎません。「主の救いを待ち望む」ことは人間にとって最も必要な「持つべき姿勢」と言えます。

3.「ヨセフ、ベニヤミンとヤコブ召天(22~33節)」…ヨセフに対する祝福は恵みに溢れています。この時点でヨセフは既にエジプト第二位の支配者であって、地位においても経済力においても他の兄弟たちとは比べ物にならないほどでした。しかし、ユダが受けたような崇高な次元の祝福ではありません。ベニヤミンは「かみ裂く狼」と言われています。士師記19~21章で、ベニヤミン族はイスラエル民族内での争いを起こしています。イスラエル初代王サウルはベニヤミン族の出です。ダビデが台頭してくると、サウル王はダビデの命を狙います。一方で、サウルの息子ヨナタンはダビデの味方をし、彼ら二人は篤い友情で結ばれていました。それゆえ、サウルとヨナタン亡き後、ダビデはサウル家の人々を粗末に扱いませんでした。12部族に対する預言的祝福を終えて、ヤコブは息を引き取りました。ヤコブ(イスラエル)ほど波瀾に富んだ生涯を送った人は中々いないでしょう。ヤコブのゆえにイスラエル民族があり、そのイスラエル民族を通して救い主イエス・キリストがこの世に来られ、唯一の救いの道を開いてくれました。

●2026年1月4日(日)礼拝メッセージ要旨                

1月1日の元旦礼拝では、箴言18:20~21から「信仰的告白」という題でした。新年最初のこの聖日礼拝も、それと共通する内容になります。ヨシュア記6:1~21から「エリコの城の攻略」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「1×6+7=13」…出エジプト後、モーセが召され、ヨシュアがイスラエルの民を導くようになりました。ヨルダン川東岸から西岸に移動し、ギルガルに宿営して、いよいよカナンの地の最初の町エリコでの戦いに臨もうとしていました。そのとき神は、ヨシュアにエリコの城壁の回りを一日一度回り、それを六日間続け、七日目には七度回るようにと言われました。正に、人間の常識では考えられない戦い方です。でも、ヨシュアは従います。5章13~15節で、ヨシュアの前に主の軍の将が現われ、ヨシュアは主に全面的服従することを確認させられています。時代はBC(紀元前)1400年頃のこと、今から約3400年前のこと、しかも戦争の方法です。しかし、今日、私たちには霊的な戦いがあります。敵は人間でも国でもありません。悪魔とかサタンとか悪霊と呼ばれている存在です。エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とある通りです。次の13節には「神のすべての武具をとりなさい」とあります。そして、14~18節にその七つの神の武具が記されています。①真理の帯、②正義の胸当て、③平和の福音の備え、④信仰の大盾、⑤救いのかぶと、⑥神のことば、そして⑦祈りです。

2.「戦士たちの列の間に七人の祭司たちと契約の箱が」…城壁の回りを合計13度回るのは戦士たちだけではありません。雄羊の角笛を持った七人と祭司と契約の箱が戦士たちの列の間に入って一日一度を六日間、七日目に七度合計で13度回ります。つまり、神の臨在の象徴である契約の箱と神に仕える祭司たちを真ん中にしているのです。今日(こんにち)、この世の一般的な考えでは「この世界は偶然に出来た」と考え、人間の存在目的についても答えを持っていません。しかし、Ⅰコリント8:6には「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」と記されていて、この世界の存在の原因と人間の存在の目的を明確にしています。ですから、私たちは創造主なる真の神と救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、神を第一にして歩んでまいりましょう。

3.「城壁が崩れ落ちた」…ヨシュアはヨシュア記6:17で、城壁の回りをまわり終えて、ときの声を上げて城壁が崩れ落ちたとき、まず「遊女ラハブとその家族を生かしておかなければならない」と命じています。それは、ラハブがイスラエルの斥候二人を追手から匿い、また彼女自身がイスラエルの神を信じ恐れていたからです。それゆえに、マタイ1章のキリストの系図にはラハブの名が記され、あのルツ記のボアズの母となり、ボアズの子オベデ、オベデの子エッサイ、エッサイの子はダビデとなっています。さて、神がヨシュアに告げた通り、合計13度城壁の回りをまわって、祭司の角笛が吹き鳴らされ、民がときの声を上げると、城壁は崩れ落ちました。イエス・キリストはマタイ21:21で「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」と言われました。昔も今も、主のみこころなら、主の許しの下に奇跡は起きるでしょう。私たちは、全能の主を信じ、期待して祈り、主の時を待ち望みましょう。

●2025年12月28日(日)礼拝メッセージ要旨           

 しばらくクリスマス関連の聖書箇所からでしたが、久々に創世記に戻り、創世記48:1~22から「私(ヤコブ)は彼らを祝福しよう」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「カナンの地ルズ(ベテル)で」…ヤコブの召天の日が近づき、その上で病気の知らせがヨセフに届き、ヨセフは二人の子を連れて父が臥せっている所に行きます。ヤコブはヨセフが来たことを聞いて、力をふり絞って床の上に座ります。そしてヤコブはルズ(ベテル)で、主が彼に現われ語られたことをヨセフに語ります。それは、祖父アブラハム、父イサクから受け継いだ主からの約束です。一つは、イスラエル民族は増え一つの国民となること。もう一つはカナンの地が自分たちに与えられるということです。イスラエルの民はエジプトで約400年滞在し、出エジプト時に男だけで60万人となっています。その後、様々な変遷と捕囚や迫害を経て、現在ユダヤ人は1400万人、そのうちイスラエル在住は630万人、アメリカ(USA)には570万人、あとの200万人はフランス、カナダイギリスなどに在住しているとのことです。つまり、全能の主がアブラハムに、そしてヤコブに語られた通りになっています。主が語られたみことばは必ず実現するのです(イザヤ55:10~11参照)。

2.「ヨセフの二人の子」…5節でヤコブは、現代の一般的な感覚からすると、不思議なことを言っています。それは「ヨセフの二人の子エフライムとマナセはルベンとシメオンと同じように、私(ヤコブ)の子とする」というものです。それはヤコブの人間的な思惑ではなく、主のみこころに従ってのことでしょう。出エジプト後、イスラエル人がカナンの地に定着していくとき、ヨセフと祭司職のレビの名は消え、マナセとエフライムが代わりに加わっています。この後、ヤコブは弟エフライムに右手を置いて祈っていますが、後の時代になって、エフライム部族から、モーセの後継者ヨシュアが出ています。そしてイスラエル初代王サウルと二代目王ダビデに油を注いだ預言者サムエルもエフライム部族の出です。但し、ソロモン王のあと、イスラエルは二つの国に分裂しますが、ユダ族の対抗勢力となったのはエフライム部族のヤロブアムでした。ヤロブアムから始まった北イスラエル王国は真の神から離れ偶像礼拝に進み、南ユダ王国より135年も早く、アッシリヤ帝国によってBC721年に滅ぼされました。確かに、エフライム族はリーダー的な存在ではあったのですが、最も肝心な真の神への信仰は失われていったのです。

3.「右手をエフライムの上に」…マナセは「忘れる、忘却」という意味があります。父ヨセフとしては、兄たちからひどい仕打ちを受け、エジプトでは奴隷生活から始まっています。その後、結婚して子が与えられ、過去の嫌なことは忘れようとしたのでしょう。エフライムは「二倍に増える、実り多い」という意味があり、ヨセフは二人目の子に対して二倍の喜びを味わったのでしょう。その子らの祖父であるヤコブは、彼らに祝福の祈りをするとき両手を交差させ、左側に立っているエフライムに対して右手(イザヤ41:10参照)を置き、右側に立っているマナセに対しては左手を置きました。ヤコブ自身、双子の兄であるエサウから長子の特権の祝福を(母リベカの計らいもあり)横取りしたことも思い出していたでしょう。確かにその祈りの通り、後年、ヨシュアやサムエルなどの優れた霊的指導者がエフライム族から出ましたが、その後は芳しくありません。それは真の神から離れ、偶像礼拝に陥ったからです。きょうは、2025年最後の礼拝。つい先日はクリスマス、元日になると今度は多くの人が初詣に行きます。しかし、全知全能で唯一の創造主が最も忌み嫌うことは、偶像礼拝です。使徒の働き17:24には「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」とあるように、私たち人間の存在の原因であり、目的でもある真の主、イエス・キリストの父なる神に立ち返るべきであります。

●2025年12月21日(日)礼拝メッセージ要旨    

クリスマス礼拝ということで、キリスト降誕時の状況を最も詳しく記してあるルカ2:1~20から、「きょうダビデの町で」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ダビデの町(ベツレヘム)で生まれた」…ダビデの父はエッサイで、彼はベツレヘム人(Ⅰサムエル記16:1)と記されています。つまり、ダビデはベツレヘムの出です。ダビデはそののちイスラエルの王、名君となり、ベツレヘムはダビデの町とも呼ばれるようになりました。ダビデの時代から約1000年が経過して、主がダビデに約束されていた「彼の王国を確立させるダビデの身から出る世継ぎの子(Ⅱサムエル7:12)」としてイエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになりました。父ヨセフと母マリヤは共に、アダムからダビデまでの家系図は同じです。ヨセフはダビデの子ソロモンの系統、マリヤはダビデの子ナタンの系統です。その時マリヤは未婚の処女で、聖霊によって身籠っていたのです。当時、ヨセフとマリヤはナザレに暮らしていました。通常ならマリヤはナザレで出産するところでしたが、ローマ皇帝アウグストが「自分の町に行って住民登録をせよ」という勅令を出し、計らずも彼らはダビデの町(ベツレヘム)へ行って、結果的にそこでの出産となります。昔も今も、この世界に住む人々は政治や世の動きに翻弄されて生きています。でも、その背後に全知全能の神に御手があるのです。

2.「飼葉おけに寝ておられた永遠の主」…全知全能の神のひとり子ですから、どんなことでもいとも簡単にお出来になるのですが、なんと、イエス様は生まれて飼い葉おけに寝かされていました。それは神の愛の表れと言えるでしょう。こののち、イエス様は、およそ33年後、罪の無い方なのに十字架に架けられ、殺されます。それは多くの人の罪をその身に負い、罪の赦しと永遠のいのちをお与えになるためでした。つまり、イエス様が飼い葉おけに寝ておられたのは、そののち十字架に架けられ、多くの人の罪をその身に負われるという神の愛を現わす始まりだったと言えるでしょう。ピリピ2:6~8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とあります。この世の王たちは、その権力をふるい、人々を支配しようとします。しかし真の神は愛の神、人々を救うために貧しくなられ、十字架で苦しみを受けられ、死なれました。もちろん、イエス・キリストは死から復活し、今も生きて私たちを執り成してくださっています。

3.「喜びの知らせを聞いた羊飼いたち」…羊飼いたちが野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていたとき、突然、主の使いが彼らのところに現われ、主の栄光が回りを照らしました。羊飼いたちは恐れました。主の使いは彼らに「恐れることはありません。この民全体のすばらしい喜びを知らせにきたのです。」と言いました。そして、さらに、「きょうダビデの町で救い主が生まれた。そのしるしとして、そのみどり子は飼い葉おけに寝ておられる」と言うのです。すると天の軍勢が現われ、先の御使いとともに神を賛美するのです。なんと物凄い光景だったことでしょう。羊飼いたちは互いに「ベツレヘムに行って見て来よう」と言い、飼い葉おけに寝ておられるイエス様を探し当てたのです。そして、今起こったことを話すと、聞いていた人たちは驚きました。聖書は「 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:17~18)」と言っています。今日、イエス・キリストを信じる者は救いを受けます。やがて、この地上を去る時が来ても、あの羊飼いたちが見た物凄い光景(天の軍勢の賛美)を永遠の天の御国で見ることになるでしょう。

●2025年12月14日(日)礼拝メッセージ要旨   

 クリスマスシーズンに因み、ヨハネの福音書1:1~14からです。「ことばは人となって」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「全てのものはこの方によって造られた」…四つの福音書のうち、キリスト降誕についてマタイとルカの福音書は取り上げています。マルコとヨハネの福音書は降誕の記事はありません。ヨハネの福音書1章では、キリストが天地創造に関わったことが記されています。その1節では「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。その「ことば」はギリシャ語ではロゴス(λόγος)、単なる「ことば」ではなく、神のひとり子イエス・キリストの代名詞として用いられています。そして、2~3節では、「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」、つまり、キリストは初めに神とともにおられ、全てのものは、イエス・キリストによって造られ、キリストによらずに出来たものは一つもない、と言っています。それは、聖書の他の箇所でも言っていることです。コロサイ1:16には「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」とあるとおりです。そのほか、箴言8:22~31も同じことを語っています。

2.「光は闇の中に輝いている」…生れながらの人間の心の中は闇の中にあると言えます。筆者である私・内藤は1976年4月26日の夕方、救い主イエス・キリトを信じ受け入れました。その直後、私の心は大きな喜びと安心感に満たされました。もちろん、物理的に光りが差し込んだわけではないのですが、正に闇の中にあった心の中に光が入ってきた感覚でした。ヨハネ8:12には「イエスは彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」とあります。6~8節には、ここでバプテスマのヨハネのことが記されています。当時の人々は、バプテスマのヨハネが神から遣わされた預言者であると認めていました。そのヨハネはイエス・キリストについて「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と紹介しました。そこにどんなにすばらしい救い主がいたとしても、その方が誰であるのかを知らなければ救い主として信じることはできません。今日も、イエス・キリストの福音を伝える人の働きは非常に大切です。ローマ10:14~15には「~聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

3.「この方を受け入れた人々」…ヨハネ1:10~11には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とあります。イエス・キリスト様は、この世界をお造りになった創造主であり、この世界と宇宙のオーナーであるとも言えます。例えば、ある大会社のCEO(最高経営責任者)が自分の会社に入ってきたとき、その会社の社員が彼を知らないと言ったり、拒否したなら、そのCEOはどんな思いをするでしょう。イエス・キリストを無視することは、それを遥かに超えるとんでもない赦されざる暴挙とも言えてしまうのです。しかし、この方を信じ受け入れるならば神の子どもとされる特権が与えられるのです。

●2025年12月7日(日)礼拝メッセージ要旨          

12月に入りました。クリスマスシーズンに因み、イザヤ9:1~7から「ひとりのみどりごが」という題で3つのポイントを上げていきます。

1.「預言者イザヤ」…イザヤは、ユダの王・ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に主の預言者として用いられました。時代は紀元前(BC)700年頃のことです。当時のイスラエルは北イスラエルと南ユダの二つの国に分裂していました。1節に出て来るゼブルン部族とナフタリ部族は北イスラエルに属していました。元々は神の民であるのに北イスラエルは神から遠く離れていました。そのために、BC721年、アッシリヤに滅ぼされてしまいました。しかし、同じ1節には「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」とあります。滅亡して異邦人の国と化してしまったところに神からの光栄が及んだのです。箴言18:12には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。この世界を創造された真の神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを授けてくださいます。今から約2025年前、神のひとり子イエス・キリストはベツレヘムで産声を上げられましたが、その後はガリラヤ湖から遠くないナザレで過ごされ、およそ30才からは公に人々の前に現われ、ガリラヤ湖のほとりカペナウムを宣教の拠点とされました。今日、ガリラヤは世界中のクリスチャンが聖地旅行で訪れる正に光栄を受けた場所となっています。

2.「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」…「みどりご」は「緑児」、「新芽のように若々しい」という意味のようで、たいていの日本語聖書では「みどりご」です。この、ひとりのみどりごは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるようになるのです。つまり、その赤ちゃんは天地を創造した真の神ご自身だったのです。正にありえないことが起こりました。私たちの日常生活においても小さな奇跡と言えるようなことが時々起こるのではないでしょうか。また、その前に、私たち一人ひとりがこの世に生きていることそのものが奇跡であるとも言えます。さて、その方(イエス様)の不思議はさらに続きます。その方はおよそ30歳で公生涯を始められ、全く罪の無い方であるのに十字架に架けられ、殺されます。それは、多くの人の罪の身代わりに苦しみを受け、死なれたのでした。そして墓に葬られ、三日目に復活し、今も生きて信じる私たちを執り成してくださっているのです。この方は「私たちのために生まれ、私たちに与えられる(6節)」とある通り、聖霊によっていつも共にいてくださるのです。「~見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20b)」

3.「万軍の主の熱心が」…その方の主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め~とありますが、イエス・キリストは、再びこの地上に来られ、やがてご自身が統治される世を治められる。その背後には万軍の主の熱心がそれを成し遂げるのです。イザヤ37:32には「エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。」とあります。これは最後まで神に忠実に従った者たちが神ご自身の熱心によって支えられたという意味かと思われます。それは、今日のキリスト者においても同じです。聖霊様の助けをいただき、心燃やされて主に仕えてまいりましょう。

●2025年11月23日(日)礼拝メッセージ要旨       

創世記47:1~31からです。エジプトに移住してきたヤコブ一族は、ゴシェンの地に定住します。今回の題は「エジプト定住とその後」です。ヨセフの父と兄弟たちがパロと面会、ヨセフの仕事ぶり、死期が近づいたヤコブ、この3つの記事をそのまま3つのポイントとして上げていきます。

1.「ヨセフの仲介でパロ王に謁見」…ヨセフは自分の親族たちがカナンの地から移住のために来たことをパロに伝えます。まず、兄弟たち5人をパロに引き合わせます。それで、正式にエジプトの最も良い地ゴシェンに住むことが確定します。次にヨセフは130才のヤコブをパロの前に連れてきます。ここでヤコブはパロに「あいさつした」と新改訳聖書第三版では訳していますが、2017年訳では「祝福した」です口語訳聖書や共同訳聖書でも「祝福した」です。飢饉のため移住してきた130才の老人が、当時の超大国エジプト王を祝福したのです。ヤコブは、天地を創造した全知全能の神が、選び祝福したアブラハムの孫です。アブラハムからイサク、イサクからヤコブにその祝福が受け継がれてきました。天地を統べ治めておられる神の視点から見るとき、ヤコブは神の器であり、超大国の王様を祝福するのに何の不足もありません。今日、イエス・キリストをまともに信じるクリスチャンも同じです。イエス・キリストにあってアブラハムへの祝福を受けている(ガラテヤ3:13~14)のです。また、その祝福を人々に与えるために召されている(Ⅰペテロ3:9)のです。

2.「飢饉が続く中でのヨセフの仕事ぶり」…エジプト国内においても飢饉は続きます。ヨセフは、内外から集まった銀をパロの家に納めます。次に、エジプト人に穀物を買う銀が無くなると家畜と引き換えに穀物を売ります。さらに、その家畜も無くなると今度は土地と引き換えにします。さらに、その土地が無くなると土地を貸与し、その収穫の5分の1を納めるようにします。日本の江戸時代の農民の年貢米などと比べると良心的な割合と言えるでしょう。最近、日本では長い間課税されてきたガソリンの暫定税率が廃止されることが決定し、既に段階的な事実上の実行に移されています。そういった国民のためになる良い政治を今後も期待するところです。ローマ14:7~8には「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」とありますように、私たちはすべて自分のために生きているのではなく、主のために生きることを求められています。

3.「ヤコブ、ヨセフに誓いを求める」…ヤコブがエジプトに来たときは130才、それから17年が過ぎて147才、彼は自分の死期が近づいていることを覚えました。そこでヤコブは、ヨセフに自分が死んだらカナンの地の先祖の墓に葬って欲しいと言います。そして、そのことをヨセフに誓わせます。それは、神がアブラハムにカナンの地を与えてくださるという約束を、アブラハムの孫のヤコブ自身も信じているということを証しするためのことだったのでしょう。基本的に私たちは死後、何処に埋葬されるかということはそれほど重要ではありません。なぜなら伝道者の書12:7には「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」とあるから、神のもとに帰った魂が、永遠の滅びの刑罰を受けることを免れ、永遠の天の御国に入るということが最も重要なことです。そのために、私たちは十字架で救いを完成され、今も生きて私たちを執り成してくださっている主イエス・キリストを信じ、この方の救いの福音を宣べ伝えるのです。

●2025年11月16日(日)礼拝メッセージ要旨       

 創世記46:1~34からです。ヤコブ一族、後のイスラエル民族は、いよいよエジプトに移住します。「エジプトへ移住」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ヤコブ一族エジプトへ」…まだ飢饉は5年も続くし、エジプトには穀物が十分あり、その管理をしているのは死んだと思っていた最愛の息子ヨセフです。生きてエジプトの支配者になっているヨセフに会うだけでもエジプトに行く理由があります。しかし、ヤコブの心の奥底には「本当にエジプトに行っても良いのだろうか」という不安があったことでしょう。なぜなら、ヤコブは祖父アブラハムが与えられた「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。(創世記17:8)」という主のみ旨を父イサクから伝え聞いていたことでしょう。ヤコブはベエル・シェバで主にいけにえをささげた夜、幻の中で、主のみ声を聞きます。それは「エジプトに下ることを恐れるな。あなたを大いなる国民とし、あなたを再び導き上る」です。今日の私たちも、これと同じような立場に遭遇することがあります。大勢(たいせい)は決まっている、しかし、本当にその道を進んで良いのだろうか?そんなとき、クリスチャンには祈りがあります。もちろん、何か奇跡的なしるしが与えられることもあるでしょう。でも、お祈りし、主からの平安をいただいて主に従っていくのです。

2.「皆で66人であった」…ここでエジプトに移住するヤコブ一族の名前と人数が記されています。まず、ヤコブの妻レアが生んだルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンの6人の子とその孫たちも含めて計33人。そして、レアの女奴隷ジルパが生んだガドとアシェルとその孫たちを含めて16人。次に、ラケルが生んだヨセフとベニヤミンとその孫たちを含めて14人。最後はラケルの女奴隷ビルハが生んだダンとナフタリとその孫たち7人、全合計で70人です。66人というのは、既にエジプト在住のヨセフと二人の息子の3人とヤコブを加えて4人を除いた数でしょう。もちろん、それぞれの妻たちも加えられていません。第一ポイントにあるように「大いなる国民となる」ためです。その後、イスラエルはヨセフの影響力が消えた時代になってからエジプトで奴隷となり、苦しみの中を通りましたが、それは却って民族を強くしたのでしょう。約400年後エジプトを出るときには男だけで約60万人となっています。ヤコブ1:3~4には「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。

3.「ゴシェンの地へ」…ヨセフは、ヤコブと涙の再会を果たした後、兄弟たちにゴシェンの地に住むための助言をします。パロ王に面会したとき、職業を聞かれたら羊飼いであると答えるように勧めています。それは、エジプト人にとっては羊を飼う者たちは忌み嫌う者とされていて、それゆえにゴシェンの地に隔離されるような形で住むことができるということです。すなわち、結果的に、イスラエルはエジプト人と同化することなく民族としての独自性を保つことができるということです。それは、近年のユダヤ人のゲットーを彷彿とさせます。また、同時に、今日、イエス・キリストを心底信じるクリスチャンは、この世の中に生活していても、霊的には分離していなければなりません。この世の罪と欲、偶像礼拝、そういったものから分離し、きよめられることを求めていきましょう。また、近頃、多くの教会では地獄(永遠の滅びの刑罰)が語られなくなったと言われています。地獄を語ると、人受けしないからです。地獄の存在があるから、十字架の救いが必要なのです。