●2025年11月9日(日)礼拝メッセージ要旨            

  創世記45:1~28からです。この章で、ヨセフは兄弟たちに初めて自分のことを明かします。「ヨセフと兄たちとの和解」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「ヨセフは兄弟たちに自分のことを明かす」…前章の創世記44章で、ヨセフの兄弟たちは、エジプトで穀物を買い、カナンの地に帰ろうとしますが、ベニヤミンの荷物の中にヨセフ専用の銀杯が見つかったことを理由に、ベニヤミン一人を監禁し、あとの者は帰って良いということになってしまいます。そこでユダが、「ベニヤミンが帰らなければ父ヤコブは死んでしまうでしょう。私はあの子の保証をしています。代わりに私が奴隷となります。」と言います。それを聞いていたヨセフは、感極まり、側近のエジプト人たちを外に出し、兄弟たちに自分がヨセフであることを明かします。兄弟たちは、驚きのあまり声が出ません。それもそのはずです。かつて兄たちはヨセフをエジプトに奴隷として売り渡しました。そのヨセフがエジプトの支配者となり、兄たちはその支配者がヨセフであることを知らず、彼の前にひれ伏していたのです。詩篇138:6には「まことに、【主】は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」とあります。私たちは、たとい成功して高い地位に就いたとしても、神の前にも人の前にも謙虚さを失わないようにしましょう。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。(箴言18:12)」

2.「私をここに遣わしたのは神です」…驚いている兄たちを慮り、ヨセフは兄たちに対して「今、私をここに売ったことに対して心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神は命を救うため、あなたがたより先に私を遣わしてくださったのです。」と言います。そして、今後どうすべきかを語ります。飢饉はあと5年続くので、父をカナンからエジプトに連れて来て皆で一緒にエジプトで暮らしましょうと言います。そして、ベニヤミンを始めとして、兄弟たち一人一人と涙の抱擁をします。詩篇133:1には「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」とあります。現在の世界人口は80億人を超えています。元々はアダムとエバの子孫です。本来なら互いに助け合い、愛し合って平和で豊かな世界を築いていてもよいはずです。しかし、現実は、あちらこちらで戦争や睨み合いが起きています。終わりの日が訪れ、千年王国時代になってからそれが成就することでしょうが、その神の国の雛型として、今、この地上にイエス・キリストを救い主、主として崇める教会が建てられています。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」

3.「エジプトの車」…ヨセフの兄弟たちが来たという知らせがパロ王に届き、パロはヨセフに「兄弟たちに伝えなさい。全家族を連れて来て、エジプトの最良の地に住みなさい。エジプトの車を持って行き、それに父を乗せて来なさい」と言います。兄弟たちは父ヤコブの元に帰り、ヨセフが生きていてエジプトの支配者になっていることなどを父に話すのですが、ヤコブは何が何だか理解が出来ず、ぼんやりとしています。しかし、父ヤコブは自分を乗せるために送ってくれたエジプトの車を見ると、瞬時に理解し、元気づいたのです。この45章28節には「イスラエルは言った。『それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。』」とあります。27節までは「父ヤコブ」となっていますが、この28節では「父イスラエル」です。人間的に落ち込んでいたヤコブが希望に満ちたイスラエルに変貌したのです。今日、キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに永遠の天の御国の希望を持っています。父イスラエルがヨセフに会いに行こうと元気づいた以上の大きな希望を持っているのです。

●2025年11月2日(日)礼拝メッセージ要旨   

 今回は創世記を一旦離れ、ヨハネの福音書6章41~59からです。「いのちのパン」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「食べ物のパン」…ヨハネ6章の最初の記事は、イエス・キリストが山で、5000人にパンを分け与えられ、余ったパン切れを集めると、12のかごにいっぱいにあったというものです。人間は、食べないと生きていけません。パン、食べ物は大事です。日本の食料自給率は38%ほどであると聞いています。昨年から今年にかけて米が不足する事態が起き、前政権時代は米の増産に舵を切りましたが、新政権になって再び元の方針に戻すと言われています。異常気象、飢饉など、今後何が起きるか予測不能です。全世界的な飢饉が起こると、輸入も当てにできません。3.11大震災の直後は、流通がストップし、コンビニの食べ物が無くなってしまう事態が起きました。食べ物があるのが当たり前と思わず、「主の祈り」にもあるように、日々の糧のために祈り、また与えられた食物を感謝していただきましょう。

2.「いのちのパン、キリスト」…ヨハネ6:47~48でキリストは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。」と言われました。ここで言う「いのちのパン」とは、永遠のいのちのことです。香港から来られた宣教師・ラリー&ステラ夫妻のステラさんは、幼稚園と中学校は仏教学校だったそうです。中学生のとき、仏教に帰依し、自分を仏教徒だと自認していました。高校生の時、お姉さんに誘われて教会のキャンプに参加しました。その後、教会にも行くようになりましたが、仏教から離れてはいませんでした。あるとき、一人のクリスチャン女性がステラさんに「あなたの信じている仏陀様はあなたと関係は?」と聞かれ、「私と仏陀(シャカ)様と何の関係があるのかしら?」と自問し、それで「ハッと」気づいて、イエス・キリスト様を信じる決心をしたとのことです。キリストは父なる神と共に、この世界を創造されました。この方によって、空気、水、食べ物などが与えられ、私たちはこの方によって生かされているのです。キリストは、この世に人として来られ、多くの人の罪を贖うために十字架で死なれ、葬られ、三日目に復活し、今も生きて、天の父なる神の右の座に着き、私たちのために執り成しておられるのです。

3.「永遠のいのちに至る食物」…2025年3~9月にNHK朝の連続ドラマは「あんぱん」が放映されていました。あの「それいけアンパンマン」の作者・やなせたかしさんと妻の小松暢(のぶ)さんをモデルにしたドラマです。やなせさんは、戦争に行き、厳しい飢えを体験し、パン・食べ物には特別な思いがあったとのことです。戦後は、他の仕事をしながら漫画家を目指していました。なかなかマンガがヒットしなかったのですが、妻の暢さんが何かと励ましていたそうです。その暢さんは「正義は逆転することがある。逆転しない正義とは何か。飢えて死にそうな人がいれば一切れのパンを上げることだ。」と言ったということです。「正義」について分かりやすい定義と言えそうですが、聖書は変わることのない真理のみことばです。Ⅰペテロ1:24~25aには「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあります。真理はただ一つ、それは永遠に変わることないものです。ヨハネ6:53には「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」とあります。つまり、聖書のみことばを信じて読むことです。私たちは、毎日聖書を読み、できれば通読すべきではないでしょうか。それによって成長し、救いを得、いのちにあふれていきたいと思います。

●2025年10月26日(日)礼拝メッセージ要旨         

創世記44:1~34からです。ヨセフの兄たちは、二度目のエジプト行きを順調に進めます。穀物を買い、監禁されていたシメオンと一番下の弟ベニヤミンも伴い、父イスラエルの元へ帰るだけです。しかし、ヨセフは一つの仕掛けを施し、彼らをエジプトに戻らせます。ここから、ヨセフ、ヤコブ、ユダの三人の名を上げて、三つのポイントとします。

1.「ヨセフの思惑と仕掛け」…兄たちとしては、穀物を買い、シメオンとベニヤミンを伴い、あとは父イスラエルの喜ぶ顔を見るだけです。しかし、ヨセフとしては「はい、それまで。」というわけにはいきません。かつて、異母兄弟である兄たちには殺されそうになり、穴に投げ込まれ、そして奴隷として売られ、あるときまでエジプトで奴隷として人に仕えてきました。もちろん、ヨセフはただ単に復讐心で行動していたのではないでしょう。兄たちの心を知り、真の意味での和解を求めていたと思われます。ですから、自分と同じ母から生まれたベニヤミンを監禁したならば、兄たちがどういう反応をするのかを確かめたかったのでしょう。そのために、ベニヤミンの袋にヨセフ専用の銀の器を入れて、監禁するための仕掛けをしたのです。兄たちは、エジプトから故郷のカナンに向かい、晴れ晴れとした思いに浸っていたことでしょうが、再びエジプトに戻され、一時の解放感は消え、困難は続きます。ヤコブ1:12には「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあります。

2.「ヤコブ(イスラエル)の願い」…ヤコブ(イスラエル)は、そもそもラケルと結婚したのですが、初夜の翌朝、隣にいるのはラケルの姉のレアでした。それは義父ラバンの計略によるものでした。そのためもあり、ヤコブは結果的に四人の妻と12人の息子たちを持つことになりました。気持ちの中では、「妻はラケル」という思いを持ち続けたのでしょう。ラケルはヤコブにとっての11番目の子ヨセフを産み、12番目の子ベニヤミンを産んだ直後に亡くなりました。ですから、ヤコブとしては、ラケルが生んだ二人の子のうちヨセフはいなくなり、残るはベニヤミン一人で、彼に対する思いは特別なものがあったのでしょう。そうは言っても、ヤコブは四人の妻を持ち、息子たちは12人であることに変わりはありません。そして、この12人の息子たちが族長となり、やがてイスラエル民族が形成されます。ローマ8:28には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。確かに、ヤコブの義父ラバンの「計略」は素直に受容し難いものがありますが、神は全てのことを働かせて益としてくださったのです。

3.「仲介者ユダ」…ユダは、父イスラエルとエジプトのヨセフの間に立って、双方の相矛盾する要望を自らが犠牲となって受けとめ、解決を図っています。ですから、この後に父イスラエルが創世記49:10で「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」と預言していますが、正にその通りになって行きます。今日(こんにち)私たちキリスト者も、その仲介者としての役割を担っています。Ⅰテモテ2:4~5には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」とあります。キリストは、神と人との間に立ち、十字架による罪と死からの救いにより、神に対して、また人に対して、仲介者の務めを果たされました。キリスト者は、このイエス・キリストを信じ、この方の救いの福音を人々に証しすることによって仲介者としての役割を担うのです。

●2025年10月19日(日)礼拝メッセージ要旨         

創世記43:1~34からです。ヤコブの家族、後のイスラエル民族はエジプトに移住して、そこで約400年滞在します。そこに向かっていく途中経過の一幕です。「兄たち再びエジプトへ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「私(ユダ)に責任を負わせてください」…穀物が底をつき、父ヤコブは息子たちに再びエジプトへ行って穀物を買ってきてくれ、と言います。ユダは弟のベニヤミンを連れて行かなければそれは出来ない、と言いますが、ヤコブはベニヤミンだけは手放したくありません。そこで、ユダが「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください」と言います。ヨセフ物語は言うまでもなくヨセフが主役ですが、このユダの犠牲的、献身的な言動は随所に見られ、ユダが影の主役であるとも言えるでしょう。1940年7~8月、リトアニアの領事館に赴任していた杉原千畝氏は人道的立場からユダヤ人に2139枚のビザを発給し、約6000人のユダヤ人を助けました。また現在、アメリカ大統領のトランプさんは、何はともあれイスラエル対ハマスの戦争終結に尽力しました。そしてロシア対ウクライナの戦争終結のためにも行動しています。自己の保身とか欲得のためではなく、世のため人のために自分を犠牲にして行動する姿は、まさしく、救い主イエス・キリストのうちに見られるものです。

2.「父イスラエルの決断」…ユダが「私に責任を負わせてください」と言ったことにより、父イスラエルは心を動かされたのでしょう。カナンの地の名産品を携え、前回、袋に入っていた銀を返し、ベニヤミンとシメオンを連れて帰ってきなさいと、急に人が変わったような発言をするようになります。創世記43:14では「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。~私も失うときには、失うのだ。」と言っています。ここでちょっと興味深いのは、創世記42章では「父ヤコブ」と記されているのですが、この43章では「父イスラエル」となっています。ヤコブは「押しのける者」、イスラエルは「神は戦う」の意味です。つまり、人間的な肉の考えに縛られて行動するのではなく、全知全能の神の力に委ねて神のみこころに従って行動するという生き方が求められているということです。使徒の働き20章で、パウロは小アジアのミレトでエペソの長老たちを呼んで最後のメッセージをしています。その中で「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20:24)」と語っています。

3.「兄たち、ヨセフの家に行く」…イスラエルの息子たちは一番下の弟ベニヤミンを伴い再びエジプトに行きます。彼らはヨセフの家に連れて行かれるので、恐れますが、ヨセフの家の管理者は、安心するようにと言い、先の銀もちゃんと受け取ったと言います。そしてヨセフと共に少し離れて別々の食事が提供されます。ここでヨセフと兄たちの心境を探ってみましょう。兄たちとしては穀物をしっかりと購入し、ベニヤミンとシメオンを連れて無事に父の元に帰ることが出来ればそれで十分です。一方、ヨセフとしては、そうはいきません。今やエジプトの権力者になっているものの、兄たちには酷く苦しめられました。それを簡単に過去のものとして水に流して終わりにするなどということは出来なかったのでしょう。ヘブル2:10には「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。今日(こんにち)、私たちはイエス・キリストの救いの中にあるなら、既に地上的な栄光の中にありますが、さらに永遠の天的な栄光の中に入れられます。それはキリストの十字架の救い、すなわち多くの苦しみを通して完成されたものであって、私たちはそのことを決してないがしろにすべきではありません。

●2025年10月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記42:1~38からです。エジプトのヨセフのもとに、カナンの地から兄たちが穀物を買いに来ます。そして、いよいよ因縁の再会となりますが、すんなりとは行きません。今回もポイント三つ上げていきます。

1.「兄たちと気づくヨセフ」…当時、世界中が飢饉の中、エジプトはヨセフの指揮の下に、穀物を「海の砂のように」と表現するほど蓄えていました。そういう中で、カナンの地からヨセフの兄たちが穀物を求めてやってきたのです。ヨセフは兄たちに応対して、彼らが自分の兄たちであることは分かりましたが、兄たちにはヨセフだと分かりませんでした。ヨセフは自分の前にひれ伏している兄たちを見て、かつて父の家で見た夢を思い出しました。正に人生の逆転劇です。ここでヨセフは、簡単に自分が弟のヨセフであるということを明かすことはせず、兄たちに対して「あなたがたは間者(スパイ)だ」と言います。このヨセフの対応について、どうなのでしょう。これは、かつて殺されそうになり、穴に投げ込まれて奴隷として自分を売った兄たちに対する報復なのか、それとも兄たちに悔い改めを促すためにしたのか不明です。ローマ12:17には「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とありますが、ヨセフの対応は必ずしも報復とは言えず、兄たちのためを思ってのことだったのかもしれません。今日(こんにち)の私たちも様々な局面に立たされることがあるでしょうが、まず、聖書のみことばに従い、聖霊の導きを仰ぎつつ歩んで行きたいと思います。

2.「末の弟を連れて来なさい」…ヨセフは兄たちを三日間監禁したあと彼らに対して「一人を監禁しておいて、あとの9人は穀物を運び、そのあとで末の弟(ベニヤミン)を連れてくればあなたがたを信用し、エジプトを自由に出入りできる」と言います。兄たちはそれに従うことになります。そのとき彼らは、「かつてヨセフに対して酷いことをした報いを今受けているのだ」ということを話していると、そのことがヨセフの耳に入り、ヨセフは席を外して泣きます。この涙は何でしょう。奴隷として売られて苦しんだ自分のことを思い出したのか?それとも兄たちの心情に感極まったのか?結局シメオンがとられて監禁されます。上からルベン、シメオン、レビ、ユダのうち、ルベンとユダはヨセフを殺すことには強く反対しています。創世記34章でシメオンとレビは、割礼直後で苦しんでいるシェケムの人々を襲い略奪するという凶行の過去があります。ですから、たぶん、ヨセフは兄たちの内で最も横暴なシメオンを選んで監禁したのでしょう。

3.「父ヤコブのもとに戻る」…シメオンを除く9人の兄たちは、カナンに向かいます。途中、一人が宿泊所でロバに飼料を与えようとして袋を開けると、自分の銀が戻っているので、皆は心配し身を震わせました。そして、カナンの父の元に帰り、袋を開けると全員の袋の中に、銀が戻っているので益々恐れることになりました。これは、ヨセフが兄たちに対して本当に正直者かどうかをテストした側面もあったのかもしれませんが、親族の彼らからはお金は受け取らなかったということでしょう。本来ならば、兄たちは何も恐れることなく、ヨセフの恩情に感謝し、喜んでいればよいところなのですが、過去の経緯(いきさつ)もあり、ヨセフとしても全てをすぐに明らかにしなかったのです。ヨハネ8:23には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とありますが、逆に真理に背いて罪と悪の道を歩めば、不自由と恐怖に捕らえられるでしょう。今日、私たちはいつでも真理である聖書のみことばに従い、霊的自由と喜びのうちを歩んでまいりましょう。

●2025年10月5日(日)礼拝メッセージ要旨            

 創世記41:1~57からです。ヨセフ物語の中でも最も劇的な章とも言えます。「パロの夢を解き明かすヨセフ」という題でポイント三つ上げていきます。

1.「私ではありません。神が~」…パロが七頭の雌牛と七つの穂に関する二つの夢を見ます。パロは心騒ぎ、呪法師たちと知者たちを呼び集め、その夢の解き明かしを命じるのですが、誰一人解き明かすことができません。そのとき、2年前、監獄でヨセフと一緒だった献酌官長がヨセフのことを思い出し、パロに話します。そして、ヨセフはパロの前に立つことになります。パロはヨセフに「あなたは夢の解き明かしをするということだが」と言うと、ヨセフは「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」と言い、七年の大豊作と続く七年の飢饉があると解き明かしたあと、「このことが神によってさだめられ、神がすみやかにこれをなさるからです。」と言います。この世界は天地万物の創造主である真の神によって創造され、神がそれを統べ治めておられます。その中に住む私たち人間は正に「神の中に生き、動き、存在している(使徒17:28)」のです。しかし、この世の多くの人々はそう思ってはいません。人の手によって作られた偶像の神々を拝み、聖書が言っている天地創造の真の神を否定し、この世界は偶然によって成り立っていると思っています。サイコロを振って同じ数がたったの10回続くだけでも至難の業であるのに、この世界が偶然によって成り立つことなど決してありえません。愚かな偽りの教えに惑わされるべきではありません。

2.「その後の対応をも語るヨセフとパロ王の反応」…ヨセフはただ単に、パロの夢を解き明かしただけではなく、七年の大豊作と、その後に続く七年の飢饉に対してどのように対処すべきかも丁寧に語ります。そのヨセフの話を聞いて、パロと家臣たちは納得します。そして、パロはヨセフに自分の指にはめている指輪を取ってヨセフの指にはめさせます。そして、自分の第二の車にヨセフを乗せ、彼にエジプト全土を支配させます。さらにパロは、ヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻にします。ヨセフに家庭を持たせて、安定的に仕事をさせようとしたのだと思われます。ヨセフの能力も飛び抜けていますが、そのヨセフを即刻エジプトで一番の要職に就かせるパロの眼力も飛び抜けています。

3.「ヨセフの仕事ぶり」…ヨセフは30歳でパロ王に次ぐエジプトの支配者になり、早速、着々と仕事にかかります。まず、エジプト全土を巡り歩き、豊作の七年間に町々に食料を蓄えます。49節には「穀物を海の砂のように非常に多く蓄え、量りきれなくなったので量るのをやめた」とあるほどです。やがて、国内からも穀物を求める声が上がり、さらに国外からもエジプトに穀物を買いにやって来るようになります。元々、ヨセフは最初のポティファルの家で、さらに監獄でも優れた管理能力を発揮しています。そして、ようやく大国エジプトの管理を任され、いかんなくその能力を発揮しているのです。エペソ2:10には「 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。正にヨセフは、神の作品として世に現われ、色々な試練の中を通り、神がヨセフのためにあらかじめ備えておられた働きをしているのです。これは、今日の私たちも同じです。私たちも神が備えてくださっている道を歩んで行くのです。「神が造られた最高の私になる」という本がありますが、私たちは、誰かの真似をする必要はありません。自分自身を生きればよいのです。但し、「キリスト・イエスにあって造られた」とあるように、イエス・キリストの救い(罪の赦しと永遠のいのち)はしっかりと信じ受け入れて、このイエス様の名によって祈りつつ、自分に与えられた道を歩んで行くのです。

●2025年9月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記40:1~23からです。この章は夢の話です。あの寝ているときに見る夢です。「献酌官長と調理官長」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「夢を見て落ち着かない二人」…ヨセフは濡れ衣を着せられて監獄に入れられますが、主はヨセフと共におられ、彼は監獄内の囚人たちの管理者になります。それから、しばらくしてのことでしょう。パロ王に仕える献酌官と調理官がヨセフのいる監獄に入ってきます。ヨセフは彼ら二人の世話役になります。ある日、二人は同じ夜に夢を見ます。そして、その夢によって彼らはイライラしています。ヨセフが彼らに「あなた方の顔色が悪いのはなぜですか」と尋ねますと、二人は「私たちは夢を見たが解き明かす人がいない」と言います。ヨセフは「それを解き明かすことは神のなさることです。さあ、それを話してください」と言います。使徒の働き17:28aには「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。~」とあります。私たち人間は全知全能の創造主である真の神様によって形造られ、生かされて生きているのです。その方が時に、私たちに夢を見させ、何らかの指針を示すこともあるでしょう。ヨセフは、それを神様に教えられて解き明かすと言っているのです。

2.「夢の解き明かしをするヨセフ」…まず献酌官長が自分の見た夢を話します。ヨセフはそれを聞いて「3日のうちにパロはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう」と言います。それを聞いていた調理官長も良い解き明かしを期待して、ヨセフに夢の内容を話します。ヨセフは「3日のうちにパロはあなたを呼び出し、あなたを木に吊るすでしょう。」と言います。調理官長はパロ王に対してどんな罪を犯したのか不明ですが、気の毒ですね。それと同じような、夢を解き明かす記事が、ダニエル書2章にあります。バビロン王ネブカデネザルが夢を見ました。非常に気になる夢で、その意味を知りたいと思いました。そこで王は呪法師たちを呼び寄せ、自分の見た夢の解き明かしを命じます。呪法師たちは「まず見た夢をお話しください」と言うのですが、王は「自分が見た夢を言い当てることができるなら、解き明かしも出来るはずである」と答えます。そして王は怒り、「バビロンの知者を全て滅ぼせ」と命じます。それを聞いたダニエルはネブカデネザル王の所に行き、王にその解き明かしをするためにしばらくの時を与えてくれるように願います。それからダニエルは自分の家に帰り、三人の同僚たちと問題を分かち合って天の神のあわれみを請い、自分たちがバビロンの知者たちと共に滅ぼされることのないようにと願いました。すると夜の幻のうちにダニエルに王の見た夢とその解き明かしが示され、問題が解決されるのです。今日、私たちにはヨセフのような賜物は無いかと思います。しかし、何か問題があったとしてもイエス・キリストの御名によって祈ることによって問題が解決されるでしょう。クリスチャンには「祈り」という素晴らしい特権があるのです。

3.「パロの誕生日に」…ヨセフが二人の夢を解き明かした三日目がパロの誕生日で、パロは自分の家臣たちのために祝宴を張ります。そこで、例の献酌官長と調理官長が呼び出され、献酌官長は元の役職に戻され、調理官長は木に吊るされてしまいます。ヨセフは献酌官長が解放されて幸せになったら、自分が出られるように取り計らってくれるようお願いしていたのですが、すっかり彼はヨセフのことを忘れていました。Ⅰペテロ5:6に「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とあります。ヨセフは、その2年後、パロの夢を解き明かし、ただ解放されるだけではなく、エジプト全土を治めるエジプト第二位の権力者となっていきます。神はヨセフのために着々と、その時を備えておられたのです。それと同じように、イエス・キリストの父なる神を信じる全ての人のためにも主は、時を備えておられるのです。

●2025年9月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記39:1~23からです。エジプトに連れて行かれたヨセフはその後どうなったのか。この章はその始まりです。「主はヨセフとともにおられ」という題でポイント3つ上げていきます。

1.「ポティファルの家が祝福される」…ヨセフは、パロ王の廷臣で侍従長のポティファルの家の奴隷として仕えることになります。しかし、主がヨセフとともにおられ、彼の行ないが全て成功するのをポティファルは見ます。ポティファルはやがてヨセフに自分の家と全財産をヨセフに管理させるようになります。その時からです。主は、ヨセフのゆえにポティファルの家を祝福されます。今日、イエス・キリストを信じるクリスチャンは聖霊様を内に宿しています。つまり、創造主である全知全能の神が共におられます。クリスチャンのいる所、そこは祝福の場所となるでしょう。さらに、ヨセフを重用して祝福されたポティファル家のように、神が共にいるクリスチャンがこの日本の国に多く起こされ、様々な部門で用いられるなら、この国は大いに祝福されるでしょう。

2.「ポティファルの妻の悪事」…ヨセフは今風に言うとイケメンだったようです。それに加えて仕事も出来るし、人格的にも備わっていたことでしょう。そんなヨセフにポティファルの妻が言い寄ってきたのですが、ヨセフは「どうしてそのような悪事をして、私は神の前に罪を犯すことができましょう」と言います。しかし、彼女はあきらめません。あるとき、家の者が他に誰もいないとき、彼女はヨセフの上着を掴んで離しません。ヨセフはたまらず上着を残して外に逃げます。すると、ポティファルの妻は「ヨセフが自分にイタズラをした。その証拠にヨセフの上着がある」と言って、ヨセフを悪者に仕立てます。夫のポティファルにも同じように作り事を話すと、夫はそれを真に受け、怒ってヨセフを監獄に放り込むのです。この創世記を読み進めますと、ヨセフは監獄に入れられるものの、30歳でいきなりエジプト第二位の地位に就くことになります。聖書には記してないのですが、そのとき、ヨセフのことを聞いたポティファルと妻は人生最悪の日を迎えることになったのではないでしょうか。ローマ12:19には「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」とありますように、たぶん、ヨセフも、このみことば通り、ポティファル夫妻に対して復讐はしなかったことでしょう。しかし、彼らは生涯に渡って心休まることはなかったでしょう。創造主である全知全能の主は生きておられます。神は侮られるような方ではありません。必ず正しい裁きを下されます。私たちは、この方を恐れ、罪の赦しと救いを完成されたイエス・キリストを信じて従っていきましょう。

3.「監獄でも成功するヨセフ」…ヨセフは監獄に入れられますが、彼はそこでも監獄の長から気に入られ、なんと全囚人の管理を任されるのです。それは23節に「主が彼とともにおられ、彼が何をしても成功させてくださった」とある通り、全能の主が彼をそのようにされたのです。但し、ヨセフ自身の全能の主への信仰があったからこそではないでしょうか。言い換えますと、それはヨセフが持っている「成功の秘訣」とも言えます。箴言3:6には「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。「主は私とともにいてくださる。たとえどんな状況であっても主は私に最善を成してくださる」と、主を信頼するのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

●2025年9月14日(日)礼拝メッセージ要旨 

創世記38:1~30からです。創世記37章からヨセフ物語が始まります。しかし、この38章ではユダの記事です。その内容的は芳しいものではありませんが、ヨセフから一旦、ユダの記事になっているのです。ヨセフ(エフライム)とユダは共に、この後のイスラエル民族の中ではリーダー的な存在で、ユダ族からは後にダビデ王が出、そのダビデの血統からイエス・キリストが降誕します。ですから、キーマンとしてのユダの記事がここに出てくるのでしょう。ここでは、「ユダとタマル」という題で三つの段落でまとめます。

1.「エル、オナン、シェラ」(1~11)1節で「その頃のことであった」と言っています。ユダにとって弟のヨセフがエジプトに奴隷として売られて行った頃のことです。ユダは他の兄弟たちから離れて、アドラム人ヒラの近くで天幕を張ります。そこで、カナン人の娘をみそめて結婚し、男子3人が生まれます。ユダは長子エルにタマルという妻を迎えますが、エルは主を怒らせていて死にます。ユダは次男オナンに「義弟としての務めを果たしなさい」と言い、オナンとタマルは結婚しますが、オナンは生まれる子が自分のものにならないことを知って、結果的に主を怒らせて死にます。そこでユダはタマルに、三男シェラが成人するまで自分の実家で待機するように言い、タマルもそれに従います。

2.「タマルの計略」(12~23)かなりの日が経過し、ユダの妻が死に、その喪が明けると、ユダは羊の毛を刈るためにティムナに行きます。実家にいたはずのタマルが、ユダの行動を聞き、ティムナへの道にあるエナイムの入口で、顔を覆い、遊女の装いをして待機していました。ユダは彼女が遊女だと思い、彼女と関係を持とうとします。彼女は見返りを求めると、ユダは「子ヤギを贈ろう」と言います。結局、彼女はユダから、その報酬のしるしとして、印形とヒモと杖を預かります。その後ユダは、預けたしるしを取り戻そうと、アドラム人の友人に託して、子ヤギを送るのですが、その女を見つけることができず、ユダも笑い種になるし、そのままにしておくことになりました。

3.「全てが明るみに出される」(24~30)それから3カ月ほどして「あなたの嫁のタマルが売春し、その上、売春によってみごもっている」という知らせがユダに届きます。するとユダは激しく怒り、「あの女を引き出して焼き殺せ」と言います。ユダからの使いがタマルの所に来ると、タマルは、例の印形とヒモと杖を出し「これらが誰のものかお調べください」と言います。ユダはそれを見定めて、「あの女は私よりも正しい」と自分の間違いを認めます。その後、タマルは出産のときになって、双子のパレス(ペレツ)とザラ(ゼラフ)が生まれます。マタイの福音書1章にはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図が出てきます。その1章3~6節には、ユダにタマルによってパレスが生まれ、その子エスロン、その子アラム、その子アミナダブ、その子ナアソン、その子サルモンと代々続き、サルモンと遊女ラハブによってボアズが生まれ、ボアズとモアブ人ルツによってオベデが生まれ、次にエッサイ、エッサイからダビデが生まれ、ダビデとウリヤの妻からソロモンが生まれます。こうして見るときに、聖書は人間のありのままの姿を坦々と記しています。もし、もっと体裁を良くしようとして事実を改ざんしたとしたら、聖書が聖書でなくなります。汚点と罪と弱さを持つ人間の世界に、キリストは、その全ての負い目をその身に受け、信じる者の罪の赦しと義と永遠のいのちを与えるために十字架の死による救いを成し遂げられたのです。Ⅱコリント5:17には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。今、私たちが、イエス・キリストのうちにあるなら、古いものは過ぎ去り、全てが新しくされているのです。そして新しくされた者として上にあるものを求めてまいりましょう(コロサイ3:1~2参照)。

●2025年9月7日(日)礼拝メッセージ要旨 

今回は創世記を離れ、マルコ4:1~20からです。「百倍の実を結ぶ人」という題で学びましょう。

1.「キリストは、おびただしい群衆に種蒔く人のたとえ話をされる」①道端に落ちた種…鳥が来て食べてしまった。②岩地に落ちた種…すぐに芽を出したが、土が深くなかったので、日が上ると焼けて枯れてしまった。③いばらの中に落ちた種…いばらが伸びて、それをふさいでしまったので実を結ばなかった。④良い地に落ちた種は、芽生えて育って実を結び、30倍、60倍、百倍になった。

2.「たとえの説明を求めた12弟子とその他の人々」キリストだけになったとき、12弟子たちが、キリストにたとえの説明を求めました。すると、主は、イザヤ6:9~10を引用して、「それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」と言われ、弟子たちには「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」と厳しく言われました。

3.「たとえの説明」①道端に蒔かれるとは…鳥とはサタンのことで、みことばを聞いてもサタンにみことばを持ち去られてしまうのです。イザヤ書14章、黙示録18章には、サタンとか悪魔と呼ばれている存在について、「バビロン」と表現しています。紀元前6世紀頃栄えた当時の大帝国です。つまり、この世の権力、栄華の背後でそのサタンが操っているということです。人間は自分の力でサタンに打ち勝つことは出来ません。しかし、サタンはイエス・キリストの父なる神にはかないません。ですから、今日、私たち人間は、イエス・キリストを信じる信仰によってサタンの偽りを見抜き、勝利することが出来ます。この世の多くの人々は、まず、サタンの存在そのものを否定し、サタンの偽りにまんまと騙されています。例えば偶像礼拝などは、サタンの偽りに騙された人の典型的な姿です。

②岩地に蒔かれるとは…みことばを聞くと喜んで受け入れるが根を張らないで、困難、迫害があるとすぐつまずいてしまう人のことです。あらゆるスポーツ競技でも言えることですが、競技中は、勝ったり負けたり、チャンスになったりピンチになったりするものです。ピンチの度に動揺していたら勝てません。ピンチがあるのは当たり前です。同じように、私たちの人生もどんなときも主に信頼し、主を待ち望んでいきましょう。(※但し、「主の祈り」にあるように、「試みに会わせず悪よりお救いください」と謙虚に祈ることも大切です。)

③いばらの中に蒔かれるとは…みことばを聞いてはいるが、世の心遣いや富の惑わし、その他色々な欲望が入り込んでみことばを塞ぎ、実を結ばない人です。先日YouTubeの某キリスト教番組で、「信仰的な成長を妨げる5つの心」というようなタイトルの教えがありました。それは「1.不平不満のこころ 2.過去への執着心 3.信仰よりも先々の心配が優先する心 4.感謝しない心 5.神の時まで待てない心」です。結局、「誰が何て言ったか」ではなく、「聖書は何と言っているか」そこに立っていくということです。

④良い地に蒔かれる…みことばを聞いて受け入れる人は30倍、60倍、百倍の実を結びます。先の道端、岩地、いばらの中の3つの地は、みことばを聞くには聞くのですが、最後の「良い地」は、みことばを聞いて受け入れる人のことです。「みことばを受け入れる」、誰かと比べて成功するとかしないではなく、それぞれに真の神から与えられた使命の中で神の栄光を現わすのです。Ⅰコリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。天の神様の評価は、この世の評価とは異なります。私たちは益々聖書のみことばを蓄え、小さなことでも主がお喜びになること、主の栄光となることを求めてまいりましょう。