●2024年2月11日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネ第一の手紙3:13~24から「互いに愛し合う」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.死からいのちに移った…イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは永遠のいのちを得ます。そうかと言って、その永遠のいのちを受けたクリスチャンであっても、日々「永遠のいのち」を意識して生活するということはありません。しかし、何かが起こった時、例えば大災害や病気などにより、自分や身近な人に命の危険が襲ってきたならば、直ちに日常の生活はストップし、「死」ということ、そしてそれに関連して、たましいのことに思いが及ぶのではないでしょうか。ですから、私たちは、自分と自分の回りの人々のたましいのことについて、日頃から気にかけておく必要があります。さて、この聖書の個所では「神の愛」ということに焦点を当てています。私たちがキリストによって永遠のいのちを受けているなら、必然的に「神の愛」も心に受けているということになります。使徒の働き2:38でペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言っています。それは、キリストを信じる信仰によって、その人の心に聖霊が注がれ、その聖霊によって永遠のいのちと神の愛が与えられているのです。

2.神の愛の実践…第一ヨハネ3:16はヨハネの福音書3:16と並んで有名な聖句と言われております。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とあります。クリスチャンの小説家・三浦綾子さん著の「塩苅峠」は有名で、映画化されてもいます。その小説のモデルとなった長野政雄さんは、北海道の塩苅峠を走る汽車に乗っていました。機関車と客車の連結が外れ、客車が坂道を逆走して下って行くのを、自分の体を犠牲にして客車を止め、乗客を守ったのです。長野さんはクリスチャンで、いつも「余は感謝して全てを神に捧ぐ。苦楽生死均(ひと)しく感謝。」と書いた書をいつも携帯していたそうです。これは極めて特別な事例ですが、その精神(スピリット)は受け継ぎたいところです。17節には「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉ざすな」と言う内容が記されていますが、助けたいと思っていても、その、世の富を持っていなければ兄弟を助けることはできません。要するに、出来ることしか出来ないので、出来ることを行なえばよいのです。私たちは、接する回りの人々に対して、神の愛により、自分の出来る最善を行ない、またその人の幸いを祈り求めましょう。

3.互いに愛し合う…もし、世界中の人々が互いに愛し合うなら、決して地球上に戦争は一つも起こらないでしょう。しかし、現実に戦争が現在進行しています。ロシアとウクライナ、そしてハマスとイスラエルなどです。よく注視しますと、戦争や小競り合いなどは、大抵、お隣同士の国と国で起こっています。時々耳にしますが、家と家、案外お隣同士が仲たがいしているケースもあります。本当は、ご近所、また身近な家族や毎日出会う人ほど仲良くしたいですね。もちろん、相性もありますから、無理することはないですが、少なくとも仲たがいや小競り合いなどは回避すべきです。コロサイ3:12~13には「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」とあります。赦し合い、愛し合い、誰とでも仲良くしましょう。「互いに愛し合う」ということは神の命令です。ヨハネ12:50でキリストは「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。」と言っておられます。つまり、究極的に、聖書で「愛する」ということはイエス・キリストの救い、永遠のいのちを伝えることでもあります。

●2024年2月4日(日)礼拝メッセージ要旨  

ヨハネ第一の手紙3:1~12から「私たちは神の子どもです」という題でポイント3つ上げていきます。  

1.私たちは神の子どもです…天の父なる神様が、素晴らしい愛を与えてくださったので、この神の愛を受け入れた人々は神の子どもとされています。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。また、マルコ16:16には「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」ともあり、救い主イエス・キリストを信じ、そのことを公にするバプテスマによって、神の子どもとなるのです。山形県尾花沢市で伝道しているエドワーズ夫妻が山形新聞に掲載されている写真の中に写り込んでいました。大相撲初場所で琴の若が大活躍したので、市民を集め、千秋楽の様子を尾花沢市の某会場で大画面テレビ観戦応援をしたのです。ここ二、三年前、筆者は、エドワーズ夫妻に「尾花沢は琴の若の父親である先代・琴の若の郷里だから…」と再三に言っていましたが、そのことを覚えていたのでしょうか。夫妻は尾花沢市で伝道しているのですから、そういった行動が伝道の良いきっかけとなるでしょう。聞いたことを行動に反映させる。聖書のみことばなら、なおさらそうです。さて、神の子どもには特権があります。詩篇4:3には「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。」とあります。また、やがてキリストの来臨のときには、キリストのありのままの姿を見るという、正に素晴らしい特権が与えられているのです。

2.神の子どもと悪魔の子ども…聖なる真の神様の支配下で過ごすということは、第一に心の平安、そして喜びがあり、何のために生きるのかという充実感もあります。第一コリント10:31には「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。逆に、悪魔の支配下にあるなら、まるで羅針盤の無い(最新の船舶のことは知りませんが)船で大海の中を右往左往するようなものです。もう一点、6節と9節には「神の子ども、すなわちキリストのうちにとどまる者、神から生まれた者は罪を犯さない」ということが記されています。「え?」と思う人がいるでしょう。というのは同手紙の1:10には「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」とあり、矛盾とも受け取れるからです。しかし、同手紙の5:16には「死に至らない罪」と「死に至る罪」ということが指摘されています。そうかと言って、どこからどこまでが、その境界線となるのかというと非常に微妙な問題になってきます。一つのヒント(目安)として言えることは、マルコ3:29でキリストが「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」と言っておられます。

3.義を行なう…第一ペテロ2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。神の子どもは、聖なる神に選ばれた神の民であり、王である祭司として神と人との間に立って執り成しをする役目を担っています。確かに、神の子どもと言っても、この見える世界においては無力なただの人にしか見えないでしょう。しかし、全知全能の真の神の視点、つまり、霊的な世界から見れば、キリスト者は王である祭司ですから非常に高い身分にあるということです。ですから、私たちはそういった自覚を持つべきです。もちろん、そうかと言って、この世にあるかぎり、謙遜に神と人とに仕え、福音の証し人となりましょう。

●2024年1月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヨハネ第一の手紙2:18~29から「今は終わりの時です」という題でポイント3つ上げていきます。

1.反キリスト…ちょっと混同しやすい言葉として「偽キリスト」があります。マタイ24:5では「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあって、確かに「自分がキリストであると名乗る人物」があちらこちらで現れています。一方、この反キリストは、22節で「偽り者とはイエスがキリストであることを否定する者である」と言っています。同じヨハネ第一の手紙4:3には「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。今では三位一体ということが、教理的な正統性を表わす基準とされています。神は唯一でありながら、父、子、聖霊の三位一体なる方であるということですが、子なるイエス・キリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われ、さらにヨハネ14:6では「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とも言っておられ、子なるイエス・キリストを通して全知全能の真の神に連なることができるのですから、イエス・キリストが告白されなければ、そこに真理はありません。

2.聖なる方からの油注ぎ…油注ぎというのは聖霊のことでしょう。私たちが神に属する者とされるのは、聖霊の働きによるのです。ローマ10:17に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とありますが、信仰は「みことばを聞く」ことから始まります。パウロ(当時サウロ)は、キリスト者を捕縛するためにエルサレムからダマスコへの途上で、聖霊なるキリストにお会いし、いきなり改心してキリスト者になりました。ということは、パウロは全く神のことばを聞くことなくキリスト者になったのでしょうか。そうとは言えません。パウロはステパノ殉教の時、石打をする者たちの着物の番をしていましたから、おそらくステパノの話を聞いていたでしょう。そのことが、パウロの救いに少なからず関連しているに違いありません。今日、私たちは、聖なる方からの油注ぎ、つまり聖霊に触れていただくために、聖書のみことばに聞きましょう。そして、マタイ7:7には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とありますから、よくお祈りしましょう。

3.キリストのうちにとどまっていなさい…キリストのうちにとどまるとは、イエス様を信じ続けることですが、そのために悪癖などは改めたほうが良いに決まっていますが、変えてはいけない良い習慣はやはり保っていかねばなりません。ダニエル書6章で、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた記事があります。当時ダニエルはペルシャの国でダリヨス王の次の位の三大臣の一人でした。しかも彼は並外れて優れていたので他の大臣たちに妬まれました。ダニエルを何とか失脚させようとする者たちは悪知恵を使い、ダニエルが真の神に熱心に仕えていることを逆に利用して、「今から30日間、王様以外のものに祈願する者は誰でも獅子の穴に投げ込まれる」という法律を考え出し、王に署名してもらいます。そのことを知っていて、ダニエルは、いつものように日に三度ひざまずいて祈ります。悪者たちは、申し合わせてダニエルを王に訴え、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれます。しかし、ダニエルは何の害もうけず、翌朝、穴から引き上げられ、逆にダニエルを訴えた悪人どもが獅子の穴に投げ込まれてしまいます。やがてキリストの来臨のときが訪れます。そのとき「御前で恥じ入るということのないため(28節)」、私たちは、キリストのうちにしっかりと、とどまっていましょう。   

●2024年1月21日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヨハネ第一の手紙2:1~17から「神のみこころを行なう」という題でポイント4つ上げていきます。

1.罪を犯さないようになるため…ヨハネは1節で「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と言っています。私たちが教会に集まり、聖書のみことばを聞くとき、何が善で何が悪かということを知るようになります。それまで聞いていた善悪の基準と多少は重なることもありますが、決定的な違いは「偶像礼拝」ということです。教会へ来る前は、偶像礼拝は良いことだと思っていた人もあるでしょうが「罪である」ということを認識します。しかも天地を創造した真の神に最も喜ばれない行為です。偶像礼拝は真の神を憎むことであり、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及びます。しかし、主を愛し、主の命令を守る者は恵みを千代にまで施されるのです。また、新約聖書においては、コロサイ3:5で「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあるように、心の中の「むさぼり」も偶像礼拝であると言っています。私たちは、この偶像礼拝という罪から解放され、真の神と共に生きる道、永遠の祝福の道を歩んでまいりましょう。

2.「光の中にとどまる」…先週の礼拝では、1章5節で「神は光であって暗いところが少しもありません。」とありました。そして、関連聖句としてイザヤ60:1~3から「暗やみが世を覆っているような昨今、霊的な目を覚まし、恐れることなく立ち向かって行こう。」と語りました。そして、そこから、今年の教会の標語として「起きよ。光を放て。」にしようと思っています。この第二ポイントでは「光の中にとどまる」です。「とどまる」というのは、守られること、つまり私たちの心の状態が守られるということです。箴言4:23~24には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。です。」とあります。人の心の中と口から出る言葉とは一体化しています。ですから、私たちは自分が語る言葉が真実で、前向き肯定的で、明るく優しく、愛のあるものでありたいと思います。

3.子どもたちよ…12~14節では「子どもたちよ。父たちよ。若者たちよ。」と様々な年代層に対して語っていますが、要するにイエス・キリストを信じたクリスチャンは「真の神を知り、罪が赦され、聖霊が共におられるので悪魔に勝利した」と言っています。この内容とほぼ似ている表現が使徒26:18です。パウロ(サウロ)は、エルサレムからダマスコ途上でキリスト(聖霊)に出会い、「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」と言われました。それは正に、今日の私たちも受け取る大きな恵みです。私たちは、この霊的な祝福に目を留めることによって、却って、この世においても祝福を受ける(マタイ6:33参照)のです。

4.世と世の欲は滅び去ります…私たちは、生活する上で様々な物品を所有していることでしょう。それはそれで与えられているものに感謝しましょう。でも、あれが欲しい、これが欲しいと必要以上に物欲を持つべきではないでしょう。17節には「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」とあります。世にある物にではなく、「神のみこころを行なう」ことに心を留めましょう。天の神様が私たちを祝福しようと待っておられるのではないでしょうか。私たちは神を求め、神のみこころ求めましょう。そして、神に従順に従い、神のみこころを行なうならば、主はその人のことを喜び、その人を通して主の栄光が現われるのではないでしょうか。

●2024年1月14日(日)礼拝メッセージ要旨

ヨハネ第一の手紙1:1~10から「光の中を歩む」という題でポイント3つ上げていきます。

1.いのちのことば…この手紙の著者ヨハネは、キリスト12弟子の一人です。しかも、その中でキリストに最も近い弟子の一人と言えます。あのマタイ17章で高い山にキリストが登られたとき、ヨハネはペテロとヤコブとともに同行し、キリストの変貌のお姿を見ています。1節でヨハネは、キリストについて「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と表現していますが、3年以上、主と生活を共にしたのですから、驚くべき体験です。ヨハネがそのことを証しし、いのちのことばであるキリストの永遠のいのちを伝えようとしているのです。そして、3節で、自分が見たこと聞いたことを伝えるのは、それを聞いた人々が御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つためだ、と言っています。つまり神と交わるということです。そのことについて、キリストご自身のことばであるヨハネ17:21には「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。私たちがキリストを信じて神と交わるとき、聖霊がその人の内におられ、喜びが全きものとなるのです。

2.「光の中を歩む」…神は光であって暗いところが少しもありません。私たちがやがて天の御国に入らせていただくならば、そこには太陽はありません。主なる神ご自身が光であって、太陽が不要だからです。黙示録22:5に「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」とある通りです。しかし、この地上においては太陽の下で暮らさねばなりません。5~7節の光と闇とは、霊的な光と闇のことを言っています。ガラテヤ5:19~23によると、霊的な闇とは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興など」です。一方、霊的な光とは御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。今の時代は混沌としていて闇の力がこの世界を覆い尽くそうとしているように見えます。しかし、皆さん。イザヤ60:1~3には「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。闇の力を恐れることはありません。霊の目を覚まし、主なる神を信じて立ち上がりましょう。ローマ12:21には「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。イエス・キリストを信じ、神の光を輝かせましょう。

3.自分の罪を言い表すならば…第一のポイントで、「神と交わるならば喜びが全きものとなる」と話しました。神と交わるということは「神と和解すること」です。もうすでに、天の父なる神様は、御子イエス・キリストを世に遣わし十字架の救いを完成しておられます。つまり、和解の握手をするとすれば、神様の側では握手の手を差し出しておられるのです。私たちがそれに応答し、手を差し出して神様と握手して和解するのです。すなわち、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、悔い改め、自分の罪を言い表すのです。詩篇51:17には「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。天の神様は、私たちが悔い改めることを喜び、そのことを高く評価してくださるのではないでしょうか。そしてヘブル10:17に「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」とあるように、悔い改めた人の罪を咎めることはありません。しかし、心の中に、何か迷いや悩みがあるなら、それは告発者である敵対する勢力(黙示録12:10~11)の影響かもしれません。そのようなときは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます(7節)。」というみことばの約束に立ち続けることです。

●2024年1月7日(日)礼拝メッセージ要旨  

第二ペテロ3:1~18から、「千年は一日のようです」という題でポイント3つ上げていきます。

1.今の天と地は火で焼かれる…1月1日午後4時頃、能登半島地域で大きな地震がありました。次の2日、今度は羽田空港で旅客機と海上保安庁の機体とが接触し両機とも炎上するという大事故が起きました。新年早々、まさかこんなことが起きるとは、と誰もが思ったことでしょう。それらの災害と事故に遭われた方々には何とも気の毒で、慰めと回復を祈ります。ルカ21:10~11には「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」とありますように、聖書が言っている通りのことが、現実的に起こっているのではないでしょうか。私たちは、こういった現象を見聞きして、どのように受け止めたら良いのでしょうか。天地を創造した真の神様は、私たち人間に沢山の恵みを与えてくださっています。でも、真の神様は、恵みだけをいつまでも、ただ与え続けるだけのお方ではありません。神様は、私たち人間が、創造主である神様を恐れ、受けた恵みに感謝して生きることを願っておられるのではないでしょうか。第二コリント6:1~2には「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」とあります。やがて、この天地が完全に滅びる時が来ます。もし、恵みが与えられているなら、それはイエス・キリストの救いを受け入れるためにあるのではないでしょうか。「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」という聖書のみことばに心を留めましょう。

2.「千年は一日のようです。」…今年は2024年です。それはイエス・キリストの降誕を起点として数えられています。キリスト以前はどうなっているでしょうか。アダムからノアの大洪水までが1656年です。またアダムからアブラハムの75才までは2085年です。しかし、それ以後は聖書に歴代の人物の子を生んだ年齢などが記されていないので、詳細は不明です。但し、アブラハムの時代は歴史的に逆から数えてBC2000年頃、ダビデ王の時代はBC1000年頃であるとされていますので、アダムからキリスト降誕までは、おおよそ4000年(あくまでも推定)ということになります。8節で「千年は一日のようです」とあり、ヘブル4:1には「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」とあります。すなわち、一週間の七日間は7千年、最初の6千年は活動期、最後の千年は神の安息、千年王国(黙示録20:1~6)となります。もし、アダムからキリストまでが仮に4000年とすれば、今はアダムから6024年となり、もう既に活動期の6000年を24年も超えていることになります。主はあわれみ深く、情け深い方であり、怒るのに遅く恵み豊かな方です。一人でも滅びることを望まず、忍耐に忍耐を重ねて待っておられるのです。

3.神の日の来るのを待ち望む…私たちは、イエス・キリストの救いを受けて、やがて天の御国に入れられるならば、それは大きな恵みで、たとい体裁はどうであれ、それでよいとも言えます。しかし、聖なる神様は、私たちがキリスト者として立派に輝いて歩んでほしいと願っておられることと思います。11~12節では、「聖い生き方をする敬虔な人であれ。神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めよ。」と言っています。それは9節で、「主は全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」のですから、もし、世界中の人全員がキリストに立ち返るならば、すぐにでも神の日が来るということです。マタイ24:14には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」とあります。この2024年、私たちは、みことばと祈りに励み、聖霊に満たされ、神の日の来るのを待ち望みつつ御国の福音を宣べ伝えましょう。

●2023年12月31日(日)礼拝メッセージ要旨

今日は大晦日、2023年最後の日、明日は新年です。そこで、年末年始に向けてのメッセージということで、詩篇103篇1~5(1~22)から「良いもので満たされる」という題で、ポイント3つ上げていきます。

1.「賛美と感謝」…1節で「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」とあります。私たちが、この世界を創造された全知全能の真の神様をほめたたえる、また賛美することは素晴らしいことです。詩篇145:3には「は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。」とありますように、賛美されるべき方、つまり偶像の神々(人の手による像など)や死んだ人やこの世の権力者などではなく、私たち人間を生かし、この世界と宇宙を統べ治めておられる絶対的な真の神を礼拝すべきです。大晦日は108つの煩悩を除去するために除夜の鐘が鳴らされるとしています。煩悩とは仏教用語で煩いや悩みのことです。しかし、2節では「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。第一テサロニケ5:18にも「すべてのことに感謝しなさい」とあります。私たちは、全能の神の御手の中で日々を過ごさせていただいておりますから、つぶやくこを止めて、むしろ感謝しましょう。主を賛美し、感謝するところに主の祝福があるのです。

2.「良いもので満たされる」…3~5節には、主が私たちに沢山の恵みを与えてくださるということが記されています。要約しますと「咎を赦し、病をいやし、贖い、冠をかぶらせ、良いもので満たし、新しくなる」のです。第三ヨハネ2節には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。先日、筆者のもとに、仙台市から3.11東日本大震災で被災した人々への健康調査票が届きました。肉体的な健康状態、精神的な状態、アルコール摂取量などを答える項目がありました。今のところ、特に体調に問題はなく、どの質問も「なし(問題なし)」という答えばかりで、感謝しました。もちろんアルコールは全くしませんのでそちらの心配もありません。但し、健康調査の方はそれで良しとしても、筆者の心の中に何の問題も無いということではありません。やはり、この世に生きている以上、色々なプレッシャーを感じたり、何かのことで「こうすればよかった」と後悔することもあります。また、心がざわざわすることがあります。でも、私たちには「祈り」があります。特に朝の祈りをするうちに、心が平安と喜びに変えられます。また、自分に出来ることと出来ないことがあります。出来ないことは主にお任せすればよいのです。2023年もこれまで、賛美と感謝をしてきました。新しい2024年も今年以上に賛美と感謝を主にささげ、良いもので満たされましょう。そして、主が私たちをどれほどの祝福してくださるか期待しましょう。

3.主を恐れる者の上に…ポイント1,2では「主を賛美して感謝していれば祝福される」ということを語りましたが、確かに基本的にはそうであると言えます。但し、もう少し、深堀しますと、11節で「御恵みは、主を恐れる者の上に大きい」とあり、17~18には「主の恵みは、主を恐れる者の上に、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ」となっています。今、日本人スポーツ選手で世界的にも成功しているビッグ2を上げるとすれば野球の大谷翔平選手とボクシングの井上尚弥選手でしょう。二人に共通することは、それぞれ持ち分の競技に集中して、自分を成長させるための努力を惜しまないということではないでしょうか。それは、どの分野にも共通して言えることで、我々が彼ら二人から学ぶべき点だと思います。御恵みは、主を恐れる者の上に大きいのですから、私たちは主を恐れ、聖書のみことばに立って、主のみこころに従ってまいりましょう。また、第一テサロニケ5:2には「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」とあります。終末と言われている昨今、主の日がいつになるのかは、誰にも分かりません。新年を迎えるにあたり、毎日を主にあってリラックスし、喜び、楽しみつつも、良い意味で緊張感を保ちながら過ごしてまいりましょう。

●2023年12月24日(日)クリスマス礼拝メッセージ要旨  

★今年もクリスマスを迎えました。もう年末です。年末というと、一年を振り返ります。昨年、ロシアとウクライナの戦争が始まり、今も続いています。今年は穏やかな年になって欲しいと願っていましたが、10月7日にハマスがイスラエルに大規模攻撃を仕掛け、新たな戦争が起こってしまいました。早く平和が戻るように祈るばかりです。その一方で、WBCで日本が世界一になるなど、明るい話題もありました。でも、喜んでばかりいられません。日本では政治が行き詰まっています。国民のための政治ではなく、お仲間のための政治が横行しています。政治と財界が一体化し、その配下にある大手メディアが殆ど政権批判をしなくなり、むしろ、政権批判する野党を攻撃して、与党を援護しています。テレビしか見ていない人は、テレビの情報を鵜呑みにし、それを基準に物事を考えます。何が正しいのか、それぞれ、しっかりと情報を見極めていかねばなりません。

★つまり、私たちは、しっかりとした人生の土台の上に立って、自分の生活をしていかねばなりません。坂戸市の教会で伝道してこられた村上宣道牧師は1933年生まれ、戦時中、学校で「天皇陛下は現人神である」と教えられていました。終戦となり、夏休みが終わって学校に行くと、担任の教師が「いやあ、天皇は神だと言っていたけれども、どうも違うらしい。やっぱり我々と同じ人間だ。」と言うのを聞きました。当時の村上少年は、そんなに簡単に言っていることが変わってしまったので、子どもながらに驚いたとのことです。

★しかし、聖書は、変わらない真実な神のことばが書いてあります。創世記1:1には「初めに神が天と地を創造した」とあります。学校では、この世界は偶然に出来上がったと教えられます。「偶然に出来た」「進化した」と何度も何度も聞いていれば、それが本当だと思っても致し方ないとも言えますが、でもそのことをもっと真剣に考えるべきです。例えば、太陽と地球の距離は14,960万キロメートルです。その距離が5%近いと地球は干上がってしまいます。1%遠いと地球は凍ってしまいます。また地球は公転軸に対して23.4度傾いています。それによって、いい塩梅に季節の変化があります。それらを偶然の結果として片づけてしまうとは愚かなことです。この宇宙と世界を統べ治めておられる本当の、正しくて、あわれみ深くて、真実な神様がおられて、この神様が、そのひとり子イエス・キリスト様を、世の救い主として遣わして下さったということが、ヨハネ1:1~12に書いてあるのです。

★イエス様は、すべての人を照らすために世に来られました。数年前、「バカの壁」というベストセラー本を出した養老孟司という医師であり作家である方の講演をYouTubeで視聴しました。ご自分は病院には行かないとのこと。つまり、年を取れば体が衰退するのは当たり前で、それを治そうと病院に行っても無駄ということなのだそうです。また年を取れば睡眠時間も少なくなり、それを少なくなったと心配する必要はないということなのです。その辺までは、とてもためになるお話しだと思いますが、でもやっぱり、人間は死を免れることはできません。しかし、聖書は、そこから先に希望があることを教えています。イエス・キリストがこの世に遣わされたのは、この方を信じる者が滅びないで永遠のいのちを持つためです(ヨハネ3:16)。永遠のいのち、すなわち天の御国は光り輝くところ、そこにいる人々は皆若々しく、美しく、永遠に楽しく過ごす、正に筆舌に尽くしがたい祝福の場所です。

★但し、ここで大きな問題があります。天国は聖なる美しい場所。そこには汚れた人、罪人は入ることはできません。大抵の人は、真面目に生きています。だから自分は正しいと思っています。回りにいる人々と比べて、自分のほうが良い人間だ、と思うものです。でも、この世の中に正しい人間は一人もいません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)」と聖書が言っている通りです。罪人は滅ぼされます。その行き着く先は永遠の滅びの刑罰です。ですから、イエス様が救い主として来てくださったのです。ヨハネ1:12には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。難しいことは不要です。ただ、救い主イエス様を信じて受け入れるだけです。すなわち、イエス様の名まえを呼び求めるだけでよいのです。筆者は、1976年4月26日にイエス・キリストを信じ受け入れました。すると、心の中に何とも言えない安心感と喜びが入って来ました。クリスマス、それは天の神様から私たち全てに救い主イエス・キリストが与えられたことを記念して喜び祝う日です。

●2023年12月17日(日)礼拝メッセージ要旨 

当教会では来週12月24日はクリスマス礼拝です。本日はその一週間前ということで、プレ・クリスマス礼拝として、既に、イエス・キリストを信じ受け入れたクリスチャンにとってのクリスマスの迎え方、そういったテーマで、ルカ2:22~40からポイント3つ上げていきます。

1.クリスマスと再臨…一般的にクリスマスは12月25日とされていて、キリスト教会においてもその日を主の降誕日としています。但し、それは聖書には記されていないことであって、歴史の中で、当時の中心的なキリスト教会が決めたことです。それは、全てを支配しておられる全能の神が、そのことを許されていると受け止めるべきでしょう。そうかと言って、さて、本当に12月25日なのか、と問い詰めるならば、その可能性は低いとも言えるでしょう。もう20年以上も前、あるキリスト教月刊誌に「メシアニックジューと言われるユダヤ人キリスト者の見解では、降誕はイスラエル人が守るべき年三度の祭りのうちの仮庵の祭りの頃というのが定説になっている」という記事を読みました。その裏付けとして、第一歴代誌24章10節が引用されていました(ここでは長くなるのでこれ以上は省略します)。もちろん、それは可能性としては強いかもしれませんが、あくまでも推測です。そこで、それらのことから筆者が結論づけたことは、全能の神は、あえて主の降誕の時期を明らかにされなかったのではないかと思うのです。つまり、主の降誕は初臨であり、今後、起きるであろう再臨と重ね合わせて受けとめる人が出て来る可能性を否定できません。マタイ24:36には「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」とあり、主は極力、再臨の日の特定をすることを是としていません。それは、私たちが、毎日毎日、良い意味で緊張感をもって生活するためでもあるということでしょう。この第一ポイントの最後はヘブル9:28で締めくくります。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

2.シメオン…シメオンは正しく敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいました。彼は聖霊に満たされ、主のキリストを見るまでは決して死なないと聖霊様に告げられていたのです。その頃、幼子イエス様が八日目の割礼を施され、きよめの期間が満ちて、男子の初子としての聖別のために宮に来た時、シメオンは御霊に感じて、それが救い主キリストであることを察知しました。そして、幼子を腕に抱き、ルカ2:31~32では「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と預言的に語っています。そのあと、両親を祝福し、母マリヤに対しては35節で「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」と語り、まさしく、三十数年後のキリストの十字架を暗示しています。私たちも、このシメオンのように、キリストの御降誕を覚えつつも、次の来臨(再臨)を待ち望んでいきましょう。

3.アンナ…女預言者アンナは84才。7年間の結婚生活のあと、やもめとなって宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていました。彼女も、先に語ったシメオンのことばを聞いていたことでしょう。彼女は女預言者ですから、やはり、幼子イエス様について詳しく語ったことでしょう。その三十数年後、キリストはヨハネ8:12で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言っておられます。本日は、クリスマスに因んでメノラー(燭台)を会堂に出しました。これは、出エジプト25:31~32で記されているものとほぼ同じ形をしたもので、BFPというキリスト教団体から贈呈していただいたものです。もちろん、そのメノラーそのものは実質的に明かりを照らす役割を果たすことはありませんが、そのメノラーがキリストによって成就したという可視的役割を果たしていると言えるでしょう。もちろん、装飾品としての価値もありますが。今日、世界は混沌とし、暗い気持ちにさせられることが多いのですが、黙示録22:11には「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」とあります。私たちは、キリストに従い、みことばと祈りに励み、光の中を歩んでまいりましょう。

●2023年12月10日(日)礼拝メッセージ要旨

第2ペテロ2:1~21から「こうなってはいけない」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.昔の世界を赦さず…ペテロは、当時の教会の中に、滅びをもたらす異端を持ち込む偽教師が現われることを警戒しています。彼らは好色、貪欲であり、作り事のことばをもって人々を食い物にするということですが、神は彼らを滅ぼします。また、罪を犯した御使いたちを容赦せず、地獄に引き渡しました。イザヤ14:12~15によりますと、それらの御使いたちは、自分がいと高き方のようになろうとしたので、よみに落とされたのです。我々人間も、神のようになろうとしたり、自分の思いや感情を物事の判断基準とするということは大きな誤りであり、それが罪です。罪は、新約聖書の原語であるギリシア語でハマルティアと言い、的を外すという原意があります。的外れな生き方が罪なのです。ですから私たちは、我欲や自己の感情ではなく、イエス様、聖霊様を心の王座に迎え、神中心の毎日を過ごしましょう。

2.義人ロト…アブラハムは父親たちと共にメソポタミヤからハラン、そしてハランからは甥のロトを伴い、カナンの地に来て、そこに定住します。やがてそれぞれの持ち物が多くなると、アブラハムの提案により、ロトとは別々の場所に移ります。ロトは当時、主の園のように潤っていたソドムとゴモラの地を選び、そこに移動しました。しかし、その地には悪がはびこり、神のさばきを受けることになります。二人の主の使いがソドムを訪れたとき、ロトは彼らと出会い、自分の家に招き入れます。すると、ソドムの人々が集まってきて、ロトの家を取り囲み、客人(主の使い)を引き渡すように脅すのです。危険な状態になったとき、主の使いが彼らに目つぶしを食らわせて、難を逃れます。結局、ロトとロトの娘二人が逃げた後に硫黄の火がソドムとゴモラを滅ぼします。8節で、ロトは、ソドムにおける人々の不法な行ないを見聞きして、心を痛めていたのです。それゆえにロトは義人と呼ばれています。5節では、大洪水の前に、ノアの家族に対し、「義を宣べ伝えたノアたち八人の者」と言っています。また、9~11節では、「主は敬虔な者たちを救い出し、肉に従って歩み、尊大な者たちを懲罰に置くことを心得ておられる。それに比べ、御使いたちは、勢いにもまさっているにもかかわらず、主の前に、彼らをそしって訴えることをしない。」と言っています。私たちも、ロトのように不法を見聞きして心を痛め、ノアの家族のように義を宣べ伝え、御使いたちのように人をそしらず、主のさばきにお委ねする者でありたいと願います。

3.バラムの道…民数記22章にバラムのことが記されています。当時、出エジプトしたイスラエル人はモアブの地に宿営していました。モアブの王バラクは自分たちの国に危害が及ぶのを恐れ、バラムを招いてイスラエル人を呪ってもらおうと考えました。使いを遣わしてバラムを招こうとしますが、バラムは神に「行ってはいけない。イスラエルは祝福されているので呪ってはいけない。」と言われて、応じません。バラク王は、今度は人数を増やし、高い位の使いを遣わします。バラムとしては、既に答えは出ているのですが、再び、主に伺います。すると主はモアブに行くことを許します。翌日、バラムがロバに乗って出かけようとするとロバが動こうとしません。ロバには抜身の剣を持った主の使いが見えていたのですが、バラムには見えていなかったのです。そんなこともありながら、バラムはモアブに出かけます。ペテロは、ここで「バラムの道」と表現していますが、バラムは、その心の根底に不義の報酬を愛していたのです。救い主イエス・キリストによって世の汚れから逃れたものの、再び巻き込まれて征服される、というようなことがないように、私たちは十分注意しなければなりません。世の光ラジオ放送関連で「いのち輝かせて」というメッセージ集が出版されています。その中に山本陽一郎牧師のメッセージが入っています。山本牧師は1974年生まれ、教会に行っていたものの、若いころ色々あって、教会からも神様からも離れていた時期があったそうです。あることがきっかけで久しぶりに教会へ行ったのです。恐る恐るドアを開けると、一人がそれに気づき、「陽ちゃん!」と言ってダーッと駆け寄って、他の皆も泣きながら「よく帰って来たね。ずっと待っていたんだよ」と言って、祈っていたというのです。山本牧師、今は、牧師として用いられているようですから、本当に良かったですね。私たちは、この世において様々な誘惑、霊的な戦いもあります。いつも主を見上げ、主に助けられながら元気に過ごしてまいりましょう。