●2024年1月28日(日)礼拝メッセージ要旨 

ヨハネ第一の手紙2:18~29から「今は終わりの時です」という題でポイント3つ上げていきます。

1.反キリスト…ちょっと混同しやすい言葉として「偽キリスト」があります。マタイ24:5では「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあって、確かに「自分がキリストであると名乗る人物」があちらこちらで現れています。一方、この反キリストは、22節で「偽り者とはイエスがキリストであることを否定する者である」と言っています。同じヨハネ第一の手紙4:3には「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」とあります。今では三位一体ということが、教理的な正統性を表わす基準とされています。神は唯一でありながら、父、子、聖霊の三位一体なる方であるということですが、子なるイエス・キリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われ、さらにヨハネ14:6では「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とも言っておられ、子なるイエス・キリストを通して全知全能の真の神に連なることができるのですから、イエス・キリストが告白されなければ、そこに真理はありません。

2.聖なる方からの油注ぎ…油注ぎというのは聖霊のことでしょう。私たちが神に属する者とされるのは、聖霊の働きによるのです。ローマ10:17に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とありますが、信仰は「みことばを聞く」ことから始まります。パウロ(当時サウロ)は、キリスト者を捕縛するためにエルサレムからダマスコへの途上で、聖霊なるキリストにお会いし、いきなり改心してキリスト者になりました。ということは、パウロは全く神のことばを聞くことなくキリスト者になったのでしょうか。そうとは言えません。パウロはステパノ殉教の時、石打をする者たちの着物の番をしていましたから、おそらくステパノの話を聞いていたでしょう。そのことが、パウロの救いに少なからず関連しているに違いありません。今日、私たちは、聖なる方からの油注ぎ、つまり聖霊に触れていただくために、聖書のみことばに聞きましょう。そして、マタイ7:7には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とありますから、よくお祈りしましょう。

3.キリストのうちにとどまっていなさい…キリストのうちにとどまるとは、イエス様を信じ続けることですが、そのために悪癖などは改めたほうが良いに決まっていますが、変えてはいけない良い習慣はやはり保っていかねばなりません。ダニエル書6章で、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた記事があります。当時ダニエルはペルシャの国でダリヨス王の次の位の三大臣の一人でした。しかも彼は並外れて優れていたので他の大臣たちに妬まれました。ダニエルを何とか失脚させようとする者たちは悪知恵を使い、ダニエルが真の神に熱心に仕えていることを逆に利用して、「今から30日間、王様以外のものに祈願する者は誰でも獅子の穴に投げ込まれる」という法律を考え出し、王に署名してもらいます。そのことを知っていて、ダニエルは、いつものように日に三度ひざまずいて祈ります。悪者たちは、申し合わせてダニエルを王に訴え、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれます。しかし、ダニエルは何の害もうけず、翌朝、穴から引き上げられ、逆にダニエルを訴えた悪人どもが獅子の穴に投げ込まれてしまいます。やがてキリストの来臨のときが訪れます。そのとき「御前で恥じ入るということのないため(28節)」、私たちは、キリストのうちにしっかりと、とどまっていましょう。   

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