●2023年12月10日(日)礼拝メッセージ要旨

第2ペテロ2:1~21から「こうなってはいけない」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.昔の世界を赦さず…ペテロは、当時の教会の中に、滅びをもたらす異端を持ち込む偽教師が現われることを警戒しています。彼らは好色、貪欲であり、作り事のことばをもって人々を食い物にするということですが、神は彼らを滅ぼします。また、罪を犯した御使いたちを容赦せず、地獄に引き渡しました。イザヤ14:12~15によりますと、それらの御使いたちは、自分がいと高き方のようになろうとしたので、よみに落とされたのです。我々人間も、神のようになろうとしたり、自分の思いや感情を物事の判断基準とするということは大きな誤りであり、それが罪です。罪は、新約聖書の原語であるギリシア語でハマルティアと言い、的を外すという原意があります。的外れな生き方が罪なのです。ですから私たちは、我欲や自己の感情ではなく、イエス様、聖霊様を心の王座に迎え、神中心の毎日を過ごしましょう。

2.義人ロト…アブラハムは父親たちと共にメソポタミヤからハラン、そしてハランからは甥のロトを伴い、カナンの地に来て、そこに定住します。やがてそれぞれの持ち物が多くなると、アブラハムの提案により、ロトとは別々の場所に移ります。ロトは当時、主の園のように潤っていたソドムとゴモラの地を選び、そこに移動しました。しかし、その地には悪がはびこり、神のさばきを受けることになります。二人の主の使いがソドムを訪れたとき、ロトは彼らと出会い、自分の家に招き入れます。すると、ソドムの人々が集まってきて、ロトの家を取り囲み、客人(主の使い)を引き渡すように脅すのです。危険な状態になったとき、主の使いが彼らに目つぶしを食らわせて、難を逃れます。結局、ロトとロトの娘二人が逃げた後に硫黄の火がソドムとゴモラを滅ぼします。8節で、ロトは、ソドムにおける人々の不法な行ないを見聞きして、心を痛めていたのです。それゆえにロトは義人と呼ばれています。5節では、大洪水の前に、ノアの家族に対し、「義を宣べ伝えたノアたち八人の者」と言っています。また、9~11節では、「主は敬虔な者たちを救い出し、肉に従って歩み、尊大な者たちを懲罰に置くことを心得ておられる。それに比べ、御使いたちは、勢いにもまさっているにもかかわらず、主の前に、彼らをそしって訴えることをしない。」と言っています。私たちも、ロトのように不法を見聞きして心を痛め、ノアの家族のように義を宣べ伝え、御使いたちのように人をそしらず、主のさばきにお委ねする者でありたいと願います。

3.バラムの道…民数記22章にバラムのことが記されています。当時、出エジプトしたイスラエル人はモアブの地に宿営していました。モアブの王バラクは自分たちの国に危害が及ぶのを恐れ、バラムを招いてイスラエル人を呪ってもらおうと考えました。使いを遣わしてバラムを招こうとしますが、バラムは神に「行ってはいけない。イスラエルは祝福されているので呪ってはいけない。」と言われて、応じません。バラク王は、今度は人数を増やし、高い位の使いを遣わします。バラムとしては、既に答えは出ているのですが、再び、主に伺います。すると主はモアブに行くことを許します。翌日、バラムがロバに乗って出かけようとするとロバが動こうとしません。ロバには抜身の剣を持った主の使いが見えていたのですが、バラムには見えていなかったのです。そんなこともありながら、バラムはモアブに出かけます。ペテロは、ここで「バラムの道」と表現していますが、バラムは、その心の根底に不義の報酬を愛していたのです。救い主イエス・キリストによって世の汚れから逃れたものの、再び巻き込まれて征服される、というようなことがないように、私たちは十分注意しなければなりません。世の光ラジオ放送関連で「いのち輝かせて」というメッセージ集が出版されています。その中に山本陽一郎牧師のメッセージが入っています。山本牧師は1974年生まれ、教会に行っていたものの、若いころ色々あって、教会からも神様からも離れていた時期があったそうです。あることがきっかけで久しぶりに教会へ行ったのです。恐る恐るドアを開けると、一人がそれに気づき、「陽ちゃん!」と言ってダーッと駆け寄って、他の皆も泣きながら「よく帰って来たね。ずっと待っていたんだよ」と言って、祈っていたというのです。山本牧師、今は、牧師として用いられているようですから、本当に良かったですね。私たちは、この世において様々な誘惑、霊的な戦いもあります。いつも主を見上げ、主に助けられながら元気に過ごしてまいりましょう。

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