●2023年12月17日(日)礼拝メッセージ要旨 

当教会では来週12月24日はクリスマス礼拝です。本日はその一週間前ということで、プレ・クリスマス礼拝として、既に、イエス・キリストを信じ受け入れたクリスチャンにとってのクリスマスの迎え方、そういったテーマで、ルカ2:22~40からポイント3つ上げていきます。

1.クリスマスと再臨…一般的にクリスマスは12月25日とされていて、キリスト教会においてもその日を主の降誕日としています。但し、それは聖書には記されていないことであって、歴史の中で、当時の中心的なキリスト教会が決めたことです。それは、全てを支配しておられる全能の神が、そのことを許されていると受け止めるべきでしょう。そうかと言って、さて、本当に12月25日なのか、と問い詰めるならば、その可能性は低いとも言えるでしょう。もう20年以上も前、あるキリスト教月刊誌に「メシアニックジューと言われるユダヤ人キリスト者の見解では、降誕はイスラエル人が守るべき年三度の祭りのうちの仮庵の祭りの頃というのが定説になっている」という記事を読みました。その裏付けとして、第一歴代誌24章10節が引用されていました(ここでは長くなるのでこれ以上は省略します)。もちろん、それは可能性としては強いかもしれませんが、あくまでも推測です。そこで、それらのことから筆者が結論づけたことは、全能の神は、あえて主の降誕の時期を明らかにされなかったのではないかと思うのです。つまり、主の降誕は初臨であり、今後、起きるであろう再臨と重ね合わせて受けとめる人が出て来る可能性を否定できません。マタイ24:36には「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」とあり、主は極力、再臨の日の特定をすることを是としていません。それは、私たちが、毎日毎日、良い意味で緊張感をもって生活するためでもあるということでしょう。この第一ポイントの最後はヘブル9:28で締めくくります。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

2.シメオン…シメオンは正しく敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいました。彼は聖霊に満たされ、主のキリストを見るまでは決して死なないと聖霊様に告げられていたのです。その頃、幼子イエス様が八日目の割礼を施され、きよめの期間が満ちて、男子の初子としての聖別のために宮に来た時、シメオンは御霊に感じて、それが救い主キリストであることを察知しました。そして、幼子を腕に抱き、ルカ2:31~32では「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と預言的に語っています。そのあと、両親を祝福し、母マリヤに対しては35節で「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」と語り、まさしく、三十数年後のキリストの十字架を暗示しています。私たちも、このシメオンのように、キリストの御降誕を覚えつつも、次の来臨(再臨)を待ち望んでいきましょう。

3.アンナ…女預言者アンナは84才。7年間の結婚生活のあと、やもめとなって宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていました。彼女も、先に語ったシメオンのことばを聞いていたことでしょう。彼女は女預言者ですから、やはり、幼子イエス様について詳しく語ったことでしょう。その三十数年後、キリストはヨハネ8:12で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言っておられます。本日は、クリスマスに因んでメノラー(燭台)を会堂に出しました。これは、出エジプト25:31~32で記されているものとほぼ同じ形をしたもので、BFPというキリスト教団体から贈呈していただいたものです。もちろん、そのメノラーそのものは実質的に明かりを照らす役割を果たすことはありませんが、そのメノラーがキリストによって成就したという可視的役割を果たしていると言えるでしょう。もちろん、装飾品としての価値もありますが。今日、世界は混沌とし、暗い気持ちにさせられることが多いのですが、黙示録22:11には「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」とあります。私たちは、キリストに従い、みことばと祈りに励み、光の中を歩んでまいりましょう。

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