●2023年12月10日(日)礼拝メッセージ要旨

第2ペテロ2:1~21から「こうなってはいけない」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.昔の世界を赦さず…ペテロは、当時の教会の中に、滅びをもたらす異端を持ち込む偽教師が現われることを警戒しています。彼らは好色、貪欲であり、作り事のことばをもって人々を食い物にするということですが、神は彼らを滅ぼします。また、罪を犯した御使いたちを容赦せず、地獄に引き渡しました。イザヤ14:12~15によりますと、それらの御使いたちは、自分がいと高き方のようになろうとしたので、よみに落とされたのです。我々人間も、神のようになろうとしたり、自分の思いや感情を物事の判断基準とするということは大きな誤りであり、それが罪です。罪は、新約聖書の原語であるギリシア語でハマルティアと言い、的を外すという原意があります。的外れな生き方が罪なのです。ですから私たちは、我欲や自己の感情ではなく、イエス様、聖霊様を心の王座に迎え、神中心の毎日を過ごしましょう。

2.義人ロト…アブラハムは父親たちと共にメソポタミヤからハラン、そしてハランからは甥のロトを伴い、カナンの地に来て、そこに定住します。やがてそれぞれの持ち物が多くなると、アブラハムの提案により、ロトとは別々の場所に移ります。ロトは当時、主の園のように潤っていたソドムとゴモラの地を選び、そこに移動しました。しかし、その地には悪がはびこり、神のさばきを受けることになります。二人の主の使いがソドムを訪れたとき、ロトは彼らと出会い、自分の家に招き入れます。すると、ソドムの人々が集まってきて、ロトの家を取り囲み、客人(主の使い)を引き渡すように脅すのです。危険な状態になったとき、主の使いが彼らに目つぶしを食らわせて、難を逃れます。結局、ロトとロトの娘二人が逃げた後に硫黄の火がソドムとゴモラを滅ぼします。8節で、ロトは、ソドムにおける人々の不法な行ないを見聞きして、心を痛めていたのです。それゆえにロトは義人と呼ばれています。5節では、大洪水の前に、ノアの家族に対し、「義を宣べ伝えたノアたち八人の者」と言っています。また、9~11節では、「主は敬虔な者たちを救い出し、肉に従って歩み、尊大な者たちを懲罰に置くことを心得ておられる。それに比べ、御使いたちは、勢いにもまさっているにもかかわらず、主の前に、彼らをそしって訴えることをしない。」と言っています。私たちも、ロトのように不法を見聞きして心を痛め、ノアの家族のように義を宣べ伝え、御使いたちのように人をそしらず、主のさばきにお委ねする者でありたいと願います。

3.バラムの道…民数記22章にバラムのことが記されています。当時、出エジプトしたイスラエル人はモアブの地に宿営していました。モアブの王バラクは自分たちの国に危害が及ぶのを恐れ、バラムを招いてイスラエル人を呪ってもらおうと考えました。使いを遣わしてバラムを招こうとしますが、バラムは神に「行ってはいけない。イスラエルは祝福されているので呪ってはいけない。」と言われて、応じません。バラク王は、今度は人数を増やし、高い位の使いを遣わします。バラムとしては、既に答えは出ているのですが、再び、主に伺います。すると主はモアブに行くことを許します。翌日、バラムがロバに乗って出かけようとするとロバが動こうとしません。ロバには抜身の剣を持った主の使いが見えていたのですが、バラムには見えていなかったのです。そんなこともありながら、バラムはモアブに出かけます。ペテロは、ここで「バラムの道」と表現していますが、バラムは、その心の根底に不義の報酬を愛していたのです。救い主イエス・キリストによって世の汚れから逃れたものの、再び巻き込まれて征服される、というようなことがないように、私たちは十分注意しなければなりません。世の光ラジオ放送関連で「いのち輝かせて」というメッセージ集が出版されています。その中に山本陽一郎牧師のメッセージが入っています。山本牧師は1974年生まれ、教会に行っていたものの、若いころ色々あって、教会からも神様からも離れていた時期があったそうです。あることがきっかけで久しぶりに教会へ行ったのです。恐る恐るドアを開けると、一人がそれに気づき、「陽ちゃん!」と言ってダーッと駆け寄って、他の皆も泣きながら「よく帰って来たね。ずっと待っていたんだよ」と言って、祈っていたというのです。山本牧師、今は、牧師として用いられているようですから、本当に良かったですね。私たちは、この世において様々な誘惑、霊的な戦いもあります。いつも主を見上げ、主に助けられながら元気に過ごしてまいりましょう。

●2023年12月3日(日)礼拝メッセージ要旨  

第2ペテロ1:12~21から「作り話ではない」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.あなたがたを奮い立たせる…先週の日曜日11月26午後3:00~ゴスペルミリー(地域教会交流会)クリスマス会が行われました。もしかしたら、日本で一番早いクリスマス集会かもしれません。音楽プログラムは英国人女性宣教師によるハープ演奏。メッセージはコーナーストーンチャーチの中橋修牧師でした。最後に、ご自分の証しを語られ、浪人中に共産主義に傾倒し、宗教の撲滅、さらにキリスト教撲滅を掲げていたそうです。しかし、自分に福音を伝えてくれるクリスチャンと出会い、今では逆にキリスト教の牧師になってしまったというわけです。これからクリスマスを迎えることもあり、このクリスマスシーズンに向けて、「福音を伝えましょう」というお勧めでした。さて、この手紙のペテロは1:14で、殉教の時が近づいていることを感じ、残りの生涯を通し、自分の使命は、手紙の宛先のキリスト者を信仰的に奮い立たせることである、としています。伝道者の書11:4には「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。」とありますが、警戒ばかりして何もしないでいたら、人生終ってしまいますね。

2.作り話ではない…ペテロは、キリストの12弟子の一人です。しかも彼は積極的に発言をし、キリストとの会話の場面が聖書に多くあります。その一つが、変貌山の出来事です。キリストは、ペテロとヤコブとヨハネを伴い、高い山に登られたとき、そのお姿が変わり、衣は光のように白くなり、御顔は太陽のように輝きました。つまり、本来のお姿に戻られたのです。ペテロは作り話を言っているのではなく、確かにキリストの威光の目撃者なのです。この世は無神論を前提とした進化論の考え方が蔓延しています。15年以上前のことでしたが、ニュースか何かで、「20万年前にアフリカで、人類最初のミトコンドリア・イブという女性が出現した」という、全く何の科学的根拠もない説が発表されました。当時、それを聞いた筆者は憤りを覚え、自分が書いているブログ記事に「人類の起源の真実」という題で記事をアップしました。先日、その記事を元に、修正や加筆を施して手製トラクトを作成しました。筆者は、「ミトコンドリア・イブなど作り話である」と、なぜ言えるのでしょうか。それは、聖書の記事と全く異なるからです。聖書のことばには権威があり、そのまま真実であると確信しているからです。イザヤ34:16には「【主】の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、【主】の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」とありますように、今日まで多くの先人たちが聖書の編纂に関わってきました。その背後に主の御霊が働かれ、今、私たちの手元に、正に真実が記されている聖書が備えられているのです。

3.確かな預言のみことば…旧約聖書に書かれている預言の中には、例えば、イザヤ53章に記されているキリストの十字架の預言のように、既に成就したものもあります。また、これから起こるとされる記事もあります。ダニエル9:27には「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」とあり、これは、終末に現れる世界を統治する人物です。また、ルカ21:10~11には「それから、イエスは彼らに言われた。『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。』」とあります。もうすでに起こりつつある出来事もありますが、まだ起こっていない出来事もあります。そして、ルカ21:26~28には「人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」とあります。ペテロは、19節で、「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」と言っています。イエス・キリストを信じる者にとっては、どのような状況になろうとも恐れることはありません。主の再臨があり、それはキリスト者にとっては、救いの時となるからです。

●2023年11月26日(日)礼拝メッセージ要旨  

第2ペテロ1:1~11から「信仰には徳を~」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.尊い信仰…先週の23日(木)は、教会の礼拝堂、ロビーなどのワックスがけをしました。今回、当教会建物の内部を施工してくださった建築業者さんの無償提供によって、ワックス会社の方々が来られての作業が行なわれました。意外と大変なのがワックス作業に入る前の家具(聖具)の移動です。本日の礼拝では、全く先週の日曜日と同じですから、一週間、何事も無かったように見えます。しかし、長椅子などの大きな家具の大移動があったのです。何を言わんとしているのかと申しますと、今、私たちが住んでいるこの世界、昔からこのまま存在しているように思えるかもしれませんが、全知全能の真の神によって、天地創造があり、ノアの大洪水もありました。そして、イエス・キリストの預言通り、戦争、民族対立、大地震、疫病、飢饉、天からのすさまじい前兆が進行していくことでしょう。マタイ24:35には「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とあります。しかし、たとい天地が滅びたとしても、救い主イエス・キリストの義、すなわち十字架の救いを信じ受け入れるならば、滅びを免れ、神のご性質にあずかる者とされ、永遠のいのちを受けるのです。それは、正に尊い信仰を受けたのです。

2.信仰には徳を~…イエス・キリストを信じて、救いを受けた人は、その信仰をしっかりと持続していかねばなりません。そのために、信仰には、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を加えなさい、と教えています。徳とは、道徳的な生き方です。知識とは、この世の知識も含まれるでしょうが、やはり聖書のみことばを心に十分蓄えることです。自制とは、常に謙虚であるべきということでしょう。どんなことでも一つのことを成功させるためには忍耐が必要です。敬虔とは、神を恐れて生きる生き方です。「兄弟愛」は文字通り兄弟愛、ギリシャ語原語でフィラデルフィア(Φιλαδέλφια)です。「愛」とは神の愛、アガペー(αγάπη)です。私たちが神の愛を実践することは至難の業とも言えますが、神の愛を示されたイエス・キリストの福音を宣べ伝えることで、それを行なうことができます。まとめますと、信仰生活を持続するにあたり、総合的にバランスの取れた人格に整えられたいものです。松下電器の創業者・松下幸之助さんの講演をYouTubeで視聴しました。「能力のある人は物事を大成功に導くことができるが、反面、利己心を出して大きな間違いをする危険性を併せ持っている」と、そういったことを語っておられました。そういう意味においても、人間性におけるバランス感覚は大事です。第二テモテ1:7には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」とあります。「徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」は七つに対し、こちらは、「力と愛と慎み」の三つで覚えやすいですね。

3.ますます熱心に…先日、教会に電話がかかって来ました。その方は、キリストを信じてクリスチャンとなり、いわゆる普通の健全なキリスト教会に40年間ほど行かれていたとのことですが、現在は、韓国の某キリスト教系の新興宗教に入信しているとのです。何か私たちの教会のホームページを見て、布教のためなのでしょうか、それとも何か相談を兼ねていたのでしょうか、しばらく電話でお話ししました。私は、その団体が教理的に間違っているということは認識していたものの、具体的にどこが間違っているのかということをすっかり忘れていて、その方に適切な対応が出来なかったことを悔やみました。後で調べると、その団体は他の多くのキリスト教系新興宗教とほぼ似ていて「教祖が再臨の主である」と主張しているようです。マタイ24:23には「そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。」と書いてあるのですから、そういった聖書の個所をよく読んでいたら「教祖が再臨の主である」と聞いたらすぐに怪しいと思うべきでしょう。そういったことだけではなく、私たちは、様々なこの世の霊、闇の力に取り囲まれているのではないでしょうか。ですから、礼拝出席を堅持し、みことばと祈りに励み、機会あるごとに証しと福音宣教に務めましょう。最後は、この第3ポイントが含まれている節です。「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。(第二ペテロ1:10)

●2023年11月19日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ5:1~14から「堅く信仰に立って」という題でポイントを3つ上げていきます。

1.長老たちと若者たち…ここで言う長老たちとは、現在の牧師、あるいは教会の指導者に属する人たちのことでしょう。若者たちとは、文字通り若者たちか、教会の一般信者のことでしょう。さて、その長老たちについてですが、3節では、「割り当てられている人たちを支配するのではなく、群れの模範になりなさい」と言っています。しばらく前のことですが、テレビで仙台近郊のある町にあるスーパーマーケットのことが紹介されていました。そこの社長さんは朝早くから自らトラック(2トン車くらいの)を運転し、市場へ行って品物を仕入れてきます。そして店に帰ってくると、仕入れた品物をトラックから降ろし、さらに自ら店頭に品出しをして並べます。従業員さんたちも、そんな社長さんの動きを見ていますから、自然にきびきびと働き、店は大繁盛しているようです。もちろん、教会はそういった営利を目的とする企業とは違いますが、トップに立つ人が皆の模範になるという点では、学ぶべきところがあります。5節で、「若い人たちは長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身につけなさい。」と言っています。

2.思い煩いをいっさい神に委ねなさい…「思い煩い」というのは人それぞれで、その深刻度は大きな違いがあることでしょう。しかし、考えてみれば「思い煩い」のない人などはいないでしょう。「思い煩い」があるからこそ人間であり、生きている証拠であるとも言えるのではないでしょうか。7節では「思い煩いをいっさい神に委ねなさい」と言っています。「神に委ねる」とはどうすることでしょうか。ピリピ4:6~7では「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と言っています。「神に委ねる」とは、お祈りして神に願いを聞いていただくことです。その結果、神が働いてくださり、心に不思議と平安が訪れるのです。筆者自身も、時折、心がざわざわすることがあります。そんなときお祈りをしていると、しばらくして心に平安が来ます。昔から「病は気から」などと言われています。心を常時平安に保つということは、健康のためにも良いと思われます。

3.堅く信仰に立って…8節には「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。日本には獅子(ライオン)や虎はいませんが、今年は熊があちらこちらで出没し、人的被害を及ぼしたというニュースをよく聞きます。万が一、熊に出会ったら逃げてはいけないそうです。熊は逃げるものを追うという習性があるようです。逃げずに向き合って、ゆっくりと距離を広げるのがよいそうです。万が一襲われたら、なるべく武器になるものを持って応戦して自分の命を守るしかありませんが、まあ、そういう状況にはなりたくありませんね。さて、9節では「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かいなさい。」とあります。クリスチャンは、かつては悪魔の支配下にありました。しかし、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、闇から光に、悪魔の支配から神の支配下に移されました(使徒26:18参照)。ところが、せっかく持った信仰が不信仰になると、再び悪魔の支配下に逆戻りする可能性がありますから、十分注意しなければなりません。総合聖歌573番(旧聖歌706番)は「エリコの城を囲み」という曲です。その5番の歌詞に「もう駄目だ、と言う時に悪魔はすぐ付け込む。信じぬかば勝利を得ん、祈り抜け、祈り抜け。」とあります。私たちが信じるイエス・キリストの父なる神は、あらゆる恵みに満ちた神(10節)です。ヘブル11:6には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。「堅く信仰に立つ」とは、聖なる神の祝福を期待し信じて待ち望むことです。

●2023年11月12日(日)礼拝メッセージ要旨 

●2023年11月12日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ4:1~19から「万物の終わりが近づきました」という題でポイントを4つ上げていきます。

1.神のみこころのために過ごす…今年のプロ野球は阪神タイガースが優勝しました。岡田監督の采配(チーム作り)が良かったようです。それで優勝決定後は、今ではすっかり恒例になっている祝勝会でビールかけが行われました。水中メガネをかけて、殺伐とした雰囲気の中で4000本のビール瓶が空になったそうです。ニュースなどでは誰ひとり、そのビールかけに異を唱えないというのも問題です。女子サッカーのマイナビ仙台の選手の皆さんがそろって仙台市青葉区の某神社に参拝に行ったというニュースをテレビで見ました。それは偶像礼拝であり、創造主である聖なる真の神の祝福を却って遠ざける残念な行為です。3節には「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」とあります。私たちは、不品行、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝の生涯を送るのか、それとも、主イエス・キリストの救いを信じ受入れ、聖なる真の神のみこころのために過ごすのか、二つに一つです。もちろん、聖なる真の神のみこころのために過ごしましょう。 

2.万物の終わりが近づきました…キリストは、弟子たちの質問に答えて、世の終わりの前兆として、戦争、民族対立、大地震、疫病、飢饉、天からの凄まじいことが起こることを予告されました。今、正にそれらのことが起こりつつあります。そして、終わりの終わりにキリストの再臨があり、そのとき、天のみ使いたちによって、四方から選びの民を集めます。つまり、キリストの空中再臨と携挙です。第一テサロニケ4:16~17には「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。…私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。…」と言っています。私たちは、その空中携挙に与(あずか)ることができるように、イエス・キリストを信じる信仰をしっかりと持ち、祈りのために心を整え、身を慎み、愛によって仕え合っていきましょう。

3.燃えさかる火の試練…正しい人が悪者とされ、悪者が正しいとされる、そのようなことは、どこの世界においても多々見られるものです。罪のない神の御子イエス・キリストの十字架の死は、正にその究極の出来事でした。ですから、そのイエス・キリストの名のゆえに、クリスチャンが迫害されたり、苦しめられたりしたとしても、なんら不思議なことではありません。もちろん、主の祈りには「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」とありますから、私たちは、苦しみを被らないように謙虚に神の助けを願えば良いのです。それでも、キリストの名のゆえに非難を受けるなら、驚き怪しむことなく、むしろここで「喜びなさい」と教えています。それは、栄光の御霊がその人の上にとどまってくださるからです。

4.さばきが神の家から始まる…現職の財務副大臣が2013~2022年の間、税金を滞納して4回の差し押さえを受けたということです。その副大臣は税理士の免許も持っておられるとのことで、それを聞いた多くの人々が「開いた口が塞がらない」というような思いをしたことでしょう。私たちは、このことを他人事としてではなく、むしろ、自らを律する機会としたらよいと思います。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。(マタイ5:13)」と聖書は言っています。つまり、キリスト教会が教会としての使命を果たしていないのなら、それはキリストの体なる教会ではなくなります。教会は神の国を証しし、宣べ伝えるところです。ローマ14:17には「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあります。義と平和と聖霊による喜びが満ち溢れる教会として、福音宣教、神の国を宣べ伝えるという大事な使命を果たすことができるように、それぞれ教会の一員として整えられてまいりましょう。

●2023年11月5日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ3:1~22から「祝福を与えなさい」という題でポイント4つ上げていきます。

1.妻たちよ、夫たちよ…男性と女性に関して、聖書の記事では大抵において男性を先に取り上げています。ところが、結婚生活の教えについては、なぜか女性が先です。このペテロ3:1では「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」とあり、エペソ5:22でも「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」となっています。そうすると、妻が夫に対して一切異を唱えてはいけないというような印象を受けますが、そうではなく、互いに意見の相違が出てきたときは、夫婦で十分話し合い、理解し合えば良いのです。それでもまとまらない場合は、妻が夫にその最終決断をお任せするという形が理想です。もちろん、夫も十分に妻の意向を考慮しつつ、責任をもって決断するということがよいでしょう。昨今は「男女平等」ということが盛んに言われておりますが、闇雲に何でも平等にすれば良いのではなく、創造主である真の神様が与えてくださっているところの、夫(男性)の役割、妻(女性)の役割というものがあるという受け止め方をすることが大事ではないでしょうか。

2.祝福を与えなさい…私たちは実生活の中で、良いことばかりではなく、時には嬉しくないこと、人から冷たくされたり、悪口を言われることもあるでしょう。そんなとき、どう対応するのが良いでしょうか。9節では「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と言っています。ルツ記で、ボアズが自分の畑にやって来て、そこで刈り入れをしている人たちと言葉を交わす場面があります。ルツ記2:4です。「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。『【主】があなたがたとともにおられますように。』彼らは、『【主】があなたを祝福されますように』と答えた。」とあります。こういった天地万物の創造主である全知全能の主の御名によって互いを祝福する挨拶は、正に祝福です(この後、実際に、ボアズとそこの畑にいたルツが結ばれます)。ルカ10章では、キリストが70人の弟子たちを二人ずつ組みにして遣わす場面があります。そのときキリストは「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。(ルカ10:5~6)」と言われました。人を祝福して、その人が祝福されたら、それは喜ばしいことであり、その人に祝福が留まらなければ、祝福した人に返ってくるのですから、いずれにしても、人を祝福するということは、正に永遠の祝福をもたらすのです。

3.いつでも弁明できるように…15節では「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。「希望」とは何でしょうか。イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる永遠の希望のことです。たといこの世で絶大な権力と莫大な富を持っていたとしても、その「希望」を持っていなければ、空しく滅びてしまいます。「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(詩篇49:20)」と、ある通りです。キリストにある私たちは、その希望を、優しく、慎み深く、正しい良心をもって人々に証ししたいものです。

4.正しい良心の神への誓い…昔(BC 2350年頃)、ノアの大洪水がありました。そのとき箱船で救われたのはノアの家族8人だけでした。キリストの再臨が近づいていると言われる今日(こんにち)、水で世界が覆われるということはありませんが、今度は火によって焼かれるときが来る(第二ペテロ3:6~7)のです。昔は箱舟で8人が救われたように、今度はイエス・キリストを信じ受け入れてバプテスマを受けることによって救われます。それは、正しい良心の神への誓いです。私たちは、聖書に記されているみことばが真実であるということを認め、素直にみことばに聞き従い、救いと祝福の道を真っすぐに歩んでいきましょう。

●2023年10月29日(日)礼拝メッセージ要旨

第一ペテロ2:13~25から「キリストの模範」という題でポイント3つ上げていきます。

1.人の立てた制度に従う…私たちは、この日本という国に在住しています。そして、法を守り、税を納め、選挙があれば投票します。これは主にあって正しいことです。16節には「自由人として行動しなさい」とあります。この場合の自由人とは、聖書の真理に立つ霊的自由人(ヨハネ8:32参照)です。つまり、世の風潮とか大勢などに流されることなく、聖書の真理に立ち、自分で考えて行動できる人がこの場合の自由人です。そして、全ての人を敬い、高い地位に就いている人のために執り成し祈る者でありたいと願います。

2.しもべたちよ、主人に服従しなさい。…18節では、「しもべたちは、尊敬の心を込めて主人に服従すべきである」と教えています。創世記39章で、ヨセフはエジプトに奴隷として売られ、パロ王の廷臣で侍従長のポティファルに仕えることになりました。全能の神はヨセフと共におられ、ヨセフが行なうことを成功させてくださいました。それを見ていたポティファルは、ヨセフを側近の者として自分の家を管理させ、全財産をヨセフの手に委ねました。すると、創世記39:5には「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで【主】の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」と書いてあります。しかし、その後です。ヨセフに何の落ち度も罪もないのに、濡れ衣を着せられ、牢獄に入れられてしまいます。正にヨセフは第一ペテロ2:19にあるように「不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみに耐えていた」のです。それが神に喜ばれていたのでしょう。やがて、そのときが来ました。パロ王が特別な夢を見て、その解き明かしを求めていました。そのとき、かつてヨセフと牢獄で一緒だったパロ王に仕える検酌官長がヨセフのことを思い出し、パロ王に伝えます。そして、ヨセフがパロ王の夢を解き明かし、ヨセフは牢獄からいきなり総理大臣の地位に大抜擢されるのです。ヨセフがエジプトの穀物を管理するようになると、エジプトは、そのヨセフのゆえに祝福され益々繁栄します。このヨセフの姿は、今日、様々な場所に遣わされているクリスチャンと重なるのではないでしょうか。全能の神は、ご自身を恐れる者と共におられて、その人を通して栄光を現わそうとしておられるのです。

3.キリストの打ち傷のゆえにいやされた…21節には、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」とあります。私たちは、毎日の生活の中で、時には称賛を受けたり、またあるときには厳しい言葉を投げかけられることがあるかもしれません。褒められれば良い気分になるものですが、自分を慢心させるだけで、それほど益になるものではないと言えます。マタイ5:11~12を見ますと「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」とあり、クリスチャンは、人から悪口を言われたり、迫害されることを恥と思ってはなりません。むしろ「喜びおどりなさい」と言われています。そして、24節では「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」とあります。イザヤ53:5には「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。キリストの十字架による打ち傷のゆえに、私たちはいやされたのです。ここにクリスチャンの力の源があります。私たちは、キリストの十字架によって罪赦され、心いやされ、きよめられ、聖霊に満たされ、ここから力をいただき、そして立ち上がって行きましょう。

●2023年10月22日(日)礼拝メッセージ要旨  

●2023年10月22日(日)礼拝メッセージ要旨  

第一ペテロ2:1~12から「成長し、救いを得る」という題でポイント3つ上げていきます。

1.純粋なみことばの乳を慕い求める…近頃の母子の授乳においては、粉ミルクなどはあまり使わず、母乳のみ授乳させる傾向にあるようです。一般の食品においては、保存料や香料などの添加物などが入らない自然食品が見直されている傾向にあります。創造主である神の存在を認めている人にとっては、神様が人間のために提供して下さっているものがベストであるということが認識されてきたとも言えるでしょう。ところで、同じ「乳」について語られているヘブル5:13には「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」とあります。この場合は大人になっても乳飲み子と同じ飲み物を飲んでいるようではいけないということであって、この第一のポイントで言わんとしていることは、みことばに対して、乳飲み子のように一途に慕い求めるべきであるということで、みことばに対する渇望を持って、熱心に慕い求めるべきであるということです。そして、そのように、みことばを慕い求めることによって、成長し、救いを得るのです。もちろん、救いはイエス・キリストを信じる信仰によるのですが、一時的に信仰すればそれでよいとするのではなく、霊的な成長をすることによって、救いが確立されるということです。逆に、礼拝にも参加せず、成長が止まっていると、救いから外れる危険性もあります。ですから、成長を切望し、礼拝参席を厳守し、純粋な聖書のみことばを慕い求めることです。

2.生ける石…7節の「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」は、詩篇118:22からの引用です。それは、イエス・キリストは十字架で殺され、見捨てられたのですが、そのキリストの十字架のゆえに救いの道が開かれました。正に、その預言通りになったのです。また、6節には「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」とあり、イザヤ28:16からの引用です。今から二千年ほど前、イエス・キリストはユダヤ人社会に現われました。まずガリラヤで、ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど、ご自分に従う人たちを集めて共に行動されました。一方で、エルサレム周辺にいた律法学者やパリサイ人などのユダヤ教の指導者たちは、キリストに反発し、後に、キリストを十字架に引き渡してしまいます。それは、今日(こんにち)も同じであり、イエス・キリストを信じ、信頼して従う者もいれば、逆に、キリストを無視し、反発、反対する者もいます。キリスト者である私たちは、キリストのもとに来て、キリストと同じように「生ける石」として霊の家に築き上げられ、聖なる祭司としての歩みを進めましょう。自分のためだけに生きる人生ではなく、世に遣わされている祭司として、神と人とに仕えましょう。

3.王である祭司…9節には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。クリスチャンは神の所有とされ、選ばれた聖なる国民であり、しかも王である祭司です。ヤコブ1:9には「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とあります。もちろん、富んでいても、クリスチャンは王である祭司として霊的に高い身分を保有しているのです。祭司の務めは神と人との間に立って執り成すことです。キリストは十字架につけられているとき、ご自分の着ていた着物をくじ引きしているローマ兵たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈られました。主の再臨が近づいているとき、私たちは王である祭司としての自覚を持ち、肉の欲を遠ざけ、異邦人の中にあって立派にふるまい、主の御名が崇められることを求めていきましょう。

●2023年10月15日(日)礼拝メッセージ要旨 

第一ペテロ1:13~25から「草はしおれ、花は散る」という題でポイント3つ上げていきます。

1.聖なる者になりなさい…先週の第一ポイントは「選ばれた人々」です。それは、きよめられた生き方をするために聖なる神に選ばれたということです。外側の体の汚れは、お風呂にでも入って洗えばきれいになります。しかし、体の中、すなわち心の汚れ(罪)は、聖なる神の御子イエス・キリストが十字架上で流された血によってきよめられるのです。ヘブル10:22には「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。私たちは、イエス・キリストを信じ受け入れてバプテスマを受け、そこからさらに神に近づくのです。神に近づくための手っ取り早い方法は、イエス・キリストの名によって集まっている集会(礼拝)に参加することです。筆者は先週、ラブソナタ関連の集会もあって、水曜日から土曜日まで四つの集会に参加しました。そのうち二つは当教会での集会です。正直、多少の疲れはありますが、心は恵まれています。それは、聖霊様に触れていただいたためと思われます。16節には「わたしが聖であるから、聖でなければならない。」とありますように、聖なる神のご性質に与るには、その方に近づくこと、イエス様の御名によって教会に集まり、共に礼拝することです。

2.父祖伝来の空しい生き方からの解放…ラグビー・ワールドカップの前々回の大会でしたか、五郎丸選手の「ルーティン(routine)」が話題になりました。フランス語で「習慣的に行動すること」です。クリスチャンは日曜日には習慣的に礼拝に参席します。これは最高のルーティンですね。しかし、世の中にはアルコール中毒とか、麻薬中毒で苦しんでいる人もおられます。止めたくても止められなくなり、更生施設などにお世話になる人もいます。それらの良くないルーティンも問題ですが、父祖伝来の空しい生き方も大きな問題です。日本は偶像礼拝が盛んな国で、偶像を見つけると御利益を期待して、むやみに拝礼をする人がいます。40~50年くらい前でしょうか、ブームに乗って日本各地に巨大な観音像が設置されました。しかし、最近、それらの中で老朽化が進み、台風などで倒壊する危険があって、問題となっているものもあるとのことです。本当の神様は老朽化しません。また、日本では先祖崇拝が蔓延しています。先祖(人間)は敬愛の対象にはなり得ても、崇拝の対象にすべきではありません。それは偶像礼拝という大きな罪です。そういった悪い習慣から脱却するには、19節の「傷もなく、汚れもない、小羊のようなキリストの尊い血によったのです」が答えです。

3.草はしおれ、花は散る…私たち人間は、外側の見えるところは野の草のようです。花を咲かせているような時は一瞬にして過ぎ去ります。ですから、私たちは、自分自身のたましい、内側に対して、もっともっと目を留めなくてはなりません。先日の10月12日は仙台サンプラザでラブソナタという大きな集会(伝道大会)がありました。主催しているオンヌリ教会のイ・ジェフン牧師がメッセージを語りました。私たち人間は、三つの渇望を持っている。それは①真理に対する渇望…ヨハネ8:32には「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあるように、聖書の真理を知ることによって、しばられているものから解放され、本当の自由を得るのです。②栄光に対する渇望…人は自分の栄光を求めます。称賛を受けたり、他の人より優っていることを求めます。人間を形造られた神様は、私たち一人一人を最高に創造されました。人と比べたり、人まねをしたりする必要はありません。イエス様を信じ、自分に与えられた使命を生きることで、神の栄光が現われるのです。③永遠に対する渇望…伝道者の書3:11には「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますように、私たち人間は潜在的に「永遠」を求めています。ですから、イエス・キリストにより、とこしえに変わることのない主のことばを信じて、永遠のいのちを受けましょう。そして、真理に従い、互いに愛し合い、身を慎み、キリストの現われのときもたらされる恵みを待ち望んでいきましょう。

●2023年10月8日(日)礼拝メッセージ要旨 

本日からペテロの手紙です。まず、第一ペテロ1:1~12から、ポイント4つ上げていきます。

1.選ばれた人々…ペテロ第一の手紙は、ペテロから小アジア(現在のトルコ)に散ったキリスト者へ宛てたものです。そして、そのキリス者のことを、「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」と言っています。今日、私たちがキリスト者(クリスチャン)となるには、キリストの福音を聞き、信じ、決心してバプテスマを受けます。それだけに止まらず、クリスチャンとして神の栄光を現わし、実を結ぶことを求めます。それは、すべて自分自身の決断によるものですから、神に選ばれたという認識はありません。しかし、ヨハネ15:16でキリストは、「あなたがたが、わたし(キリスト)を選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」と言っています。つまり、神は私たちが、聖く生きるために選ばれたのです。聖い生き方をするというのは、私たちが思う以上に大きな祝福です。世の人々と同じように偶像礼拝、不品行、酩酊、遊興などを行なってみたところで、何の益もありません。いやむしろ、自分自身を損なうだけです。私たちは、主の前に悔い改めて、キリストを信じ受け入れ、聖い生き方を求めてまいりましょう。

2.朽ちない資産…最近の発表で、世界で一番のお金持ちは、ルイ・ヴィトン社のCEOなのだそうで、資産総額は約27兆円だということです。第二位はテスラ社などのCEOで約23兆円。第三位はアマゾンのCEOの約15兆円だということです。日本国内では第一位がユニクロの柳井さん、第二位はソフトバンクの孫さんです。大富豪らしく、それなりの優雅な暮らしをしておられることと想像しますが、ちょっと考えてみてください。例えば、今の季節柄、新米が出ています。もっちりと、つややかな宮城産の新米などは感動を覚えるほどです。日本の大富豪の方々もきっと新米を食されると思いますが、一般庶民が食する新米と何も変わるものではないでしょう。また、例えば寝床にしても、畳一畳分ほどのベッドがあれば十分で、大富豪だからといって、百メートル四方もあるような巨大なベッドを寝床にしているということはないでしょう。もちろん、お金は無いよりはあったほうが良いに決まっていますが、でも、莫大な資産があれば、それなりの管理が必要ですし、維持していくための知恵や気配りも必要です。ここで、考えてみてください。4節にありますように、真の神は、イエス・キリストを信じる信仰により、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださったのです。ガラテヤ3:29です。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」

3.栄光に満ちた喜びにおどっている…8節には「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とあります。この手紙の著者であるペテロはキリストの12弟子の一人ですから、キリストを間近で見ていますが、手紙の宛先の小アジアの人々は、キリストを見ていないのに、栄えに満ちた喜びにおどっていたのです。この喜びは、イエス・キリストを信じる信仰の結果、たましいの救いを得ている証拠と言えるのです。私たちは、この栄えに満ちた喜びを消さないように、自分自身の心を見守っていきましょう。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。(箴言4:23【新改訳2017】)」。

4.福音を語った人々…10~12節では、この手紙の宛先の人々のために、聖霊によって福音を語った人々を通して、旧約聖書で預言されていたキリストの福音が告げ知らされたということが述べられています。ローマ人への手紙10:15には、「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」とあります。私たちは主を慕い求めて聖霊充満され、聖霊に遣わされて、キリストを証しし、福音を宣べ伝えましょう。